第26話 想いと覚悟

 麟太郎が輝貞と会っていた頃、緋里は妓楼の風呂場にいた。

 一度に五、六人は入れる内湯だが、いまは緋里以外だれもない。痩せた体を他の花魁たちに見せたくないと言うと、遣手やりては黙って時間外の入浴を許してくれた。


 がらんとした風呂場に緋里が流す水音だけが響く。湯はとっくに冷めており、もうぬるま湯になっていたが、もともと湯に浸かりにきたわけではない。体と髪さえ洗えればよかった。

 体を洗いながら、緋里はため息をついた。


「痩せんしたな……」


 着物を着ているときにはわからないことも、こうして裸になってしまえば、嫌でも突きつけられる。あちこち骨の浮いた体を撫でながら、緋里はうっすらと笑った。

 捨助が何かと緋里のところに食べ物を持ってくる理由がわかった。気づかれていないつもりだったが、どうやらバレていたらしい。


「捨助は助平すけべでありんすからなあ」


 緋里の体形の変化を着物の上から見通せるほど、よく観察しているのだろう。

 一人忍び笑いを漏らしながら、数日前に捨助がいつになく真剣な顔で告げてきたことを思い出した。


「……あいつの動きが怪しい」


 ひどく思い詰めた表情で捨助は言った。

 麟太郎が妓楼の買い出しで外出しているときだった。大事な話があると神妙な様子で緋里の部屋に入ってくるなり、捨助はその場に立ったまま、じっと畳を睨みつけていた。


 日頃の口煩くちうるささが嘘のように、昔から大事な話ほど口が重くなる。緋里がとりあえず座るようにいうと、ぎくしゃくとした動きで腰を下ろし、ようやく口を開いたのはそれから四半刻が過ぎてからだった。


「前からちょっと気にはなってたんだ。やたら他の妓楼の奴らと顔が利いたり、あれだけ吉原を嫌ってる奴がおかしいだろ。ときどきふらっといなくなったかと思えば、いつの間にか戻ってきてる」


「そんなにおかしいでありんすか? 他の妓楼の花魁護衛と情報交換するのは、よくあることでありんしょう。それに吉原嫌いの麟太郎が、息抜きに江戸の町に繰り出しても別に」


「それだけじゃねえ。あいつが来てからだろ、吉原がおかしくなっちまったのは」


 捨助がずいと身を乗り出す。


「これまで吉原の結束が崩れたことがあったか? ないだろ。俺たちがやってこれたのは吉原が一枚岩だったからだ。だけどあいつが来てから、奉行所の取り締まりは厳しくなるわ、内輪もめは起こるわ。いまじゃ、どの妓楼も自分とこを守るだけで精一杯だ。結束もがたがたじゃねえか」


「そ、それは偶然……」


 緋里が言い淀むと、捨助はいぶかしむように眉を寄せた。


「……おまえ、それ本気で思ってんのか?」


「わっちは……」


「小紫は? 小紫が襲われたのだって――」


 ハッとしたように捨助が口をつぐむ。


「わ、悪ぃ……。そんなつもりじゃ」


 緋里は知らずのうちに握りしめていた拳の力を抜く。噛みしめていた唇が少し痛んだ。


「あれは――小紫が襲われたのはたぶん本当に偶然でありんす。小紫はわっちの言葉がなければ、買い物に行ったりしんせんから。そこを狙うなんて無理でありんすよ」


「それはそうだったとしても、あいつの行動には怪しいことが多すぎんだ」


 なおも言い募ろうとする捨助を、緋里は手で制した。


「捨助は麟太郎がわっちらの情報を源平派に流してる、と言いたいのでありんすか?」


 真っ直ぐに訊いた。

 捨助が気まずそうに視線を逸らす。


「そ、そりゃ俺だって、そんなふうに思いたくねえさ。仮にも吉原の花魁護衛だ。入ってきた頃は、俺は武士だみたいな顔して、気に食わなかったけど、最近は自分から花魁の手伝いもしたりして、そこまで悪い奴じゃねえのかもって思ってきてたさ」


