2.老執事は日常を壊される

 ヴェンデルス卿の邸宅では、いつもどおりの朝が始まろうとしていた。


 ローマン・プロイスは鏡の前に立ち、白髪の混じり始めた髪を後ろ側へ丁寧にクシで撫でつけた。面長の顔には皺が囲まれ、大きな鷲鼻の上には緑色の目が鋭く光っている。目立ちすぎず、執事として相応しい黒のスーツへ腕を通し、ネクタイを締める。ポケットに懐中時計をするりと落とし、一つ咳払いをした。


 昨日の夕食会は盛況で、主人や客人たちも随分と満足していただけたようだ。その分、自分の疲労はまだ抜けきっていないような気がした。ローマンは軽く苦笑いをこぼしたあと、改めて口を結んだ。

 そっと部屋を出ると、できるだけ足音を殺して歩きだした。使用人たちの部屋は主人や客室のある東棟からは正反対で、互いの音は聞こえないようになっている。だが、こうして歩くのが彼の心遣いの一つだった。


 ローマンはヴェンデルス卿に仕えてからの二十余年というもの、他の使用人たちの先頭に立ってきた。執事として、給仕や見のまわりの世話に加えて、秘書としての役目まですべてを担ってきた。

 しかしそれ以上に、ローマンは常に豪快な主人の手となり足となり、尽力してきた。金の採掘でなり上がった主人を悪くいう者もたくさんいたが、それらの噂にも耳を貸さなかった。絵画が欲しいと言いだせば画廊の商人を呼びだし、鎧が必要だといえばそうした。どんなに妙ちきりんな客人であっても丁重にもてなした。愚痴のひとつもこぼさず、このいわくつきの邸宅を買い取って住み始めた時も、どれほど不気味な過去があろうともそれを払拭するべく努力してきたのだ。


 階段を降りて一階の食堂へつくと、隣のキッチンから物音がするのに気が付いた。既にメイドが一人そこに立ち、使用人たちの朝食を人数分作っていた。


「おや、オリヴィアじゃないか。おはよう」

「おはようございます、ローマンさん」


 オリヴィアはサンドイッチを切っていた手をとめた。


「今日は早いな。他のみんなは?」

「まだ見ていませんが、そろそろ起きてくると思いますよ」


 ローマンはこの控えめな娘が力なく答えるのを聞いて、何度か瞬きをした。


「よく眠れていないようだね」


 そう言うと、オリヴィアは少しびっくりしたような顔をしてから困惑げにうなずいた。


「ええ……、ちょっと眠れなくて」

「それは良くないな。体はしっかりと休ませておかないと。体調管理も仕事の内なのだから」

「は、はい。申し訳ありません」


 ローマンはそれ以上の小言はやめて、ちらりと食堂の時計に目をやった。


「今言っても仕方がないな。先に食事を済ませてしまおう。他のお客様がいらっしゃるから、朝から忙しくなるだろうし」

「はい」


 彼らにとってはこれが日常だった。


 主人たちが起きてくる前に朝食を済ませ、報告がある時は短いミーティングをするのが朝の流れだ。加えて、たいてい執事は男性使用人のみを統括しているが、彼は使用人の少なさから、メイドたち女性使用人も含めて統括している。昔は明確に別れていたが、今ではこういうことも珍しくはない。

 主人であるアドルフ・ヴェンデルス卿の奥方がまだこの家にいた頃は、彼女たちも主に奥方に仕えていた。不仲が原因で一、二年ほど前に出て行ってしまったのがつい昨日のことのようだ。

 ローマンは頭の片隅で、今日の予定をシミュレートした。

 待っている間に他の使用人も起き出してきて、それぞれ挨拶を交わした。タビタという名のメイドが皿に盛られたサンドイッチを覗きこんでいる。


「あたしのぶんもある?」

「もちろんよ、タビタ。今、コーヒーを淹れるわ」


 テーブルの上にサンドイッチの山と、人数分のコーヒーが置かれた。


 サンドイッチは、パンの間にレタスとタマゴ、マヨネーズを乗せた野菜サンドと、イチゴジャムとマーガリンを塗ったものがあった。それから切ったトマトをそのまま、塩を振ったものがサラダ代わりに置いてある。みな手に好きなものをとり、軽く口の中に入れていく。簡単なものだがみなの腹はちょうどいい具合に膨れ、一日の最初の活力となった。


「みんな、食べながらでいいから、今朝のミーティングを始めよう」


 ローマンが一同を見回すと、それを合図に全員の視線が集まった。

 言われた通り、サンドイッチを口に含んだり、つけあわせのトマトを運びながら、耳だけは向けている。


「昨日の夕食会は、改めてよくやってくれた。お客様も満足していらしたようだ。今朝は、お客様はお疲れの場合があるから、朝食の時間がずれるかもしれない。オリヴィアとタビタは――」


