19.聖女の行方

 聖堂についた時には、すでに九時をまわっていた。

 闇の中にもれだすほのかな灯りは、希望の光のようだ。それはとても小さく、今にも消えてしまいそうなほどにひそやかだ。だが、その背後にそびえ立つ屋敷はそれ以上に不気味で、見ている者を圧倒する。そこが吸血鬼に呪われた屋敷と思えば、人々が怯えるのも無理はない。聖堂はそんな屋敷と町を隔てる最後の砦のようだった。


 ――まだシスター・エリスがいればいいが。


 神へすべてを捧げた彼女が、あのまま――叔父とはいえ――戒律に背いて、男と聖堂に留まるだろうかと思った。

 聖堂の柵の間をとおり、花壇の間をすり抜ける。ルードヴィッヒはまっすぐに聖堂の扉の前に立った。片手を握りしめ、ドアの前へ。躊躇は一瞬のことだけで、ノックをした。誰にでも門戸を開いているのだから自由に出入りすればいいものだが、どうにも気が引けたのだ。事件の影響だなどとは思いたくなかったが、それこそ失笑ものだ。


 ――僕らしくない。


 口の端をあげる。すぐに扉を開けた。

 聖堂は光に満ち、暖かな空気に満ちていた。厳格だが、信じる者はきちんと自らの懐に迎え入れ、救いへ導くだけのものを持っている。中には誰もおらず、それが余計に清浄さを感じさせる。

 並べられた椅子の中央を歩く。

 祭壇までやってくると、奥の扉が開いた。


「エリス?」


 ヨハネス神父だ。片手にランタンを持っている。

 目線がルードヴィッヒの姿を認めると、自分の言葉を恥じたように口をつぐむ。ルードヴィッヒは彼に向けて頭を下げた。


「これは、申し訳ない」


 ヨハネスは同様に頭を下げた。


「いえ、こちらこそ夜分遅くに申し訳ありません」


 ルードヴィッヒは彼に近寄る。


「少しお話がありまして。エリスさんがどうかされましたか?」

「ああ、いえ、エリスが帰ってきたのかと思ったものですから……」


 やや落胆したような顔だった。


「どこから……ですか? 出かけたのは何時ごろです?」


 どう聞き返せばよいかと迷った結果の言葉だ。


「どこから、と申されましても……、少し外の空気を吸ってくる、と言って外へ出て行ったのです。夜はよしなさいと言ったのですが、少しでも気を紛らわせたい、私には主がついている、といって聞きませんでした。ですから、その代わりにすぐ帰ってくるように言ったのですが」


 落胆は次第に不安を呼び覚ましたようだ。彼は時間を気にするように落ち着かない様子だった。気が気でないのだろう。


「もう、三十分かそれ以上になります」


 こう言っては偏見かもしれないが、聖職者であるシスター・エリスにとって、聖堂の空気以上に清浄で満ち足りたものはないだろう。だがそんな彼女が外へ出たいと思うほどに重苦しい空気だったのだ。それほどまでに気を張り詰めていたのかもしれない。


「そろそろ探しに行こうかと思っていたところです」


 彼は手に持ったランタンを掲げた。


「ああ、すみません。こちらばかりが喋ってしまって。それで、何の御用でしたか」

「シェリーさんは、吸血鬼やその仲間がまだいるかもしれない、との考えで動いています。彼女は第一発見者ですから、護衛がいるでしょう」


 ルードヴィッヒは早口にまくしたてた。

 ヨハネスは大きく息をし、二人はしばしお互いを見つめる。ルードヴィッヒは踵を返して、まっすぐに聖堂の扉に向かった。


「探してきます」


 すぐさま扉を開ける。後ろからランタンを揺らし、ヨハネスがついてきた。慌てて追いついてきたが、今は構っていられなかった。

 先ほど来た時と寸分変わらぬ景色だというのに、急に夜闇が迫ってきたように思える。暗い闇の中から見知らぬ手が伸ばされているようだ。そんなものはただの幻想に過ぎない。ルードヴィッヒ自身がそれをよくわかっていた。現実の怪異と自らの内から湧きおこる恐怖の区別くらいはついているはずだ。だがどうにも今はその恐怖が顕在化しているようだった。

 シスター・エリスが行きそうなところなどまったくわからない。聖堂の庭を軽く見回してみても、人影は見当たらない。

 だが、真っ先に思いついたのは旧聖堂だった。

 旧聖堂には今は誰もいない。ラインマーは屋敷に行ってしまった。そうだ、旧聖堂も今は誰もいないのだ。あの死体以外は。吸血鬼として死んだアドルフ・ヴェンデルスの死体以外には。


