14.サロンにて、令嬢は憤る
「お父様は心配性なのよ!」
廊下で始まりかけた戦争は、なんとか回避することに成功した。
シェリーが口利きをしたからだ。しかしすべてシェリーのおかげというわけでもなかっただろう。リエールもまた自分の首筋を気にしていたからだ。
デニスは今までの二人のように部屋に戻ることを拒否して、リエールが連れてこられるまでそわそわと待っていた。それというのも、談話室で行われる調査の結果をずっと気にしていたからだ。
彼の虚栄はすっかり剥がれ落ちてしまっていた。それでも父親として娘の安否は気になるらしい。
男連中は、そわそわと手を組んだり離したりを繰り返すデニスを含めて、雁首揃えて廊下で待っているしかなくなった。
ローマンの要請とシェリーの選抜により、オリヴィアとタビタというメイドが手伝い、談話室の中でリエールの首筋を確かめさせたのだ。
とはいえ、もとよりこの屋敷には若い女性はこの二人ぐらいしかいなくなっていた。主人が吸血鬼だと知って気分を害して寝込んでいる者までいる始末で、この屋敷の中はより少ない人数で回っていた。いや、寝込んでいるならまだいいほうで、ショックで突然へたりこんだり、今すぐ国に帰らせろと泣きながら訴えた者までいるらしい。その中で二人を借りるのも一苦労あったが、この屋敷を取り仕切る執事の命令とあっては、拒否するわけにもいかなかったのだろう。
シェリーは全裸にする必要があるとも思えないし、わざわざメイドを呼ぶ必要があるのかと言ったが、デニスの不安を取り除くにはそうするしかなかった。
「銃やナイフはありますか? 効くとは思えないのですが」
ルードヴィッヒはシェリーに尋ねた。
「小型のならな。無いよりはマシだな」
シェリーは腰に手をやり、ルードヴィッヒは示された先に視線を落とす。そこにあるのは当然、蒸気銃だろう。利便性に優れた蒸気銃は、火薬を使った回転式拳銃をほぼ淘汰しつつある。誰かが銃とだけいった場合、それはもう蒸気銃に他ならない。
視線を外し、顔をあげる。
「どうです?」
ルードヴィッヒは談話室の中に向かって尋ねた。
「無いわ!」
きっぱりとした声が廊下まで響く。
「あと、鏡にも映ってるわ」
ルードヴィッヒはかすかに笑い、降り返る。
隅で冬眠前の熊のように背を丸め、右往左往している父親へ顔を向ける。
「これでよろしいですか? デニスさん」
デニスはまだぶつぶつ言っていたが、ひとまずは表情を緩めた。
シェリーが無言のまま扉へ近づき、拳をドアに当てようとした――そのとき、急に勢いよく扉が開き、シェリーは目を丸くして扉から離れた。中から乱雑に扉を開けたリエールは、驚いた表情のシェリーと顔を見合わせたあと、つんとしながら言った。
「あら、ごめんなさい」
まるで悪いことをした自覚のない、それでいて甘えるような声は、猫を思わせる。
「あ、ああ、もう着替えはすんでたのか」
「ええ、まあね」
そっけなく答える様子は、本当に猫のようだ。
「首筋にも、体のどこにもそれらしいものはないわ。虫に刺されたあとすらなし。これでいい?」
「それはそれは、結構なことです」
ルードヴィッヒは礼をした。
リエールは後ろにひかえたメイドたちを部屋からさっさと追いだしてしまうと、待ち望んでいたように両手を腰に当てた。
「リエール・ブラウムよ。さあさあ探偵さんにハンターさん? 私に聞きたいことがあるんでしょう? とっとと始めましょう! お父様はお部屋に戻って!」
気圧されたように、シェリーは肩を竦めた。哀れな父親を伴って部屋への護衛を再開した。後ろからローマンが同行する。
リエールはルードヴィッヒの目の前に回りこむと、期待をこめたきらきらときらめく目で見上げてきた。
「わかりました……」
ルードヴィッヒはリエールを先に部屋の中へ入れてしまうと、扉を閉めた。
