誰が吸血鬼を殺したか?――または探偵ルードヴィッヒの推理

冬野ゆな

第1章 事件のはじまり

1.修道女は日常を取り戻せない

 エリス・ガードナーはわずかな頭痛とともに目を覚ました。


 昨夜の喧噪が、まだ頭の奥から響いてくるようだった。テーブル脇の置時計の針は五時七分をさしている。起床時刻としては許容範囲だ。すぐそばのカーテンの隙間はまだ暗く、ときの声をあげる鶏もまだ目覚めていない。

 ヴェンデルス卿の夕食会に参加したのは間違いだったかもしれない。エリスの頭に小さくそんな思いが浮かんだ。それでも彼女は、早急に普段通りの日常を取り戻さねばならなかった。


 エリスは簡単に寝具を整えたあと、水を一杯だけ飲んでからベッドの脇に座り込んだ。胸の前で両手を組み、青色の瞳を閉じる。ここ数年、聖堂では朝の念祷は省略されていたが、こうして自主的に行うことは多々あった。そのほとんどが、前日の自分を肯定できないときに限られていた。朝の祈りの前に自ら無言で神に耳を傾けることで、自分もまた次第に落ち着きを取り戻すことができたのだ。

 十分ほどの短い祈りを終えたのち、彼女はすぐに修道服に腕を通した。やや華奢な体をすっぽりと覆い隠してブロンドの髪にベールを被る。荷物を持ち、他の住人を起こさぬよう注意を払いながら、彼女はそっと部屋を出た。通り沿いに面した古びたアパートの入口から外へ出ると、まだ朝とも言いがたい薄闇の中はひんやりと心地よい空気が流れていた。表通りを足早に聖堂へと赴くと、次第に頭痛も治まってきた。


 エリスはこの町唯一の聖堂へつとめるただひとりの修道女だった。彼女はまだ青春に満ち溢れた十代のさなかに、自分の全生涯を神に捧げると誓ったのである。それから十年あまり経った今も、その誓いが破られたことはない。人の中で生きることよりも、神の敬虔なる従僕として生きることを選んだのだ。

 聖堂が近づくと、庭の花壇の前にいる黒いキャソック姿の老人が見えてきた。腰をかがめ、じょうろでチョロチョロと水をやっている。エリスは歩きをやや速めて、彼のもとへと近づいた。


「おはようございます、神父さま」


 エリスが丁寧な挨拶を交わすと、男は腰をあげ、柔らかな笑みを浮かべた。


「おはよう、シスター・エリス」


 彼女にとって叔父でもある男――ヨハネス・ガードナーは、いつもと変わらないように見えた。昨夜のことなどなかったことのようだ。まだ六十手前であるが、髪はすっかり白くなっている。胡麻塩のような顎髭が、かつては髪もまた黒々としていたのだろうと思わせるだけだ。丸く小さな目の下には、深く刻まれた皺がその年月以上のものを物語っている。長身でがっしりとした体をキャソックで隠しているが、病弱なせいかどこか小さく見えている。


「調子はどうだい」


 少しだけ頭の奥がずきりと痛んだが、彼女はわずかに目を瞬かせただけでうなずいた。


「ええ、いつもと変わりありません。神父さまは?」

「わたしはまだ疲れがとれていないような気がするよ」


 ため息をつくような物言いだった。


「ここ数年、ずっときみに良くしてもらっていたが、そろそろ潮時なのかもしれないな」

「そんなことをおっしゃらないでください」


 エリスは面食らったように言った。


「私はあなたのことを叔父としても司祭としても尊敬しているのです」


 ヨハネスは苦々しく笑った。唇をかみしめたようにも見えるその笑い方に、エリスは深く追及することもなく微笑んだ。

 彼はしばらくじっとエリスを見ていたが、やがて表情を緩めるとひとつ息を吐いた。


「そう言ってくれると私も救われるものだ。さあ、水やりを手伝ってくれるかい? これを終えたら、無事に今日を迎えられたことを神へと感謝しよう」

「はい、神父さま」


 エリスは荷物を置き、もう一つじょうろを持ってくると、残りの花壇に水をやった。植えられた花々は生き生きと目を覚ますようだった。もう少しすれば水滴が朝日にきらめき、花たちも太陽の光を享受することだろう。すべての水やりを終え、てきぱきと道具を片付ける。


