11.サロンにて、画商は怒る
客室棟に入ってすぐの右側の突き当りに、談話室はあった。
「俺は雇い主と話をつけてくるよ」
シェリーはそう言うと、くるりと踵を返して左側へと歩きだした。左の通路をちらりと見ると、上へ向かう階段があり、その向こうにはドアが二つ並んでいた。下へ向かう階段は見たところなさそうだ。立地上は斜面だったようで、仕方なく此処の棟は一段上がったところに作られているらしい。
ローマンはシェリーを見送ったあと、談話室の扉を開けた。
こちらは一体どんなものかと思っていたが、驚くべきものだった。
客人たちのための談話室は、落ち着いた雰囲気だった。サロンという言葉が上流階級の社交界そのものを指すようになって久しいが、今でも細々と元の意味が生き残っているように、その談話室はサロンと呼ばれるにふさわしい。
真ん中に置かれた丸テーブルには、足元まで隠れる黒いテーブルクロスがかけられていた。足元の方は金糸で刺繍が施されている。そのテーブルを囲むように、椅子が六脚置かれている。左の隅の方にも二つほど余分に椅子が用意されている。カーテンのかけられた窓の近くには、長方形のガラステーブルと二人掛けのソファが並んでいる。右側には床から天井まで届くマントルピースが存在を主張していたが、それだけの大きさにも関わらず決して視界を邪魔することはない。
棚には本が何冊かあり、聖書が一冊置かれているほかは、ほとんど旅行記や他国の写真集だった。その中に鉱山の歴史を記したものが混じっているあたり、本の選択をしたのはアドルフかもしれなかった。昔は何が置かれていたかうかがい知ることもできないが、無難な選択ともいえよう。他にもトランプをはじめとしたカードやボードゲームも幾つか置かれていて、誰でも自由にとりだせるようになっていた。
この部屋にも花瓶があり、赤い薔薇が飾られている。
少なくともこの部屋ならば泊り客たちを落ち着かせることもできそうだった。ルードヴィッヒはクロスのかけられた丸テーブルを眺めた。大きさも申し分ない。
「このテーブルがちょうど良さそうですね」
「では、椅子を移動させましょう」
ローマンは最初、自分だけで移動させるつもりのようだった。ルードヴィッヒが椅子に手をかけた時に目を留められたからだ。それでも軽く目くばせすると、そのまま黙々と二人で椅子を隅へと追いやった。ローマンの動きはどこかぎこちなく、無理やり何か仕事をすることで心を落ち着かせようとしているようだった。ローマンが椅子とテーブルの位置を調整している間、ルードヴィッヒは薔薇に目を留めた。まだ瑞々しく咲き誇っている。
「ここも薔薇の花なのですね。見事なものだ」
「ええ、この部屋も昨日変えたばかりでして。お客様がいらっしゃいますから」
クロスの皺を手で伸ばしてから、ローマンは姿勢を正した。
「良い庭師がいらっしゃるのでしょうね」
「ええ、二人ほどですが。一人はトマスという男で、馭者も兼ねているんです。粗忽者ですが、花の手入れについては文句がありませんね」
「ほう、そうですか。後で使用人の方々にもお話を伺いたいのですが、どんな方々がいらっしゃるのですか?」
「ええと――」
ローマンは何人かの使用人の名をあげた。今は彼自身を含めた十人ほどで家を回しているらしい。それでも充分すぎるほどだと思ったが、この屋敷のことを考えればもっといてもいいくらいだ。
「じっさい、昔はもっとたくさんいたのですよ」
ローマンはやや寂し気に続けた。
「特にこの屋敷を買い取った頃――二十年ほど前になりますが、その頃はぐっと使用人も増えましてね。屋敷の改修にも随分と時間をかけました。何しろ人手は常に足りていませんでしたので。私も当時の執事がそうであったように、男の使用人だけの面倒を見ていて、メイド長もちゃんといたのです。そのころには金鉱の採掘も鉱夫たちを雇うようになっていたので、彼らを直接束ねる専門の召使たちもおりましたしね。メイドたちは入れ替わりも激しかったのですが、当時は一人辞めてもすぐに雇えるだけの人材があふれておりましたから」
しかしそれから十年も経つと、金鉱や細工仕事も過去の産物になっていったのだという。
