23.告解

 朝は誰にでも等しくやってくる。

 待ち望んだはずの光は救世の燈火にはなりえなかった。誰もが、眠っている間に何か起きてやしなかったかと疑った。誰もが、何かまだあるのではないかと疑っている。誰もが、やがて昨夜の悲劇を知ることになるだろう。そうして誰もが沈痛な面持ちをした朝がはじまった。

 結局診療所で一夜を明かしたルードヴィッヒは、朝が訪れるとすぐに聖堂を尋ねた。

 この町のあらゆる住人たちと違って、彼にとっては戦いを終わらせるための朝だった。


「おはようございます」


 声をかけると、庭の花壇に水をやっていた神父は、ゆったりと腰をあげた。

 朝日に照らされた彼は、昨日会ったときよりもずっと年老いて見えた。ただでさえ失われていた生気はすっかり無くなってしまったようだ。


「よくいらっしゃいました、ルードヴィッヒさん」


 ヨハネスはかすれた声で言った。


「大丈夫ですか?」

「……おかしいですね、昔は一人でここを切り盛りしていたはずだったのに。シスター・エリスがいたのはそれに比べればずいぶん短い期間です。それなのに……」


 ヨハネスは庭を眺めた。

 まだ冷たい風がさわさわと吹き抜ける。


「さあ、中へどうぞ」


 ルードヴィッヒはヨハネスに促され、聖堂の中へ入った。まっすぐに祭壇まで歩くと、背後で扉が閉じた。振り返ると、歩いてきたヨハネスへ視線を投げる。

 彼は一番前列の席へ座った。

 昨日と違うのは、そこに待つべきエリスの姿がないことだ。

 ヨハネスは黙りこんでいた。ただ時折唇を舐め、何かを伝えようとすべく大きく息を吐く。


「……ルードヴィッヒさん、わたしは……」


 助けを求めるように、ヨハネスはルードヴィッヒを見上げた。

 応えるようにうなずくと、促した。


「それでは、僭越ながら。多少の作法は飛ばしても、僕がお尋ねしましょう」


 告解のための部屋でもないが、ルードヴィッヒはそうであるように言った。


「しかしまず僕が知りたいのは、あなたがアドルフさんをどう思っているか、です」

「彼のことを……」

「はい――吸血鬼と思っているかどうか」


 おそらくこの町にいるほぼ全員が、アドルフは吸血鬼だったと思っている。


「彼は……」


 ヨハネスは言いよどんだ。


「彼は……吸血鬼……」


 声を絞りだす。

 長い沈黙のあと、彼は自らそれを破った。


「わたしは……彼が吸血鬼だったかどうか――言える自信がありません」


 ヨハネスは目を伏せ、膝の上に置いた手を握りしめた。


「アドルフさんが吸血鬼ならば、旧聖堂にはひとりでは入れなかったのではないか、と思うのです。吸血鬼は――住人の許可がなければ、家の中に入ることができません。吸血鬼は招き入れられないと自由に出入りできないのです……」


 ルードヴィッヒは答えなかった。

 ヨハネスが最初に言ったことだ。吸血鬼は招かれなければ家に入れない。


「続けてください」

「買い取られたといっても、旧聖堂の権利はまだわたしにあった。少なくとも昨日の昼までは。それならば、いくらアドルフさんが吸血鬼でも入ることはできません。つまり、アドルフさんが吸血鬼なら、あの旧聖堂に誰かが招いたとしか考えられないのです。アドルフさんよりも前に旧聖堂に侵入し、吸血鬼の来訪を許した誰か……」


 そこまで言うと、彼ははっとしたように顔をあげた。


「わたしでは、ありません。絶対にちがいます」


 ルードヴィッヒは祭壇の十字架を見上げた。

 神に誓って。


「死体の状況を見たときから、ほんとうはエリスが刺していたのではないかと、ずっと疑っていました。もしかしたら、呼びだされたあの子が……何かの間違いをおかしたのではないかと。町の住人たちも、エリスが斃したと思っている人もいたでしょう。いまだに誰が手をくだしたのかわからぬまま賛美が向かうのは、あの子もよしとしなかったでしょう。――でも、彼は吸血鬼ではなかったら? いったいどうしたら人間があんな風になるのかはわかりません。でももし彼が人間だったら。エリスへの賛美はあっという間に殺人の疑いになってしまう。それを恐れていたんです……」


 記者によって広められた情報は、瞬く間に憶測を呼んだのだ。


「だから、わたしは……、わたしはずっと――アドルフさんは吸血鬼だと思いたかった。アドルフさんが吸血鬼なのであれば、もしエリスが刺したのだとしてもそれは罪にならない。むしろ倒すべき敵への一撃は誇れるものになる……」


 握った拳と同じく、声も震えていた。


「覚えていなくとも――たとえば、妙な術でもかけられていれば、覚えていないかもしれない……」


 若くして神にすべてを捧げたシスターは、吸血鬼を斃した。だが、吸血鬼の協力者の凶弾に倒れた。そう結論づけるならば、とても、かなしくうつくしい昔話だ。

 しかしそうするには穴がある。


「あなたは今はどう思っているのです?」

「あの子が嘘をつくはずがない! それにわたしは……できるかぎり、アドルフさんとエリスを近づけないようにしてきたんですから!」

「……なぜです?」


 冷たく尋ねると、冷気にあてられたかのように、ヨハネスははっとして落ち着きを取り戻す。


「彼は、その……屋敷の若いメイドに手を出しているという噂があったのです。もともと、彼の屋敷のメイドは変わりやすいという話がありました。奥さんが出ていったのもそれが原因だと囁かれていました。でも、それ以上に彼は町の中心人物といてよくやっていてくれました。金の産出量が減っても、彼はなんとか持ちこたえさせてくれていましたからね。わたしには、わたしたちには関係がないと……」


