第2章 捜査

3.探偵は休暇を返上させられる

 二頭の馬が、御者に操られながら道なき道を駆け抜けていく。

 蒸気機関と水晶動力が全盛となった現代においても、どこでも移動できる馬車は今でも市民の足として盛んに利用されていた。後ろの箱型の中は対面式の四人掛けになっていて、御者側のソファには茶色い革製のトラベルケースと、黒い革布の鞄が一つ、その上に乱雑にツイードのコートがかぶせられていた。悪路のせいかがたがたと時折いやな揺れ方をしていたが、胃の中がひっくり返りそうになるほどではない。


 乗っているのはひとりきりで、スーツに身を包んだ長身を堅いソファに沈みこませていた。時折、片眼鏡の奥にある憂いを帯びたような紗のかかった灰色の瞳を瞬かせる。それ以外には微動だにもせず、駆け抜けていく風景を見守っていた。整った顔立ちをし、まだ年若い青年といった風貌だった。髪の色は東洋人めいて、濡れた鴉のような黒い色。健康的な白い肌をしているものの、国籍はいまいち判然としない。しかし反対に、どこそこの人間だと特定しても、それはそれで信じられないような外見だった。

 彼――ルードヴィッヒ・エインは、ソファに投げだしたままの手紙に目をくれることもなく、いつになく渋い顔をしていた。


「きみに文句をいうつもりはないのだがね」


 ルードヴィッヒはようやく体を動かすと、眉間に皺を寄せた。そして職務に忠実でありながら融通のきかぬメッセンジャーへと声をかける。ぎょっとした御者がちらりと窓の向こうから機嫌の悪そうな乗客に目を向けたが、彼はそれを無視した。


「僕は休暇中なんだよ。偶然近くにいたというだけで依頼を回されたのではたまったものではない」


 彼はぶつぶつと小言をいいながら、懐から薄い文様が印刷された紙を取り出した。胸ポケットに入れたペンを取り出し、手早くインクを走らせてなにごとか書きつける。

 それで彼の不機嫌さが薄れたわけではなかったが、いつまでも機嫌を損ねていてもどうしようもないと考えていた。


 窓枠にちょこんと座って首をかしげる茶色い小型のフクロウは、その様子をじっと眺めていた。フクロウは手紙の返事を渡されるのをじっと待ち続けていたのだ。ルードヴィッヒは短い手紙を書き終えると、丁寧に二つに折って封筒の中へとさしこんだ。


「さあ、こいつを持っていってくれ」


 最後にフクロウの足首に手紙を括りつけてやると、軽くその頭を撫でてやった。メッセンジャーはルードヴィッヒの心の内も事件の重大さも知らず、ただ気持ち良さそうに目を細めてから羽根を広げた。かすかな音を最後に飛びたっていく姿は、すぐに見えなくなった。ひらりと箱型の中に落ちた羽根を一枚、ルードヴィッヒはつまみあげると、口の端をあげた。それからソファの上に投げだされた手紙を手に取ると、改めて上から下までを眺めた。



 所属調査官第九号 ルードヴィッヒ殿


 休暇中のところ申し訳ありません。

 すぐさま向かってほしい依頼が入りましたので、調査をお願いします。


 シュレスタイン州の北、ノースウェアという山間の小さな町からの調査依頼です。

 依頼人はテオバルト・ヴェンデルス、町の権力者の一人です。父親であるアドルフ・ヴェンデルス氏殺害事件についての調査を依頼されました。

 テオバルト氏いわく、遺体は旧聖堂にて発見され、その体には銀のナイフが突き刺さっておりました。自殺するような兆候や理由は見つからず、他殺とみて間違いはないとのことです。

 ところがアドルフ氏の死はまったく通常のものと違っており、ナイフで刺された箇所はすっかり焼け焦げていて、周囲には聖水の瓶が散らばっていました。そのような状況から、特に老人を中心にアドルフ氏は吸血鬼であると信じています。

 状況を聞く限り、吸血鬼が殺されたのです。

 しかしテオバルト氏は、自分はまったくの人間で、その父親もまたれっきとした人間であり、何者かによって殺害されたのだと主張しております。そうであるならば今度は殺人犯を見つけ出さねばなりません。

 ご存知でしょうが、シュレスタインは今なお魔物との距離が近い地域であります。ノースウェアもまた、同じように”ある事情”から吸血鬼の存在をきちんと認識しています。もっともそれらの事情からはだいぶ年月が経っているようで、どの程度の認識なのかは把握できかねます。

 少なくとも、このままではテオバルト氏自身もまた吸血鬼であるとして断罪されかねない状況にあるぐらいの認識でしょう。


 追伸


 代わりの休暇を申請するか、特別報酬を受け取るか、どちらかが協会より提示されています。


 事務担当 H・L



 何から何までが奇妙だった!

