13.サロンにて、貴族は嘆く

 落ち着いているはずのサロンは、いまや奇妙な空気に包まれた。

 かつてこの部屋で談笑し、ゲームのカードで一喜一憂し、タバコの煙を優雅に吐きだした過去など忘れ去られてしまった。

 ルードヴィッヒは静かに斜の入った灰色の目を光らせ、ローマンはまるで置物のようにたたずんでいる。シェリーだけがそれを面白くなさそうな目で見つめるという按配だ。

 そうして蛇の前に捧げられた生贄のごとく、蛙が連れられてくるのだ。

 今度の蛙はまるまると太っていた。


「デニス・ブラウムだあ」


 丁寧な口調で喋るたびに、顎の下についた贅肉がたぷたぷと揺れた。単に太っているというより、そろそろダイエットを本格的に意識したほうが良いぐらいだろう。おそらくオーダーメイドと思われる茶色いスーツのボタンは今にもはじけそうだった。

 年頃は五十くらいかと思われたが、正確な年齢は脂肪のせいでわからない。薄い髪の毛をきっちりと揃え、奇妙な風貌は見る者の笑いを誘う。膨れた体を窮屈そうに椅子に預けると、その体と同じく大柄な態度でルードヴィッヒをまじまじと眺めた。

 ルードヴィッヒはさっさと自己紹介をすませ、早いところこの個性の塊のようなものをやっつけてしまおうと誓った。


「探偵だそうだなあ」


 仮にも元貴族の家系であるからには品のある言葉遣いを叩きこまれているだろうに、彼の話し方といったらすっかり間延びしきっていて、おまけにひどく籠ったような声をしていた。


「わたしは協力は惜しまないが、いったいなにを話せというんですう?」


 胡散臭そうに、じろじろとルードヴィッヒを見つめている。


「大したことは望んでおりません、閣下。閣下がこちらへいらっしゃった理由や時間などを教えていただければ結構ですので。あとでいくつか質問もさせていただきたいと思っておりますが……」

「はあ」


 デニスは気のない返事をした。


「ここにきたのは、昨日の昼間でえ――時間? そんなものはおぼえてやいない、ローマンに聞けばわかるんじゃあないかな。なあ?」


 デニスはばかみたいに大口を開けたまま、部屋の隅で従順に突っ立っているローマンに尋ねる。


「具体的な時間はわかりかねますが、大体三時半頃だったと記憶しております」

「そうだった、そうだった! アドルフがちょうど外にいてねえ、出迎えてくれたんだ」

「雨か何か降っていたのんですか?」


 この巨体を傘ですべて覆い隠すことは可能なのだろうかと思いながら尋ねる。


「雨? ああ、傘を持ってきたかということかい? いや、いや! そんな理由で出てくるような男じゃないさあ。それに、傘なんていらないほどの天気だったしねえ。庭師の仕事にあれこれ口を出していたみたいだったなあ。部屋であれこれやって、途中でメイドにコーヒーを持ってこさせて……あとは談話室で娘を相手にカードをしてたよう。六時くらいに呼びだされて食堂に行ったんだが……いやはや!」


 ぼんやりと呆けるように語っていたデニスの瞳が輝いた。


「夕食は美味かった!」


 あまりに断定的に告げられたので、もう少しでルードヴィッヒはふきだしてしまうところだった。


「小規模の夕食会というから、期待はしてなかったんだがなあ、いや、あの子羊のソテーはなかなか良かった……、シェフも雇えない田舎の、メイドたちの手料理にしては上出来だったよう。肉は柔らかくて、子羊のいいところがぎゅっと濃縮していたし、スパイシーさはよく出ていたし……わたしはラムのクセのあるところが好きなんだけどねえ、ハーブの香りがそれにうまくあわさって……それにワイン!」


 思いだしているだけで、今にも蕩けそうな顔だ。


「ワインは絶品だった……わたしは”元”とはいえまっとうな家柄の人間だからねえ、そのあたりの人間とはいろいろとなかよくやっておるんだが、それでも彼らのパーティで出されるようなワインに匹敵した……」


 デニスは、今にもだらしなく口元から恍惚の涙を流しそうだった。それらの涙をごくりと飲みこむ。ルードヴィッヒは今この人間と対面しなくてはいけない事実をこそ呪った。


「それほどのものだったのですか」

「そうとも! いったいだれが……いやいや、わかっているよお、アドルフ自身が選んできたんだろう? 田舎の成金とはいえ、そのあたりは田舎執事よりはきっとわかっているだろうさ……」