 それから二人は連れだって聖堂の中へ入った。

 軋んだ扉を開けた先にある小さな聖堂は、りっぱではあるが、あちこちに年月を感じさせる。それでも彼女はこの聖堂に不満はなかったし、ヨハネスが毎日のように色々と掃除をしていたので、ある程度の痛みは仕方がないものと割り切っていた。

 二人は祭壇近くに並べられた木製の椅子へ座ると、声をあわせて神への祈りを口にした。


「神よ、今日もまた新たな日を迎えられたことをあなたに感謝いたします」


 十何人で共同生活をしていた修道院時代に比べると、静かすぎるほどの祈りだ。それでも彼女はそれを不満に思うこともさみしく思うこともなかった。


 彼女がこの小さな町へとやって来たのは、数年前のことだった。修道院で見習いとしてのつとめを果たした彼女は、永遠の神のしもべとして認められた。ちょうどそのころ、彼女の叔父であるヨハネス・ガードナーが、この町で人手を探していた。腰を痛め、日々のつとめに多少なりとも支障が出るようになったのである。彼は神父として、このノースウェアという小さな町の聖堂を一人で管理していた。誰かに管理人の座を譲ることも考えたようだが、時期が悪く、中々代わりのものが見つからない。そこでエリスが手を挙げたのである。

 彼女の宗派では本来、こうして彼女のような修道女と結婚を禁止された神父がひとつの建物の中にいることはきわめて稀なことだった。ありえないというほどではないが、やはり別々に活動をする。彼女もそう考えていたのだが、相手が子供の頃から自分を可愛がってくれていた人物であり、神父でもある彼のために聖堂の仕事を手伝うことは、彼女自身にとっても最善であると考えたのだ。

 ただし、叔父はエリスのためにひとつ空き部屋を工面してくれて、そこから通うことを条件にしてそれを承諾した。どんな理由であれ、叔父のやさしさがうれしかった。こうして彼女の希望は通り、二人はともに働くこととなったのだ。


「今日もまた私たちを見守り、導いてください――アーメン」

「アーメン」


 二人は余韻のようにじっと黙り込んでから、目を開けた。

 ヨハネスは懐から懐中時計を取り出した。メッキのほとんど剥げてしまった銅色の時計を、初めて買った時計だからと後生大事にしているのだ。


「おや、あと三十分でミサの時間だ。そろそろ人がやってくるかもしれないな」

「私もお手伝いいたします」


 エリスが慌てて立ち上がる。


「エリス。きみはミサの前に、旧聖堂に行くんだろう」

「ですが……」


 言いよどむ彼女に、ヨハネスは小さく笑みを浮かべた。


「もしかすると、今日で最後になるかもしれないんだ」


 小さな子供を諭すような言い方に、エリスははっと息を飲んだ。


「ここはわたし一人でも大丈夫だから、行ってきなさい」

「……わかりました」


 エリスは何も言えなくなり、複雑な表情を押し隠した。


「ご無理はなさらないよう。では失礼します」


 軽く頭を下げ、踵を返す。

 聖堂の外へ出ると、空には薄明りがさしていた。そろそろ夜も空け、仕事を持つ人々のほとんどが起き出してくるだろう。それでも聖堂へとやってくる人の気配はまばらだった。叔父がまだ自分の健康に疑問を持つずっと前は、三十分前にもなれば人々が次第に集い始めたものだという。現に、エリスがこの聖堂で働きはじめた当初も、一番の名物がいつもマーガレットの模様のほっかむりをしたおばあさんで、熱心に毎朝やってきては、エリスの来訪とわずかなおしゃべりを喜んでくれたものだ。だがそのおばあさんも、一年ほど前に息を引き取った。ぽつぽつと参拝客の姿は減っていて、こうした細かいところで、町の変化を感じずにはいられない。


 エリスはいつか見た叔父の顔を思いだした。

 やつれて、疲れたような影のある表情。体を壊した疲労もあるのだろうと思っていたが、それでも人気のないところでため息をついているのを盗み見てしまったときには、エリスの小さな心はぎしりと痛んだ。盗み見をしてしまった自分を恥じるのと同時に、何もいってくれない叔父にやきもきしてもいたのだ。おそらくはこういったことが、叔父にとっても淋しさを感じさせるのだろうが、それ以上に、なにか途方もない苦しみが渦巻いている気さえした。