「なら、そんなふうに疑ってどうしんす。それよりこれからどうするかを考えるでありんすよ」


 緋里はそう言いながら文机ふづくえから筆とすずりを取り出した。胸の内がざわざわと落ち着かなかった。すみの匂いを嗅げば少しは気が鎮まるかと思ったが、気休めにもならなかった。

 スッ、スッと墨を硯にすべらせる音だけが、やけに響く。


「緋里」


「なんでありんすか?」


 墨を磨りながら答える。捨助がこちらを見ているのがわかった。

 わずかに言うかどうか迷うような沈黙があった。


 聞きたくない。緋里は咄嗟にそう思った。


 捨助が小さく息を吸った。


「――おまえはあいつを信じたいだけなんじゃないのか?」


 墨をる手が止まった。


「本当はおまえだって思ってたんじゃねえか。あいつが」


「……黙りなんし」


「いや、黙らねえ。俺は吉原がなくなるなんて、絶対に認めねえ。そんなことさせねえ。もし、もしあいつが本当に吉原の情報を売ってたら、俺は――」


「黙りなんし!」


 緋里は叫んでいた。自分でも驚くほど大きな声だった。

 捨助も息を飲んで、緋里を見ている。その目から驚きの波が引いていくにつれ、一つの答えを導き出そうとしているのがわかった。


「緋里……。おまえ、まさか、あいつのこと――」


 緋里は再び墨を磨る手を動かした。墨の匂いが鼻につく。


「出ていっておくんなんし、捨助」


 捨助の視線から逃げるように、体ごと背を向ける。


 重い沈黙に満ちた部屋の空気が動いたかと思うと、捨助が静かに立ち上がり、部屋を出ていくところだった。ちらりと見えた横顔はいまにも泣き出しそうだった。

 そのときの捨助の顔は、いまもまぶたの裏に焼き付いて消えない。


 風呂場の天井についた水滴がぽつりと鼻先に垂れ、緋里は顔を振った。ぼんやりと考え事をしていたせいで、すっかり体が冷えてしまった。冬の、それも冷めた風呂に入るのは、さすがに強引だったかと少し後悔したが、どうしてもいまでなければいけない理由があった。


 まだかろうじてぬるい湯舟の湯を体にかけ、なんとかやり過ごす。

 一通り洗い終えたところで、しっとりと水を含んだ髪を根本から順に絞っていく。体はだいぶ痩せたが、髪だけはつややかさを失わず、美しさを保っていた。手早く乾いた布で体の水気をふき取り、洗い場から一続きになった脱衣所で肌襦袢はだじゅばんを身に着けた。持ってきたくしを取り出す。


 夜空を切り取ったような緋里の漆黒の髪に、小紫はいつだって嬉しそうに櫛を入れてくれた。

 小紫の優しい手つきを思い出してみるが、絡んだ部分をかすときはどうしても雑になってしまう。


「うまくいきんせんなあ……」


 緋里は自嘲気味に苦笑した。

 それでもなんとか梳かし続け、ようやく流れるような美しさになったところで、緋里は一房の髪を掴んだ。

 艶やかな黒髪。水を吸って、ゆらりと光を跳ね返す。花魁は日頃から髪の手入れを欠かさない。さすがに毎日洗髪することはできないが、素人の娘とは美しさが段違いであった。


 緋里はその手触りを確かめるように何度も撫でていたが、おもむろに、畳んだ着物の中から小刀を取り出した。

 片手に一房の髪、もう一方の手には小刀。


 どこか遠くでも見るように何もない一点をじっと見つめる緋里の瞳に、寂しさとも喜びともつかぬ色がよぎる。思い詰めたような面差しには、しかし確かな覚悟が宿っていた。


 緋里が小さく息を吸い、空気を取り入れた胸が上下する。

 小刀を持つ手が髪の間を横切った。ザッ、という音とともに幾筋もの髪が、はらはらと散り、握られた一房の髪が永遠に緋里から断ち切られた。

 一房の髪を懐紙で丁寧に包む緋里の顔には、花落ちを病んだ陰鬱いんうつな衰えはなく、冬の空気がはらむ静謐せいひつ凛々りりしさだけが満ちていた。

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