 ルードヴィッヒがちらりとローマンを見ると、かの執事はこれっぽっちも表情を変えぬまま、主人を褒められたことに礼を尽くした。


「南ランジュ地方のシャトー・ド・ルージュというものでして。1790年のはじめに……」

「ああ、ああ、解説はいい。とにかく美味かったんだ」


 デニスは片手をあげ、ローマンの話を止めた。ワインといわれてもぴんとこなかったルードヴィッヒにとっては、この語りたがりが止めたのはありがたくないできごとだった。あとできちんと尋ねてみようと思うほどに興味はひかれていたのである。ワインは奥深く、軽くたしなむ程度の者からすればその手に精通している者の話は面白い。


「肉とあわさって高め合うというのかねえ。どちらか一方だけでも充分なのだが、二つが……」


 デニスはしばらく、表現をあれこれ変えながらまったく同じことを繰り返し話し続けた。要は肉とワインが最高だったというただそれだけのことをべらべらと解説し続けたのである。ルードヴィッヒは話を聞きながら――ちょうど良く話が切れるところを探していたのだ――咳払いをした。話が止まらないのは宿屋の女主人だけで充分だ。


「あの、そろそろ本題に戻してもよろしいでしょうか?」

「おや、少々語りすぎてしまったようだねえ。失敬失敬……どこまで進んだっけ。ああそうだ、とにかく夕食のワインでいい気分になったんだよ。おかげで……ビリヤードに誘われはしたけども、一時間ともたなかったなあ! 普段はもう少し粘るんだがねえ、とっとと部屋に引っ込んで、いい気分のまま寝てしまったよう」

「では、その間に足音や人の声を聴いたりといったこともありませんでしたか?」

「ないなあ――足音なんてこの屋敷じゃあ聞いたことないよお。絨毯だけはいいもののようなんだ……人の声やノックならするけどねえ」


 そこでデニスは言葉を切った。肩をすくめて、下の唇を突きだしてみせる。まるで何もないだろうといわんばかりだった。

 しばらく沈黙が続いたあと、ルードヴィッヒが切りだす。


「デニスさんは、アドルフさんが吸血鬼であったことについて、どう思います?」

「さあ、どう思うと言われても……」


 彼は大きく目を見開いてみせた。


「わたしはあ、どうにも信じられんのだよお。ほんとうに吸血鬼なんていう化け物がいるのかねえ? わたしは都会人だからねえ。アドルフは悪いやつではなかったがあ……、しょせん、田舎の成金だろう? この屋敷だって、なんだかんだいわれたって……、もともとは別荘用でしかなかったわけだし」


 ぺしゃくちゃと口の中の唾液を飲みこむ。


「グリムとかいう探偵協会も、わたしはこの目で見たわけではないからあ……、まあ、本物のヴァンパイアハンターとやらもいるようだが……」


 それからデニスはシェリーへ目をやった。シェリーが顔をあげる。デニスは魔法事件や怪物事件を専門にする探偵も、吸血鬼を狩るハンターの存在も、あまり信用してはいないような口ぶりだ。


「でもねえ、そいつはおいとくとして、吸血鬼だの人狼だの……見たことはないが、新聞の片隅に記事くらいは載ってるからねえ。見たことがないからといって、それらがすべて嘘だとは思わんよう。それに、ナイフが勝手に動いたなんていうのは……それこそ……」


 だがその物言いは、必死に自分に言い聞かせるようだ。


「それに――そのう――」


 両手を揉み合わせては離したり、ぎゅっと掴んだり。平静を保とうとしているようだ。


「吸血鬼は、シスターの……なんといったかなあ、けっきょくのところ、あの娘が斃したんだろう、んん?」

「シスター本人はあの死体を見つけたと言っております。ですから、記憶の錯乱がない限りは、まだ誰が吸血鬼を斃したのかは判明していません」


 デニスは声をなくして、そのまま凍りついた。

 唇を舐め、脂汗を浮かべる。


「わたしは――その、それならば、吸血鬼の存在を信じるよう……。殺人が起こったなどと――その、そんな恐ろしいことは考えたくないから……」


 片手をこすり、大きな宝石のついた指輪を撫でまわす。外そうとしたり、嵌め直そうとするのを繰り返した。


「何か気になっていることがあれば、おっしゃってください」


 ルードヴィッヒは極力優しく尋ねることにした。デニスはぎくりとして手を震えさせ、まじまじと目の前の探偵を見つめる。


 殺人。

 それは吸血鬼の存在よりも恐ろしいのかと、ルードヴィッヒは心の中で尋ねた。決して答えなど返ってはこないだろう。しかし、その心の内は理解できた。誰とも知れぬ殺人者がうろうろしているよりは、吸血鬼が倒されたという「事実」のほうが受け入れやすいのだろう。そしてそれはきっとデニスだけではない。