リエールは楽し気に椅子に座りこむと、スカートを綺麗に整えて待った。これからアフタヌーンティーでも始まるかのようだ。やや暗い談話室に、明るいオレンジの花が咲く。
ルードヴィッヒが椅子に座ると、リエールは身を近づけ、小声になる。
「ねえ、あのヴァンパイアハンターの人、シェリーっていったかしら? どういう方なの?」
唐突な質問に、ルードヴィッヒは苦笑しそうだった。
「さあ、聞きたければ本人にお尋ねすればよろしいのではないですか?」
「あら! そっけないのね。心配せずとも、あなたのこともちゃんと気になっているのよ、探偵さん! でもあたし、本当にわくわくしてるの。吸血鬼にヴァンパイアハンター、これほど心躍ることはないわ!」
「恐ろしくはないのですか?」
リエールは夢見るような瞳から現実に戻ってくると、ぱちりと大きな瞳を瞬かせた。
「だってここは退屈なんだもの! お父様は優しいけれどね、ちょっと甘いの」
甘やかされているであろう本人からそんな言葉が出ることに、思わず口の端が動きかける。なんとか平静を保ち、無言を貫く。
「あなた、アドルフおじさまが人間だってことを証明するために呼ばれたんでしょう? 進歩はどうなってるの?」
興味の尽きぬ目が輝く。
「さて、どうでしょうね」
「教えてくれたっていいのに! それともやっぱりおじさまは吸血鬼なの?」
「気になりますか?」
「それはそうよ! あたし、お父様に何度もここに連れてきてもらってたから。よく話したのはテオバルトさんだけどね。年上とはいえおじさまよりは近いし。でも、それ以上によくお話してもらってたのはおばさまだったわ」
ルードヴィッヒは興味をひかれ、このままとりとめもない話をしようかと思っていた姿勢を正す。
「アドルフさんの奥方のことですね」
「ええ、そう。名前はたしか、ティーナだったかしら? おばさまがいたころはまだメイドたちもたくさんいたわ。あんまり男の人と関わる機会はなかったから、おばさま付きのメイドたちにもよくしてもらってたの」
「シェリーさんが戻ってくる間に本題を進めてしまうのも不公平でしょうから、少し昔話でも聞かせてくれますか? ティーナさんのお話ですとか」
誘導に、リエールはうまく引っ掛かった。笑いながらうなずき、なにを聞かれるのかという期待を隠しもしない。
「ティーナさんとは仲がよろしかったのですか?」
「仲が良いっていうか、このお屋敷には女の子がいないから。そもそも、どうしてお父様があたしを連れてくるのかもよくわかってなかったし。お父様やはテオバルトさんと私を話させたがったけど、あたしはそれよりも、おばさまと色んなことをお話するのが好きだったわ」
目に浮かぶようだ。
「さっき、ここは退屈だっていったでしょう? おばさまがこの屋敷を出て行ってしまったのもそうなの。あたしはずっとおばさまと話がしたかったから」
リエールは残念そうに首を振る。
「テオバルトさんもそれはわかってたみたいね。それに、呼ばれるのはだいたいパーティの時ばかりだったから、他の人たちもたくさんいたのよ。だから、あたしが誰と一緒にいようがお父様にはあんまりわからなかったみたいね。とにかく、あたしはおばさまと一緒によくいたわ。おばさまは、おじさまのことはあんまり好きじゃなかったみたいね。夫婦っていうのはお互い好き同士で結婚するのが一番いいと思うの。むろんそれは理想論のはわかってるわ。最初はお見合いだとしても、段々とお互いをよくわかっていくのもそれはすてきなことよ。だけど、おばさまはおじさまとはうまくいってなかったみたい。ずっとね」
「それはどうして……?」
「男女の、しかも夫婦間の問題がそう簡単に説明できるはずないわよ」
リエールはつんとして言ったが、どことなく気まずそうだった。
つまり、よくは知らないということだ。
「でもおじさまが、メイドや他の綺麗な女の人によく絡んでいたのは見たわ」
リエールは表情をゆがめる。