「エリスさん!」


 ルードヴィッヒは声をあげた。辺りを見回しても返事すらない。旧聖堂は今や、闇に包まれた不気味な巣と化している。昼間にシェリーが描いた円陣だけが虚しく旧聖堂を守護している。ルードヴィッヒはその円陣を睨みつけた。線をまたいで扉を開ける。中は暗く、懐からペンライトを取り出して中を照らした。

 エリスの姿はない。今だそこに横たわるアドルフの死体だけが、寂しく待ちわびている。その体から突き出たナイフの持ち手が、ペンライトに照らされて光る。追いかけてきたヨハネスがうめいた。それは走ってきたことか、それともアドルフの死体があると思いだしたことか。

 ヨハネスを振り返ると、その背を軽く撫でる。ルードヴィッヒだけがそのまま中に入り、辺りを照らした。人影はない。ただのひとつも。

 うしろからそろそろとヨハネスが入ってきたところだった。ランタンがより強い光で辺りを照らす。改めて死体を見たせいか、ヨハネスが息を荒くした。死体よりも手前に立ち、顔をしかめる。無言のまま十字を切った。

 だが、すぐさま出て行くかと思われたヨハネスは、じっとそこに突っ立っていた。ルードヴィッヒが見つめると、彼は眉を寄せていた。目線は死体のナイフに向けられている。顔を近づけ、目を見開く。


「どうかされましたか」

「あ、い、いえ」


 彼はぱっと顔を離した。


「なんでも……」


 首を振る。だがその顔には明らかな困惑が浮かんでいた。彼は足早にもときた道を戻る。

 ルードヴィッヒは死体に向かって十字を切り、自身も旧聖堂を離れた。


「ヨハネス神父。心当たりはありますか?」

「一応、エリスの自宅のほうも見てきます。もしかしたら何か――何か荷物を取りに行ったのかもしれない」


 僅かな希望にすがるように、ヨハネスは町を見た。


「では、手分けしましょう。僕はもう一度聖堂の周辺を調べてみます」

「おねがいします」


 ヨハネスはうなずくと、町への道を急いだ。

 小さな背中の先は、しんと静まり返っていた。ついさっきまで自分やラインマーが大騒ぎしていたというのに、誰も野次馬は出てこなかった。その時からずっと同じだ。確かにそこに人の営みがあるのに、誰もかれもが閉じこもっている。

 町そのものが死んでしまったようだ。

 ルードヴィッヒはもう一度聖堂へと足を進めた。出あって間もない、ともすれば今日の昼に一度だけ出あった人間のことなど知るはずがない。ただ彼女の信心が見かけだけのものではない、という事実があるのみだ。

 それでも彼女を探しださねばならない。


「エリスさん! シスター・エリス!」


 外の空気を吸いにどこまで行ってしまったのか。聖堂の庭を改めて駆けまわっても、人の気配はまったくなかった。

 ペンライトの灯りを最大にする。灯りに照らされた花々は沈黙を保っていた。

 奥へと歩みを進めると、聖堂を囲う柵が見えた。裏側まで来てしまったようだ。そこにも誰もいない。

 だが、先ほどまでは気が付かなかったが、森に続く柵が開いていた。いわば森に続く裏道だ。

 表側の門はともかく、開けっ放しになっているのは不自然だ。ルードヴィッヒはひとつ瞬きをしたあと、裏門をくぐった。

 少しひらけた場所があるが、すぐ向こうは木々が折り重なっている。ルードヴィッヒはこの木々が、鉱山まで続いている森であることを思いだした。


「エリスさん?」


 ここを行ったのか。

 足元を照らして、足跡がないかを探す。ならされた土に、僅かについた足跡があった。ざわざわと騒めくのは、風に揺らされた木々なのか。それとも自分の内側から湧きおこってくるものか。

 靴のつま先が向いていたほうへと導かれ、足は進む。獣道すらない森の中は、すぐさま足跡もなくなってしまった。

 ライトで先を照らす。

 ごく当たり前の動作だった。

 こんな状況であるなら、おそらく誰しもがするはずのことだろう。

 それでもルードヴィッヒはどれほどか前の自分を呪った。予感は現実のものであり、決して自分の内にしか存在しない感情ではなかったことを悟った。


 ――なんてことだ……。


 地面には、横たわったシスター・エリスの死体が照らされていた。

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