仕事を求めて外へ出て行く若者たちも増え、それにつられて若い力が一人減り二人減り、徐々に静けさを取り戻していく様子がありありと目に浮かんだ。
そのうえ、ヴェンデルス卿の奥方が専任のお付きメイドたちを連れて出ていってしまって以後、更にぐっと減ったようだ。
「申し訳ありません。つい詰まらない話を」
「いえ、そんな事はありませんよ」
ルードヴィッヒがにこやかに返すと、不意に扉が音を立てた。
二人が同時に扉を見ると、シェリーの姿があった。
「おや、シェリーさん。はやかったですね」
声をかけたが、シェリーは口笛を吹いて辺りを見回していた。
「こりゃすげえ」
彼は秘密の部屋でも見つけたかのように入ってきた、しばらく物色するような視線をあちこちに向けていた。彼もこの部屋にははじめて入るのだろう。
やがてルードヴィッヒの存在にはじめて気付いたように咳払いをすると、肩を竦めた。そうして、ルードヴィッヒが先にいたにも関わらず、残念そうな、この秘密の部屋にどうしても入れない者を見つけたような顔になった。
「おっと。それどころじゃあなかったな。俺の雇い主――アレックス・ロウマンダーっていう画商なんだが」
申し訳なさそうな声で、もう一度咳払いをする。
「しくったよ。アレックスの旦那に話をしたら、そのふざけた探偵を叩き殺してやる、とおかんむりでな。いや、気を悪くするなよ。あんたは気を悪くするかもしれないが、俺が何か言ったわけじゃない。とにかく、俺ですらその勢いをどうにもできなかったよ」
宥めるような、演劇で嫌な役を押し付けられた子供に対してするような声だ。大げさに言っているわけではなさそうなのが見てとれる。
「だから、もうちょっと俺が話をつけてくる。その間待っててくれないか?」
「シェリー殿! シェリー・アッカーソン殿! どこへ行ったのですか?」
だが、問題の声らしきものは廊下に響き渡り、扉が――あけ放されているとはいえ――談話室の中にまで届いた。
シェリーは貼りついた表情のまま扉を眺めた。その表情のままくるりとルードヴィッヒに向きなおる。
「すまないな、どうしようもないかもしれん――アレックス氏のお出ましで」
「まあ、そのときは腹をくくりましょう」
男の声はやがて談話室まで近づいてきたかと思うと、開けっ放しになった扉の中にいるシェリーの姿を見つけた。
「シェリー殿!」
アレックス・ロウマンダーはがっしりとした体躯の、五十代後半くらいの男だった。髪を丁寧に後ろへ撫でつけ、紳士然としてスーツに身を包んでいるものの、興奮で顔は赤らみ、つい今しがた試合を終えたばかりの格闘家のようだ。今にも体中から煙が立ち上ってきそうですらある。
シェリーの後ろにいるルードヴィッヒの姿を見つけると、それはより顕著になった。
アレックスは獲物を定めた熊のような目でルードヴィッヒを見据えていた。ルードヴィッヒはこの怪物を最初に相手にしなければならないことに、感謝と動揺を覚えた。いかにしてなだめすかし、喉元に剣を突き立てるかを早急に考えなくてはならない。
「お前が探偵とやらか」
鼻息荒く、アレックスは吐き捨てた。
「ルードヴィッヒ・エインと申します。このたびはどうも――」
「挨拶などいい」
彼は不機嫌に吼えた。近くにいたローマンをひと睨みして肩を掴んでから、乱暴に向こうへ押しやった。ローマンは文句も言わずに壁際へと退避した。そんな様子を見ることもなく、彼はルードヴィッヒに詰め寄った。
「お前がこの事態をひっかきまわそうというのか? ええ?」
今にも殴りかかってきそうなほどだ。
「ただでさえ私はこんな――こんなところに閉じ込められて――そのうえ探偵だと!」
急激な怒りのせいか、ぶるぶると震えている。
うしろからシェリーがその肩を叩くと、彼はびくりと肩を揺らした。
「まあ落ち着けよ、アレックスさん。この探偵君だって迷惑しているだろうさ。そうだろう?」
「シェリー殿! 私は――私はもはやあなたしか信用できないのです!」
震え声は不意に弱弱しいものとなる。