 リンゴン、リンゴン、リンゴン。


 突然の音に、ローマンの口が止まり、全員の視線がローマンから外れた。


「誰かしら、こんな時間に?」


 オリヴィアがどこか不安そうな声で呟いた。

 リンゴン、リンゴン、リンゴン。

 ずいぶんと品のない鳴らし方だった。何度も何度もベルを押すせいで、うるさいことこの上ない。このままでは客人どころか主人までもが起きてしまいそうだった。


「郵便配達人じゃあなさそうだな」


 馭者のトマスがいぶかしげに言った。

 困惑げに立ち上がったオリヴィアを手で制し、ローマンはぶしつけな来客にもぴくりとも表情を動かすことなく立ち上がった。誰もが任せるような視線を送る。すぐ脇の玄関へ向かう途中も、ベルの音は何度も響き渡った。

 玄関口に立ち、ドアノブに手をかける。

 扉を開け放つと、玄関先にいた男は怯んだように目を見開いた。狂ったようにベルを押していた手を止めて、困惑したようにローマンを見つめる。


「ロ、ローマンさん」


 威勢のいい鳴らし方とは真逆で、急に萎縮したような男の様子にローマンは首をかしげた。


「何か御用ですかな」

「あ、いや、そのう――」


 先ほどあれだけベルを鳴らし続けていたにも関わらず、急に威勢を失ったようだった。もごもごと口ごもり、何度も唇を舐めている。


「それが、ローマンさん。その、落ち着いて聞いてくれ」


 男はそう言ったが、落ち着いていないのは男の方であることは明らかだった。顔は真っ青で青白く、今にも倒れ込みそうなのを我慢しながらそこに突っ立っているようなありさまだ。


「いったいどうされたのです」


 ローマンがもう一度尋ねると、男は視線を外し、何度も何度も舌で唇を舐めている。

 そんな男を見かねてか、後ろにいたもう一人が男の肩を叩いた。朝日に照らされているのにも関わらず、影の中から出てくるようだった。黒い、つばの広い帽子をかぶった男だった。肩を叩かれた男はびくりとして怯えたように背後を見つめる。

 帽子男は、肩に置いた手をぐいを横へ押しやった。

 押しのけられた男は、相変わらず怯えるように後ろへ回ったが、助けを求めるような視線で帽子男を見ていた。


「失礼。ええと、ローマンさん?」


 一方の彼は冷静そのもので、慇懃に帽子を取ると、自身の胸元へ押しやった。帽子の中に隠れていた銀色の見事な髪を整えるようにかきあげると、その下にあった切れ長の目がじっとローマンを見つめた。まるで観察するような目線だったが、ぶしつけなその様子にも、ローマンは怯むことなく見返す。


「あなたは……?」

「これは失礼。俺はシェリー・アッカーソン。しかしこの際名前などは些細なことじゃないですか」


 シェリーと名乗った男は肩を竦めて、ローマンに向きなおった。


「旧聖堂で恐ろしい事件が起きましてね、彼も戸惑っているのです。お許し願いたい」


 いっそ場違いなほど饒舌で、一応それなりのフォローがなされた。しかしそのおかげか、今やすっかり萎縮してしまった男もようやく小さく息を吐きだした。

 旧聖堂――という言葉に、ローマンは一つ目を瞬かせた。


「何があったのですか?」


 シェリーはその問いに一度視線を外し、息を一つついたあと、唐突に話し始めた。


「旧聖堂で――ある男の胸に”吸血鬼殺し”が突き立てられていて、しかもその場所はひどく焼けただれている」


 シェリーは反応を見るでもなく、静かに、ゆっくりと語りだした。その意図はともかく、内容に関しては恐ろしいものだった。


「あたりには聖水が散らばっていて、多少格闘したような跡があった」


 そろそろと後ろの方で様子を見守っていた使用人たちが、ごくりと息を飲む音が聞こえた。

 ローマンの、そして使用人たちの頭の中には、ある一つの考えが浮かんでいた。誰もそれを口にしなかったが、誰もが気付いているように思われた。

 ”吸血鬼殺し”が使用されたということだけでも恐ろしかったのに、事実の一つひとつが集まって、更にひとつの結論を導き出している。今が朝であることを、そして朝日に照らされていることを、神に感謝せねばならなかった。


「なんと恐ろしい。それは――その」


 ローマンはためらいながらそう口にしたが、シェリーはどこか様子を窺うように、じっとその先の言葉を封じていた。

 恐ろしいと簡単に口にはしたものの、なかなか言葉として現れなかった。それでも自分が何か言わねばならないという使命感にかられ、少しだけ唇を噛んだあと、頭の片隅に浮かんだ言葉を口にした。


「吸血鬼――ですか?」


 途端、ため息が方々から漏れた。


 それは、シェリーの後ろにいる男も同じだった。口元をおさえ、軽くうめいたかと思うと、踵を返して門のところまで取って返した。


「あんたたちも、そう思うか」


 シェリーだけが、鼻で笑うように言った。


「ええ。少なくとも私はそう思います」

「だが、それ以上に奇妙なことがあるんだ。その死んだ”吸血鬼”だが――顔を知っているものがいたんだ。そいつがいうには、その”吸血鬼は”……」


 シェリーはまじまじとローマンを眺め、肩を竦めた。


「アドルフ・ヴェンデルス――この家の当主だとね」


 冷静で沈着な従僕も、この言葉には目を剥き、しばらくその意味を考えなくてはならなかった。

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