 握った拳を開いては閉じ、じっと見つめる。

 ルードヴィッヒは彼を見下ろすと、今度はできるだけ柔らかく尋ねた。


「今回の売却の件ですね」

「……はい。この町は金の採掘も終わりが近づき、人も減少していました。全体の寄付が減ったことで、聖堂の維持も難しくなってきたんです。特に旧聖堂はそれよりも古いものですから。本部へ言っても、町自体が縮小傾向にあるような小さな教会は後回しにされてしまいましたからね。そんなときでした、アドルフさんが旧聖堂を買い取りたいと言ってきたのは……」


 開いた手を握る。


「わたしはさいしょ、旧聖堂を売り払うことを渋りました。この聖堂ができたあと、老朽化によって開く時間が制限されたとはいえ、あそこはいまだに町の人々の信仰の中心でした。吸血鬼がいなくなっても、金が掘りだされるようになっても、あの短剣に金細工が使われていようと、旧聖堂は”吸血鬼殺し”という”銀の短剣”の巨大な鞘であり続けたのです。当時の吸血鬼事件は、町の存続自体を揺るがしかねない巨大な災いのようであったと聞いていましたから。それはこの町の古い人々の信仰に強く根差していました――だから、この町では、金よりも銀の方が価値がある、などと揶揄する者もいたんです。それでも、華やかな時代を過ぎ、緩やかに死んでいくこの町の最後の誇りだったんです。どんなに古錆びた考えでも、わたしはそれを尊重したかった。わたしは反対だったんだ!」


 ヨハネスはそこで息を吐いた。

 荒げた息を落ち着かせ、両手で顔を覆う。


「――でも彼は、そんなわたしに対してこう言ったんです。『あのエリスというシスターはきみの姪らしいな。どうだね、わたしのために祈ってはくれないかね。なかなかの美人だし、神に捧げるにはもったいない』と、にやにやしながら言ったんです――だから……だからどう、というわけではありません。直接何かされたりしたわけじゃありませんから。でも、わたしはできるかぎりエリスを遠ざけたかった」


 秒針が静かに時を告げていく。

 それが時そのものの音であるように。鼓動の音に重ね合わせるように。


「結局わたしは旧聖堂の売却を決めました。あの日開かれた夕食会が、もう何年も昔のことのようです。たった二日前のできごとだというのに! ……あの夕食会は、わたしがようやく旧聖堂を譲り渡し、彼が旧聖堂の土地と建物を手に入れたことの祝いだったんです。だからわたしとエリスも呼ばれたんです」


 そこまで言いきると、ヨハネスはだらりと両手を下ろした。


「なぜ……なぜエリスは殺されなければならなかったのでしょう?」


 呟きはルードヴィッヒにではなく、祭壇に向けられている。


「わたしがこんなことを言うのもおかしな話かもしれないが、エリスには女性として……平凡な幸せを掴んでほしかった。でも、ともに神のために歩んでくれることもうれしかったんです。彼女を導き、守るのがわたしの役目だった。なのにこんな……こんな……」


 ルードヴィッヒは彼に近寄った。ふたたび両手で顔を覆った彼の横に座り、祭壇を見上げる。


「ありがとうございます」


 それから、ただ一言そう告げた。

 ヨハネスは椅子の背にもたれ、小さくうめきごえをあげた。

 それから充分な時間を、黙するためだけに費やした。やがてヨハネスはすべて吐きだしたようにもう一度息を吐いた。

 胸の前で十字を切る。


「いや、申し訳ありません。お見苦しいところを」


 ルードヴィッヒはその様子を見て、再び口を開いた。


「いいえ、お気にせずに」


 気を取り直して、ルードヴィッヒは軽く咳払いをする。


「あなたは旧聖堂を買い取ってなにをするかを知っていたんですか?」


 ヨハネスは顔をあげた。


「旧聖堂だけではなかったようですが、森を切り開いて、鉱山の歴史資料館を作るようなことを言っていました。新たな道を進むべきだと。旧聖堂は神の象徴であると同時に、吸血鬼という負の象徴でもあると言っていました。存在するべきではないと思ったのでしょう」

「それは夕食会では……?」

「覚えている限りでは、伝えていません。ただ、あそこにいた人々には色々と頼むつもりだったと思います。みなさん、アドルフさんとは仕事上でも旧知の仲だったようですから……」


 ルードヴィッヒはうなずきながら視線を外した。


「これで、最後ですか?」


 ルードヴィッヒが何も言わなくなったので、ヨハネスが尋ねた。


「――ああ、いえ。最後にもうひとつだけ」

「なんです?」

「昨日、エリスさんを探して旧聖堂まで行ったとき、アドルフ氏の死体を見て、何か気付いたことがあったのではないですか」


 そう切りだすと、ヨハネスは顔を顰めた。


「ええ、はい……ありました」


 声はやや困惑気味だった。


「死体……ではなく、正確には”吸血鬼殺し”なのですが」

「なんです?」


 ルードヴィッヒはそれとなく促した。


「いえ、もしかしたら、単に――そのう、誰かがアドルフさんを刺した際に外れた……とも考えにくいのですが」


 ヨハネスは言いにくそうに一度咳払いをした。


「持ち手の部分といいますか、そこにあったはずの装飾がなくなっているんです。”吸血鬼殺し”は定期的に手入れをしていますから、そんなことはありえません。前日までは確かに装飾があったんですが。それに、自然に取れてしまうこともなかったですし……」

「……それは、金の装飾が主になくなっていましたか?」

「ええ! そうでした。でもなぜそれを?」

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