 神への信仰でさえもそれを癒すことはできないのか。彼女は時折悶々と神に問うた。


 加えて、ヨハネスが抱える問題はそれだけではなかった。

 住人たちの高齢化や若年層の減少――それらによる一番の問題は、献金収入が減ることによる慢性的な金銭不足に悩まされることだった。ヨハネスやエリス自身は所属の教区から給与が支払われていたものの、聖堂の補修は献金によって賄われる。いくら神への忠信を誓おうとも、現実的な問題は必ずやってきた。それが試練であると思えばその通りではあったが、頭痛の種には違いない。


 エリスが向かっている旧聖堂もそうだった。

 旧聖堂は、今の聖堂から少し五百メートルほど離れた森の中にあった。それほど離れていないのにも関わらず、森に覆われているせいかあまり見えない。今ある聖堂は町に近いところに建てなおされたものだが、旧聖堂の方はこの町がまだ村だった頃に作られた古い建築物だった。町から少し離れているにも関わらず、そして新たな聖堂が建てられてなお残されているのは、その歴史だけが理由ではない。とくに町の老人たちが旧聖堂を敬愛するわけ、そして旧聖堂を手放したり、取り壊すわけにはいかなかった最大の理由がある。


 その名は、”吸血鬼殺し”――。


 エリスが旧聖堂で祈りを捧げるのは、神のためでもあり、そして何よりもそこに安置された守護剣のためだった。

 刀身は三十センチ、種類としては短剣のそれで、一般的なダガーナイフと変わらない。しかし持ち手から刀身までのすべてが銀で作られていた。持ち手や柄の部分には、儀式用とも思える装飾が施され、巨大なロザリオのようでもあった。だが通常のナイフよりも殺傷能力に優れた刃は、それが儀式用でも装飾用でもないことを暗に示していた。

 しかしその剣が一般のダガーナイフと違うのはそれだけではない。何日にもわたって昼夜を問わず祈りを捧げられ、聖別され、神の御敵を打ち倒さんがために、たった一人の敵を斃すためだけに作られた特別なナイフ。

 それが”吸血鬼殺し”だった。

 そしてそれは名前だけにとどまらず、本当に吸血鬼を殺したがゆえに呼ばれている名なのだ。

 蒸気機関全盛のとなった現代においても、彼ら魔物は暗闇に棲みついていた。人々は蒸気と科学を手に、暗闇を突き進み恐れなくなったが、エリスにはそれこそが神への冒涜のように思えて仕方がなかった。彼女は神への信仰を深めることで、魔物を退けることができると信じていたし、神に背いた者こそが魔物になると断言した神学者を支持していた。神こそが彼らを作ったという説もあるにはあったが、心の中では批難していた。

 魔物がいかにして生まれたか、いまだ公式な答えは出されていないものの、それらの存在が無視できないほど近くに存在しているのは、神への祈りと信仰心の薄れからだと決めてかかったのだ。


 この町で吸血鬼事件が起きたのは、聖堂が建てなおされる数年前――百年近く前の出来事だった。

 夜な夜なうら若き乙女の細い首筋に牙をつきたて、その生き血を啜る。怪力と不死の強靭な肉体を持ち、その体は霧にも蝙蝠にも変じることができる。棺桶の中で眠り、真昼の太陽を嫌い、神への反逆を体現するように、十字架を恐れる――。

 人々はパニックに陥ったが、ときの聖堂の司祭が一計を案じ、そうして作りあげたのが”吸血鬼殺し”だった。ナイフは十字架を模すように形作られ、その役目を果たしたのである。

 恐ろしい怪物を打ち倒した聖銀のナイフは、聖別された旧聖堂に今でも守護刀としておさめられていた。いわば旧聖堂そのものが巨大な保管庫であり、そして何よりも神聖な鞘でもあったのだ。

 エリスもまた神に仕えるものとして、敵を憎んだ。神は偉大なものであり、その神が自らの敵を滅ぼすために遣わされた剣もまた尊いものであった。かつてヨハネスが行っていたナイフへの祈りは、自然とエリスの日課になり、今日まで欠かすことなく続いたのである。