 当のデニスは声色にわずかながらゆっくりと微笑んだ。

 しかし、いざ何かを伝えようとぶるぶると脂肪を揺らし、口をぱくぱくと開けたり閉じたりを繰り返す。


「ああー……」


 たじろぎ、きょろきょろと辺りを見回す。そんなところに適切な言葉が落ちているはずもないのに。それから巨大な身をかがめてルードヴィッヒへと近づいた。


「これはその、わたしの推測なんだがあ……」


 ぺちゃりと唇を舐めて、声を潜める。


「実をいうとねえ、わたしがここに来たのはあ、融資の相談をされたからなんだよう」


 ここにはローマンもシェリーもいるし、話をするのは二人だけではない。けれどもそんなこと頭から吹き飛んでしまったように、小さな声で話しだした。


「ほう、いったいなんの?」


 ルードヴィッヒは興味を持ったことを悟られないよう、極力自分をおさえた。


「具体的には知らないよう。だけど、もらった招待状の手紙に……、そんなことが書かれてたんだあ。むしろ、具体的なことは翌日にでも話すとあったんだよう。けれど、大事なのはむしろ――」


 デニスは咳払いをする。


「リエールを――わたしの娘と、テオバルトを見合いでもさせようという腹積もりだったんじゃないかと思っていたよお」

「は? お見合い……ですか?」


 これまた急に話が別方向へ跳んだので、思わず目を瞬かせる。


「アドルフと会ったのは、いつだったか……、まだアドルフが新参として社交界にデビューしたばかりだったねえ。金製品の収集家だった、アンドロマリウス卿からの紹介で知り合った……、そのころにはもう鉱山に入るのはやめて、経営者としての顔をのぞかせていた……そこから、ちょくちょく手紙のやりとりをしたり、パーティに招かれたりしたんだ……。リエールは三番目の娘でねえ、よく連れてきてたよう。今回の招待状の手紙にも、久々に娘の顔を見たいとかなんとか、うまいこと書いてあったんだよう。リエールが承諾したから連れてきたけれど……、失敗だった。本当に失敗だったんだあ!」


 男は声を荒げ、両手を振り下ろした。テーブルが音を立てる。


「テオバルトも悪い男じゃあないと思っていたよう。でも、金が減ってると聞いて考え直したんだあ」


 ルードヴィッヒは、このこころがわりの原因を納得した。金がこれからも採れ続けるというのなら、その鉱山の管理者や経営者としてのテオバルトは悪くないだろう。だが、その金が減っている現状ではそっぽを向くのも仕方がない。おそらくアドルフのことを田舎成金と馬鹿にするようになったのもそれが原因だろう。

 そして、もうひとつ。もしアドルフがテオバルトとリエールを結婚させようとしていたのなら、その理由もまた金の産出量の現象が絡んでいるのだろうか。つまりはアドルフとその妻であった女性と同じで、金目当ての政略結婚――。

 だがその男は――デニスからは見捨てられ、おそらくその現実を突きつけられる前に、吸血鬼の烙印を押された。


「もしかすると、アドルフが吸血鬼ならば、金が足りないだのいうのは嘘で、吸血のためだったんじゃ、と……」


 デニスはもじもじと巨体を揺らした。顔は赤く、吸血鬼の存在に懐疑的だった先ほどまでとはうってかわっていた。


「リエールは一番下の女の子でね、わたしにとっても一番可愛い娘なんだよ」


 哀れな蛙はいまや泣きそうに顔を歪ませた。


「こんなところに連れてくるんじゃなかった……!」


 両手で顔を覆い、椅子の背に背中を預ける。ぎしりと椅子から悲鳴があがった。

 スーツの内ポケットから取り出したハンカチで大量の汗か涙かわからぬものを拭い去ると、そのまま中にしまいこむ。


「まさかもう傷物にされているなんてことはないよなあ? き、き、きみは、吸血鬼やらも相手にするんだろう?」


 相手にするのは探偵によってまちまちだ。それらを相手どる探偵もいるが、まだ対決したことのない者もいる。


「それは今から確かめてみるしかありませんね」


 ルードヴィッヒはしっかりとシェリーを見つめる。シェリーはくいと顔をあげた。


「シェリーさん。大変申し上げにくいのですが、今、鏡を持っていませんか?」


 ルードヴィッヒが尋ねると、シェリーは一瞬ぽかんとしたあと、空気を一蹴するように爆笑した。


「女じゃあるまいし!」

「……そうですね。失礼いたしました」

「手鏡ならば、こちらでご用意できるでしょう」


 ローマンがすかさず言ったので、ルードヴィッヒは迷わず承諾した。


「それで、鏡なんざいったい何に使うんだ?」

「リエールさんの首筋に何もないことを確認していただくためですよ。それと、二人ほどメイドがいらっしゃったら連れてきてください。リエールさんのお話を聞く前に、まずはデニスさんの心配事を取り除いてしまいましょう」

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