「だけど、親愛というより……その……メイドのお尻を触ろうとしたりしていたのよ。もちろんおばさまたちが冷え切ってたのは、そういうことだけってわけでもないでしょうけど。あんまり――その――こういうことって、男の人の前で言うことでもないけど、男の人のいやらしいところって見たくはないのよ」
リエールの眉に皺が浮かんだ。猫のような甘えた表情とは違う、嫌悪とも怒りともつかない表情だ。そのとき幾つだったのか定かではないが、おそらく少女にとっては恋愛とは誰かひとりを命がけで愛する、「ロミオとジュリエット」めいたものだったにちがいない。それこそ小説やオペラの中で繰り広げられるような理想の塊だったのだろう。
それなのに、自分の知り合いが”いやらしい”ところを隠しもしないのであればなおさらだ。目の前で少女の夢とでもいうものを壊されたら、そんな顔にもなるだろう。
「この屋敷に来るたびに、メイドの顔ぶれが変わっていたわ。頻繁に来ているわけじゃないからわからないけど、しょっちゅう新しい子が入ってたの。それもあって、ここに来るのはちょっとイヤだったわ。お父様があたしを引っ張ってくるし、おばさまもいたから来ていたけど……」
それから、リエールはふっと表情を崩した。真剣な目。
「でも――もし、もしもよ、おじさまがそのときから吸血鬼だとしたら――」
ノックの音が響き、リエールはそれ以上言わなかった。
「どうぞ!」
振り返り、招き入れたのはリエールだった。扉が開かれ、シェリーと、その後ろからローマンが静かに入ってくる。
「お帰りなさい! さあさあ、待っていたのよヴァンパイアハンターさん! あなたのお話も聞かせてちょうだいな?」
「そいつはうれしいねえ」
シェリーはにやりとする。
「だが、現状、ここが危ないのは承知してもらえるだろうな? 今は何ともなくても、もしかしたら何か起こるかもしれないんだ。そうなったら、俺はあんたの御父上に申し訳が立たない」
「あら、お父様と何か関係があるの?」
「お嬢さんの護衛を頼まれたんだ。前金でな」
シェリーは懐が温まったようで、おそらく内ポケットのあるであろう場所を叩いた。
「おや。僕はむしろ、あなたはエリスさんを気にしていると思いましたが」
ルードヴィッヒは首を傾ぎ、率直に尋ねる。
「エリス? ああ、シスター・エリスのことか。第一発見者の……」
「デニスさんもそうでしたが、本当はシスター・エリスが吸血鬼を斃したのではないか、と思ってらっしゃるかたも多い。それに、あなたがいうように仲間の吸血鬼がいるのなら、仲間もそのように思って――彼女のほうが狙われるかもしれない。仲間が男なのか女なのかわかりませんからね」
「ああ、そうだった!」
シェリーはぽかんとしていたが、やがて合点がいったように目を見開いた。
「だが、今は聖堂にいるから大丈夫だろう。そいつはあとで考えるとして、あんたの話をはじめようじゃないか。もう最後なんだろう」
「そうですね。警察署長に頼むのも良いでしょう。ではお待たせしました、はじめましょう、リエールさん」
「でも、私はシェリーさんのほうが気になるわね。どんな吸血鬼を狩ってきたのかとか。あとでお話してくれる?」
「いくらでも! だが先に仕事を片付けてしまおう」
ルードヴィッヒは今までの三人と同じ質問を投げかけた。しかし成果は芳しくなく、デニスにカードゲームに付き合わされたことにうんざりしていたほかはほとんど同じだった。
「お酒は良いものだったみたいね。あたしは飲んでなかったけど、空気に呑まれてしまったみたい。部屋で早々に寝てしまったわ」
話はまったくもって同じで、収穫はほとんどないと思われた。彼女が早々に寝てしまったように、帰してしまおうかとすら思えてくる。シェリーも退屈そうな顔を隠すこともなく、大きなあくびをひとつこぼした。
怠惰な空気が部屋に満ちたそのときだった。
「それに、アドルフのおじさまが脅すんですもの」
彼女の口から奇妙な言葉が飛び出た。