「あなたがいなければ、今すぐにでもこんな所から出て行っている。私だけではない、他の奴らだってきっと――いや、私はただ恐ろしいのです! どうか、どうかあの吸血鬼の息子を今すぐにでも何とかしてもらいたいんだ!」
それだけ喚くと、彼は言いたい事だけを吐きだして落ち着いたのか、無言になった。ふうふうという呼吸だけが部屋に響く。
シェリーは肩を竦めた。
どんな形であれ、落ち着きを取り戻してはきたようだ。今のところは。
「いいか、シェリー殿がいなければ今すぐにぶん殴ってやるところだったんだ。少しでも舐めた真似をしたら――」
「重々承知しております」
ルードヴィッヒはその変わりように口を挟まぬまま、椅子を示した。
「どうぞ、おかけください」
ぎこちない空気の中、二人は無言のままそれぞれの椅子の背に手をかけた。アレックスは威厳を誇示するように勢いよく椅子に座りこんだ。
ローマンは変わらず部屋の隅できちんと背筋を伸ばす。シェリーは近くのソファにどっかりと腰を下ろし、なりゆきを見守った。
「それで?」
アレックスはコツコツと指でテーブルを叩いた。
「いったい私に何を聞きたいというんだ?」
「簡単なことです。アドルフさんとの関係や、ここへいらっしゃった経緯と、あなたの行動をお願いします――アレックス・ロウマンダーさん?」
確認のように名を呼ぶと、アレックスは忌々し気に鼻を鳴らした。
肯定の証だった。大きく息を吐きだすと、思い返すように話しはじめる。
「数年――六、七年ほど前だ。大判の絵が何枚か欲しいと紹介された。それまで奴が絵を買っていた同業が仕事を辞めるってんで、私を紹介したんだな。どんな田舎の大将かと思ったら、それがアドルフだったってわけだ」
アレックスはそこで言葉を切った。慎重に言葉を選んでいるようだ。
「だが金払いもいいし、州都の画廊から苦労してやってくる甲斐はあった」
深く息を吐く。少なくとも懇意にしていたようだと感じさせる。
「といっても、奴には絵はもとより芸術はさっぱりわからんようだったな。フェルメールとダヴィンチの区別すらつかなかった。奴が絵を欲しがったのは、アクセサリーをじゃらじゃらつける女みたいに、この屋敷に似合う絵をとっかえひっかえするためだったんだ。着飾るためだけで、深い興味はなかったんだよ。ま、そのおかげと言ってはなんだが、奴はすぐに上客の一人になった。この屋敷に来るのも一度や二度じゃなかった」
「ほう、そんなに?」
「昨日の夕食会もそうだった――奴は派手好きなんだ。自己主張の激しいタイプで、何かあっちゃ祝い事だなんだいってすぐにパーティを開いてはどんちゃん騒ぎをしていた。その間、薄汚い牙を出すことはなかったがな」
アレックスはうめいた。
「だから、少し前に奴から呼びだされた時も不審には思わなかった。夕食会だというから来たんだ。数名の――友人を呼んだ小規模なもの、という名目だったがな」
友人、というときのアレックスは、苦虫を一気にかみつぶした熊のようだった。
「そういった夕食会は珍しいものだったんですか?」
「いいや、時折あった。手を変え趣向を変え、とにかく飲むのが好きだったんだろう」
そしておそらくアレックスがこうして呼ばれるのは初めてのことでもないし、一度や二度のことでもないのだろう。
「この屋敷へ来たのは昨日の夕方近くだ。午後四時頃には到着した。奴はへらへらしながら出迎えてくれたよ。それから部屋に通されて、しばらくはのんびりしていた。久々の休暇だったし、午前中にも仕事を一つ片付けていたからな。六時になる少し前に、そこの――ローマンに呼ばれて、食堂へ行った。それから夕食会が始まって、終わったのは八時半か、九時頃だったかな。随分早いと思ったが、一緒に神父が呼ばれていたからな。彼らの帰宅にあわせていた」
小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「神父が吸血鬼の存在に気が付かないとはな」
「それで、その後はどうされました?」
「遊戯室の方に行ったよ。一時間かそこら、ビリヤードをやっていた。他の客も一緒だった。あの細工士のフランクと、でぶのデニスだ。あの吸血鬼――アドルフも誘ったが、奴はこそこそと自室に戻ったようだな。思えばあの時からおかしかったんだ」