 吸血鬼が殺されたなどという一文など、めまいがしそうだ。

 おまけに申し訳ありませんなどと書かれているくせに、返事を待たずにノースウェアに向かわせる気でいる。


 ルードヴィッヒはグリム探偵協会所属の探偵だ。

 グリム探偵協会とは、魔法事件を扱う探偵たちの組織である。もともと個人で魔法事件を請け負っていた二人の兄弟によって設立され、それ以後は所属の探偵を増やして事件を解決に導いてきた。魔法事件という名に含まれる事象は多岐に渡り、たとえばそれは人狼によって引き起こされた連続殺人事件であったり、魔女の復讐による石化事件であったりした。はたまた事件の中心が人間であったとしても、そこに呪いや魔術が介在すれば彼らの領域になりえる。歯車と水晶が歴史を作るこの蒸気機関全盛の革命時代だからこそ、光の影は濃く満ち、闇もまた深く浮き彫りとなった――それは疑いようもなく事実であり、それゆえに魔術が絡んだ人智の及ばぬ事件は多々起きた。それらを調査し、解明し、解決する事こそグリム探偵協会の理念であり職務だった。

 ルードヴィッヒがこの国に訪れていたのは休暇のためだったのだが、こうして突然の事件に駆りだされるのは珍しいことではない。まだ代わりの待遇が選択できるだけましというものだが、休暇が潰された事実には変わりなかった。とはいうものの、依頼が回されてきた以上は職務を全うするのが彼の信条であり、こうして目的の地へと向かっているのだった。

 やがて御者が手綱を引き、馬を停止させた。


「つきましたよ」


 馬車の前方から様々な人間模様を見ることもある御者は、たとえ乗客が郵便用の鳥に話しかけるような変わり者であっても、普段と変わらぬ対応をした。彼に言わせれば、もっと変な乗客はたくさんいるとでもいうのだろう。

 ルードヴィッヒは荷物を整理して運賃を支払った。


「釣りはいらない」

「毎度」


 変人だが気前のいい客に、御者はにやりと笑った。ルードヴィッヒが車を降りるのを待って、手綱を操る。馬は今きた道へと引き返すと、一鳴きしてから走りだした。

 そうして探偵ルードヴィッヒはノースウェアの町へと降り立ったのである。

 門へと向かうと、まだ昼間だというのに鉄柵の門は閉まっていた。門番へと声をかけようとしたところで、その向こう側にいた男が声をかけてきた。


「運が悪かったな。今ここは通れないぜ」

「閉鎖されているのですか?」


 ルードヴィッヒが問うと、男は肩を竦めた。


「今、通れるのは一人だけだ。それとも、あんたがそうなのか?」

「あなたがおっしゃっているのが、グリム探偵協会のことならそうでしょう。依頼を受けて参りました、ルードヴィッヒ・エインと申します」


 そう名乗ると、男はますます胡散臭げな視線を投げかけてきた。

 だが男は門番へクイと手を向けると、門番はうなずき、門の仕掛けを動かす。やがて鉄の門を固定した歯車がかみ合わさる大きな音が響き渡り、道が開けた。


「ふうん」


 男は無精ひげの生えた顎をさすりながら、ルードヴィッヒを胡散臭げに見つめた。多少の無頓着さは垣間見えたが、切れ長の目に端正な顔立ちは男女ともにうけが良さそうだ。つばの広い黒の帽子を首に引っ掛け、銀色の髪を流れるままにしている。白のシャツと焦げ茶色の革ベスト、そして濃い緑色のズボンと、膝下までのよく磨き上げられた茶色いブーツを履いていた。


