18.医師は忠実に職務にあたる

 ギヨーム老は部屋に入ると、外科用の頭部デバイスを装着した。頭を覆う古びた茶色いベルトを素早く巻きつけて、パチンパチン鳴らして固定する。ベルトは黒ずんでいて、使われた年月の長さを思わせる。そこから手元にまで伸びるコードの先にあるボタンを何度か押すと、頭部のライトが点滅した。

 部屋の中を歩きまわりながら、今度は肩口から鼻の付け根までを覆う革の医療用マスクを嵌めた。首の後ろでベルトを固定すると、何度かマスクの位置を直す。

 白い髪も皺に覆われた顔もあっという間に隠れ、ぎらぎらした鋭い目元だけが機械の合間から現れる。その目も、頭部デバイスから下ろしたゴーグルを嵌めるとすぐに見えなくなってしまった。

 いくつものコードと機械を排除してしまえば、かつてのペスト医者にも通じる。その不気味な見た目は、都会者から見れば随分と古めかしい装備ではあった。だが大事なのは腕の良し悪しだ。装備の古さなどこの際関係ない。むしろ、このほうがいっそ信頼すらできる。

 壁にある小窓のシャッターを開き、中のボタンを拳で押す。医療用の手袋をはめている間に、奥の扉にとりつけられた歯車が回転し、お互いにかみあい、ベッドが真ん中に置かれた簡易の手術室が現れた。

 小さな町で、しかも医者がひとりいるだけのこの町で、これだけ大がかりな設備が存在するのも驚きだった。だが、よくよく考えれば自然なことだ。いっときでも大量の鉱夫たちを抱えたこの町は、医療師と葬儀屋がどちらも繁盛したことだろう。

 産業革命により蒸気と水晶が世界を取り巻き、どれほど革新的な技術が産みだされようと、夢と期待に胸を膨らませながら鉱山で死ぬ男たちは今なお多い。鉱夫たちは常に命の危険に晒されている。それに応じて医者と看護師たちの当時の忙しさといったら。それ以上に葬儀屋の忙しさといったらなかっただろう。

 多くの死体。

 今なお残る吸血鬼への恐怖。

 信仰。

 町に恵みをもたらした金よりも、吸血鬼を退けた銀への信頼。


 ――結局のところ、呪われていたわけか。


 ルードヴィッヒはギヨーム老が忙しく準備をするのを眺めながら、無言で待った。

 ギヨーム老は奥の部屋にシェリーを寝かせるように言い、ルードヴィッヒたちを締め出した。閉じられた部屋の前のランプがつく。どうやら処置中ということらしい。

 茫然とするラインマーを尻目に、ルードヴィッヒは踵を返した。部屋を見回すと、応急処置用の傷薬が棚に陳列してあるのを発見した。ガラス戸を開き、薬を近くのテーブルの上に出しておく。医者に診てもらうまでに少なくとも応急処置はしておこうという算段だった。軽傷であるものが後回しにされてしまうのは仕方のないことなのだ。水道を見つけてグースの傷口をよく洗うようにいい、引き出しを漁ってガーゼや包帯をとりだした。

 その間に我に返ったラインマーは、いったい何があったのかと、その高慢さと焦りの入り混じった複雑な態度でせっついてきた。

 ルードヴィッヒはそんな彼を制し、グースの治療に専念した。

 事態を明らかにしたのは、それから数分後のことだった。


「では、狙撃犯には逃げられてしまったと」


 ラインマーは冷たい視線で言った。


「ええ。一瞬のことでしたし、あの辺りは真暗でしたからね」

「それならそれで、すぐに追いかければよかったんだ」


 舌打ちをして、不愉快な表情を隠すこともしない。それこそ死体を目の前にしたように、眉をきゅっと顰めた。

 グースが引きとめたことは言わなかったが、彼は気まずそうに黙り込む。


「申し訳ありません」


 ルードヴィッヒは告げた。

 ラインマーはキッと睨み、怒りを爆発させた。


「申し訳ありませんじゃあない、いったいこれからどうするつもりなんだ! お前がやってきたことですべてが狂ったんだ! あんな吸血鬼のために……あれこれといちいち掻きまわすことさえなければ、もしかしたら……、もうおしまいだ……」


 ラインマーは心の底からシェリーを信仰しているようだった。時折胸元を探っては、そこにある十字架を掴んだり離したりしている。それこそ神にでもすがっているようだ。吸血鬼ハンターはあくまで吸血鬼を狩る専門家であって、それ以上のものではないというのに。

 ルードヴィッヒは辺りを見回し、壁にかけられた時計を見つけた。時刻を確認する。銃弾が残っているのならば、手術が完了するまでにまだ時間はかかるだろう。これからまたギヨーム老には働いてもらわねばならない。あんな老人を酷使するのは気が引けるが、こればかりは仕方のないことだ。


「ラインマーさん」


 声をかけると、ラインマーはのっそりとこちらを向いた。

 非難の色が浮かんでいる。


「シェリーさんは、デニスさん――デニス・ブラウム氏の依頼を受けて、リエール嬢の護衛を引き受けていました。何しろまだ”吸血鬼”の仲間がいるかもしれない状況ですからね! それが吸血鬼であれ人間であれ、少なくとも僕らを――シェリーさんを狙撃した誰かとは、無関係ではないでしょう」