アレックスは肩をいからせ、眉にだけは皺を寄せたまま、茶化すように言った。
「ほう、普段は違うのですか?」
「いつもだったら間違いなく誘いに乗っていたさ。だが昨日は」
身を乗り出す。
「乗らなかった」
意味ありげにルードヴィッヒを睨みつけ、身に刻むような声で呟く。
「きっと何か企んでいたに違いない。だから旧聖堂なんかにいたんだ」
アレックスは姿勢を戻すと、鼻を鳴らした。
「アドルフ氏と旧聖堂の関係について、何か知っていることはありますか?」
「ああ、もちろんだとも! 奴は旧聖堂を買い取ったらしいんだ。昨日の夕食会はそのために開かれたんだからな。神父がいたのもそのためさ。人の良さそうな顔して、ボンクラめ。それだから吸血鬼なんぞに騙されるんだ」
アレックスは舌打ちをして腕を組んだ。
「旧聖堂を買い取ったあと、何をするのかはご存知ですか?」
「そんなことを知るものか!」
即座に答える。
だが、考え直したように続けた。
「おおかた、自分にとって不利益なものを手に入れておきたかったんだろう」
ぶすっとした様子を見るに、本当に知らなさそうだとルードヴィッヒは思った。ルードヴィッヒはしばらくその様子を見ていたが、やがて手を軽く振った。
「では、遊戯室から戻ったあとはどうされましたか?」
アレックスは急に勢いを無くし、肩から息を吐いた。
「デニスと一緒に部屋に戻ったよ」
ぶっきらぼうに言い放つ。
「それでなくとも酒も入って、いい気分だったからな――ひとつ勘違いしてもらっては困るが、私はつぶれるようなへまはしない。忌々しいことに、いつにもまして上等な酒があって、機嫌が良かった。よく眠れると思ったのさ」
「それなら、夜中に不審な物音や足音を聞いたりもしなかったんでしょうね」
「さっきも言ったが、寝てしまった。それに、ここの廊下は靴音なんぞみんな吸い取ってしまうぞ。それからはずっと、ローマンに起こされるまで部屋で寝ていた。そうだろう」
アレックスはローマンをぎろりと睨んだ。
「さようで。よくお眠りになっておられました」
従僕が反逆の意を見せなかったので、アレックスはようやく不審げながらも目を離した。何かぶつぶつと呟いていたが、そのほとんどはアドルフに対する悪態だった。
ルードヴィッヒはしばらく黙ったあと、不意に尋ねた。
「アレックスさん。あなたは、誰がアドルフ氏を斃したと思われますか?」
アレックスは胡乱な目でゆっくりと顔をあげた。
「知らんな、興味がない」
その答えに、ルードヴィッヒは片眉をあげた。
「斃されたことのほうが重要だろう。そんなことは関係がないし、興味がない」
「アドルフ氏に恨みがあるような人間も?」
アレックスは目を見開いた。
「人間だったら吸血鬼に恨みがあるのは当然だろうが! 奴らは血を飲む薄汚いバケモノだぞ!」
彼はがなりたてたが、明らかに当惑を隠しきれないでいた。しばらく黙り込む。
それから急に立ち上がると、ルードヴィッヒを見下ろした。
「それに奴の死体は聖水でただれていた、それがすべてを物語っている。そうだろう!」
「そうですね。もし聖水をかけられていなかったら、完全に人と区別がつかなかったかもしれません」
ルードヴィッヒの物言いに、アレックスはうなずいた。
「ふん。わかってきたようだな」
満足げに言ったが、それでも考えるように少し黙ったあと、また口を開く。
「それに、あんな――あんな男が――殺されるなど、考えるだに恐ろしいだろう」
アレックスはどこかほっとしたような表情で呟いた。
「その点については、吸血鬼で良かったと思う。さあ、もういいだろう。聞きたいことはないな」
アレックスは尋ねる風でもなく断定した。
その近くで、シェリーが身じろぎをした。あくびをかみ殺しながら立ち上がる。
「部屋まで付き添いましょう、アレックスさん」
シェリーは急に素早く歩きだした。
「こんなのがあと三人も続くのか」
だがつまらなそうに、小さな文句を垂れる声だけがルードヴィッヒの耳に届いた。
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