「俺はシェリー・アッカーソン。しがないヴァンパイアハンターだ」

「ほう。それはそれは」


 ルードヴィッヒは感嘆の声をあげ、片手を差し出した。


「本物のヴァンパイアハンターの方に出会えるのは光栄ですよ」


 吸血鬼狩り〈ヴァンパイアハンター〉は、表だった職業ではないが、おぼろげに存在を確認されていた。探偵たちの間でもそれは共通認識となっている。ルードヴィッヒたち探偵が手広く事件に関わるのに対して、ヴァンパイアハンターは吸血鬼のみに標的を絞った狩人だ。地域によっては唯一の吸血鬼への対抗手段として信仰されていた。

 シェリーはルードヴィッヒの言葉に一瞬意外そうに目を丸くし、その顔と手を交互に見つめた。しかしすぐに笑い顔に戻ると、握手を交わした。


「あんたたちの話は知ってるぜ。魔法事件の調査のエキスパートなんだろう」

「僕がエキスパートかどうかの評価はお任せいたしますが、できうる限りの努力はさせていただきますよ」


 ルードヴィッヒは手をひっこめてから言った。


「しかし、既にヴァンパイアハンターの方がいるとは驚きですね。それならばもう答えは出ているのではないですか?」

「そいつはあんたの雇い主から聞いた方がいいかもしれないな。俺はあんたを迎えに来たんだ」


 ――これはまた妙なことになりそうだ。


 ルードヴィッヒは心の中だけでそう思い、ただ頷くだけにとどめた。


「まあいい、案内してやるよ。ついてきな」

「ええ。ありがとうございます」


 ルードヴィッヒはシェリーのあとに続くと、門を潜り抜けた。興味深そうな門番の視線を受けて中へと入る。

 まず最初に目に入ったのは、鉄の門からまっすぐに伸びた目抜き通りだった。視線をあげると、その先にりっぱな聖堂が見えた。そしてその先の森に囲まれた小高い山の上に、りっぱな邸宅の尖塔が見えていた。

 シェリーは目抜き通りをまっすぐに進んでいった。このキングズ・ストリートは、かつて王が通ったというありがちな由来によってつけられたらしかった。元々貴族の避暑地を兼ねて作られた村は、王政が途絶え、貴族制度が無くなってからも存続した。一度は金の採掘で大きく栄えたが、今は緩やかに衰退しているのだという。


「面白いもんだぜ。金の採掘で栄えたっていうのに、金より銀の方をありがたがってるんだからな」


 シェリーは鼻で笑った。

 町は真昼間だというのに、静かで憂鬱に沈んでいた。生活の気配はあるのに、人々は家の中に閉じこもってしまっている。おそらくは今朝の事件の事が、既に知れ渡っているのだろう。二人が通りを歩くすがら、ぱたんと静かな音を立てて窓が閉められ、カーテンが引かれた。

 聖堂を横目に通りすぎると、緑に囲まれた大門の前に辿り着いた。奥へと続く道の先には町の入口から見えた邸宅が建っていた。白く塗られた壁は事件があったとは思えぬほど明るく、前庭には綺麗に整備された庭園が広がっている。庭師の腕がよっぽど良いと見えて、季節の花々に囲まれている。水が流れる心地よい音は、噴水の中央に立つ女神の水がめから聞こえてきていた。


「吸血鬼城の話は聞いたか?」


 シェリーが小声でにやりと笑いながら振り向いた。


「いいえ。なんです? それは」

「この邸宅だよ」


 シェリーはクイと顎で屋敷を示す。


「昔、吸血鬼が棲んでいたんだと。まったく見えないよな」


 彼の話はあまりに唐突に思えた。何しろ屋敷はここで見た通り吸血鬼がいるとも思えないほど明るく整備されていたからだ。ルードヴィッヒが何か言う前に、シェリーは玄関先へさっさと歩いていった。


「爺さん、探偵を連れてきたぞ」


 声をかけると、そこで無表情のまま突っ立っていた老人が命を吹き返したように一礼した。風景の一部のようにサポートを行う能力において、老人の右に出る者はきっといないだろう。


「よくぞおいでくださいました――わたくし、執事のローマンと申します。ご主人様がお待ちです。さあ、こちらへ」

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