 ラインマーはまだむすっとしていたが、話に耳を傾けてはいた。


「もちろん、第一発見者であるシスター・エリスもまた外すことはできません」


 ルードヴィッヒは続ける。


「ひとところで護衛できればいいでしょうが、今は屋敷と聖堂に散らばっています。それについて何かデニス氏と話をしていたはずですが、僕はそれを聞いていません。ですが現状、あの屋敷を見張る者がいなければなりません」


 ラインマーは最初こそルードヴィッヒを睨みつけていたが、段々と冷静になっていった。怒らせた肩を落とし、長い息を吐く。


「今はおそらく客たちが――」


 客とテオバルトが、とは言わなかった。


「お互いやテオバルト氏を見張りあっている状態でしょう」


 ラインマーは特にこれといった反論もなくうなずいた。


「エリス嬢と、屋敷を警護する人間が別途必要です。今はシェリーさんがあの状態ですし、手分けしてなんとかするしかありません」

「なるほどな」


 ラインマーは自分こそがシェリーに選ばれた人間だといわんばかりにもう一度大きくうなずいた。


「ならば、自分が屋敷へ行こう」


 ここでうろたえても仕方がないと気付いたのだろう。

 ラインマーは扉を睨んだ。今にも立ち上がって出て行ってしまいそうな彼に、ルードヴィッヒは手をかざす。


「待ってください。そういえば、旧聖堂の前はどうでした?」

「旧聖堂の前?」

「ええ。ずっとそこにいらっしゃったのですよね。誰か通ったりしましたか?」


 問いに対し、ラインマーは眉を寄せて黙り込んだ。


「誰か、といわれても……、ああ、フランクとシェリー殿が一緒にやってきたきりだな」

「フランクさんは自宅に帰られたのですか?」

「……ああ、そうだった、そうだった」


 ラインマーの顔は次第に明るくなった。


「確かそんなようなことを言っていたな……。二人で旧聖堂の前を通って、そのついでに少し話をしたんだった。聖堂までは一緒に行くと言っていたから、たぶんそれから帰ったのではないかね。シェリー殿が探偵を連れて帰るから、そこからまた色々とこれからの準備をすると言っていた」

「それでは、その後に通った者はいないのですね」

「たぶんいないと思うね。頭のいい探偵どのは、屋敷から誰か出て来たんじゃないかと思ったんでしょうが」

 小馬鹿にしたように笑う。

「わざわざ旧聖堂の前を通るはずがない」

「それでは、シェリーさんがやってきた時、持ち場を離れたのはなぜです」


 ラインマーは一度ぎくりとした。うろたえ、すぐさま言葉を紡ぐことができなくなっていた。だがすぐに気を取り直し、威圧的な態度を思いだした。


「おい、これは尋問か?」


 ぎろりと睨む。


「違いますよ! ただお尋ねしたかっただけです。一縷の望みというやつで。どんな些細なことでも聞いておかねばと思いましてね。いや、申し訳ない。僕の悪い癖ですね」


 ルードヴィッヒは首を振った。

 ラインマーは鼻で笑ったが、続く言葉は言いにくそうだった。


「これからの準備をするというから、お迎えに行ったんだ」


 一度でも持ち場を離れたことへの罪悪感だろう。声は先ほどの態度とはうってかわっていた。


「では、その時に妙な人影を見たりはしませんでした?」

「残念ながら。それに、件の襲撃犯は森を行ったんだろう。……となると、行きも帰りも屋敷へ直接向かったのかもしれないな」


 ラインマーはますます屋敷への警戒を強めたようだった。


「やれやれ、もっと人手があったらよかったんですがね! 僕らはまったくもって人出不足だ……いったい誰が屋敷から忍び出たというのでしょうね。それでは申し訳ないのですが、屋敷をお任せしてよろしいでしょうか。僕は聖堂のほうへ一度出向きます」


 その言葉を聞き終えるか聞き終えないかのうちに、ラインマーは風のように診療所を飛びだしていった。連絡手段もなにも伝えあわないうちから走っていく彼に一抹の不安を抱えながら、その姿を見送った。

 ルードヴィッヒはため息をつき、踵を返す。

 視線の先にグースの姿を見つけ、しばし見つめあった。肩を竦める。グースは鉱山の男らしく、ソファをわが物顔で陣取っていた。だが、どことなく居心地悪そうに時折尻をもぞもぞさせていた。この状況も、診療所も、すべてが彼にとって異質なものなのだ。息を吐きだした彼の目は遠く、ありし日を見つめているようだ。

 ルードヴィッヒはペンと手帳をとりだした。白いページを開き、ペンの先を突きつけてから顔をあげた。


「聖堂へ行ってきます。あなたはどうされますか」


 グースはのったりとした動作でルードヴィッヒを見上げた。


「ここで待ってるよ。逃げやしねえんだからな」

「わかりました。では、僕はまた戻ってきますので」


 ルードヴィッヒはメモ書きをするのをやめ、ラインマーに続いて外へ出た。

 いい加減ほとほと疲れ果てていた。聖堂ではこれ以上何かをないことを祈るしかない。そういうときにこそふつふつと気がかりがわいてくるものだが、ルードヴィッヒはその予感を振りはらった。

 とにかく動くしかない。うかうかしていては夜も更ける。

 夜はすでに来ているのだ。

 目の前で扉ひとつ挟んだ向こう側に立っていて、今か今かとそのときをまっている。

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