 森の入口にある木製看板を通りすぎると、少し行った先に旧聖堂はあった。土に煉瓦が順に埋められただけの道を行くと、エリスは自然とため息をついた。


 ――今日で最後かもしれない。


 ヨハネスの言葉がよみがえってくる。これ以上考えていると、せっかく落ち着けた心が再びほつれてしまいそうだった。エリスは首を振り、顔をあげた。

 旧聖堂は現状のものよりずっと小さなもので、石造りの一戸建てに等しい。木製の扉は一人入れるかどうかという大きさで、そこから見上げた屋根の近くに小さな窓がひとつきり。屋根には小さな鐘がついただけの、小さな聖堂だった。外観の石は不ぞろいながらも森の中の景観に相応しく、単純にかわいらしくもあった。田舎の小さな村の小さな教会といった風情のたたずまいは、ずっと都会で育ったエリスでさえ郷愁を誘われた。

 扉に続く三段程度の短い階段の二段目、右側にあるひときわ大きな石をずらすと、あらかじめ作られた隠し棚が現れる。そこは鍵の隠し場所として意外なほど有能だった。

 しかし、鍵をとりだそうとしゃがみかけた彼女の目に飛びこんできたのは、既にずらされ、地面に無残に転がっている石の姿だった。


「えっ?」


 驚きは声となって口から抜け出た。

 眼を丸くし、慌てて隠し棚を覗きこむ。あるはずの鍵の姿はなく、あたりをさぐってもそれらしきものは見つからない。昨日は雨ではなかったし、石が緩んできた記憶もない。

 とたんに頭の中がまっしろになった。

 スカートをたくしあげて立ち上がると、飛びあがって旧聖堂の扉にしがみついた。ノブに手をかけると、更に驚いたことに扉はスゥッと開いた。


 ――鍵が開いてる?


 彼女にとって、事態はますます混迷を極めた。


 ――だって、昨日も確かに鍵を閉めたはずだし、そのあとに鍵と石ももと通りにしたはずよ。


 エリスは必死に昨日の記憶を引きだそうとしたが、どう考えても普段通りの自分しか思いだせなかった。


 ――まさか、泥棒?


 混乱の中、そっと扉を開ける。


 軋んだ音はいつもよりも暗く感じられた。エリスは我知らず胸元の十字架を握ると、扉をあけ放ち、そこに立ち竦んだ。

 灰色の壁に囲まれ、当時使われていたままの古い木製の長椅子が左右それぞれ五脚ずつ並んでいる。扉から続く通り道をまっすぐ見ると、祭壇が並んでいる。昔あった十字架や神像はすべて撤去され、銀のナイフだけがガラスケースの中に保管されているのみだ。それでも祭壇と呼ぶのは推して知るべきだろう。

 祭壇の前は少し広い空間になっているのだが、そこに何か見覚えのない黒い棒のようなものが転がっているようだった。入口からでは何があるのか見えず、エリスはそっと旧聖堂の中に足を踏み入れた。

 妙なにおいがして、わずかに眉を顰める。


 ――なに、このにおい……。


 昨日までは感じなかったにおいだ。すんと鼻を鳴らしてにおいのもとを確かめようとしたが、急に恐ろしさが湧きおこってきた。小さな聖域の中に、なにか得体の知れないものが渦巻いている気さえした。

 彼女は胸の十字架を掴み、自らを奮い立たせた。唇をぎゅっと噛みしめ、そろそろと中央の通路を進んでいく。

 こつんと靴に何かが当たり、目線を落とす。

 そこには中身のない見慣れた瓶があった。胴の太い、ガラス製の瓶で、この聖堂で作られている聖水の瓶だった。どうしてこんなところに、と、本来安置されるべき場所である祭壇を見ると、そこからは一つ残らず無くなっていた。

 心臓が急に跳ねあがった。

 いったいここで何が起こったというのか――彼女は十字架を強く握りしめた。掌に痛みが走ったが、それでもよかった。

 エリスはとうとう足早に祭壇へ辿り着くと、まず最初に見えたのは床にだらしなく投げだされた黒い革靴を履いた二本の足だった。その先に黒いズボンがあり、更にその先には――ああ!

 窓からわずかに入ってきた光は、その姿を克明にさらしだした。

 安置されたはずの白銀のナイフは、心臓を貫いて十字架のごとく突き刺さっていた。光にきらめきながら突っ立つさまは、神罰が下されたかのごとく荘厳だった。皮膚と衣服とがナイフを中心にぐずぐずに焼けただれていて、その人物の目は驚きで見開いていた。

 安置されていた聖水の瓶は一つ残らず中身ごとまき散らされていて、あちこちに転がっている。

 このさまは、まるで――。


 ――ああ、神よ!


 エリスの悲鳴は暁光を引き裂き、その身は堅い床に倒れこんだ。

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