ルードヴィッヒは憂鬱に沈んだ瞳に英気を取り戻し、このおしゃべりな子猫から何を聞きだせるかという期待に胸を躍らせた。
「脅した?」
「ええ、こんな夜にはヴァンパイアが出るかもしれない、って」
ルードヴィッヒとシェリーはお互いを見つめた。それからローマンに目をやると、かすかに肩を竦めて首を振った。自分は聞いていない、という意思表示だ。
「あたし、そんな脅かしには屈しないつもりだったけど。部屋でひとりになったら、急に怖くなって……確か、十時くらいにお父様たちが遊戯室から戻ってくるのが聞こえて……、楽しそうに笑ってるのが聞こえたわ。ほっとしたけど、そのあとすぐにしーんとしてしまったのが恐ろしくなって……そうそう! ホットミルクを飲もうと思ったの。あたし、いつもそういうときはホットミルクにしようって決めてるのよね。だけど、今日は疲れているだろうからって、ローマンやメイドたちも早くひっこめさせたのを知っていたの。だからあたし、そうっとキッチンへ向かったのよ。それが確か十時半くらいね。ローマンがキッチンで片付けを終えたところだったわ。メイドだったら、そのまま食堂で話していても良かったんだけど……。器は明日渡してくれればいいといわれたから、ホットミルクを貰ったら部屋に戻ったわ」
「そのあとはどうされました?」
「それから十二時すぎまで、持ってきた本を読んでたの。モンテ・クリスト伯についての研究書よ。研究書というけど、彼がやったことと、その正体を突きとめようって話。不思議な人よね。まだ途中だから、彼が絡んだと思われる出来事についてまだ少ししか読めていないけれど……、ああ、そうそう、違う話だったわね。どこまで話したかしら? ええと、なんだかまだ眠れそうになかったし、カップをキッチンに戻そうと思ったの。器を片付けるくらいは頼らなくたってできるもの。だけど……」
言いよどんだリエールを、ルードヴィッヒは辛抱強く待つ。その様子に安心したようで、リエールは続きへと入る。
「客室棟から出て、本棟までたどりついたら、かすかに扉が閉まる音がしたわ。階段の上からのぞきこんだら、誰かが出て行ったみたいだったの。鍵がかけられたから、誰か使用人が起きていて、外へ出て行ったかしたのかと思ったの。もしかしたら使用人でも、住みこみじゃなく家があって生活してる人なのかもしれないし……」
ルードヴィッヒがローマンを見ると、彼はかすかに眉を顰めていた。視線に気が付くと、すぐに我に返ったように普段どおりの無表情へと戻ったが、少なくとも動揺していたのは明らかだ。
「ねえ。こんな話、本当に役に立つの?」
「ええ、とても。ありがとうございます」
ルードヴィッヒはにこりと笑いかけた。しかし、まだリエールが困ったような顔をしているので、彼はまだ言葉を紡がなければならなかった。
「少なくとも誰かが歩いて外出したことは証明されましたよ」
リエールはしばらくぽかんとしたあと、まあ、とどことなく怒ったような調子で口をおさえた。ジョークを言ったのだと思ったらしい。
「そうだ、リエールさん」
「なあに?」
「アドルフさんが吸血鬼だったことに対して、どう思われます?」
「ええ? どう、って言われても……」
今度は唐突に質問が飛んできたことに、リエールは戸惑いを隠さなかった。眉を寄せ、視線を外し、それでもなんとか質問に答えようと言葉を探していた。
その表情にかすかな怯えの色が混じる。
「……こんなことね、あたし思っちゃいけないと思うんだけど……吸血鬼でよかったと思うわ。人が殺されるなんて恐ろしいことだし。それに……その、わかるでしょう?」
アドルフが女性を物色していたのは、吸血鬼だから。きっと誘惑して血を吸えるものを探していたに違いない。
彼女が言いかけたのもそういうことだった。
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