5.死体と探偵は何も語らない
ルードヴィッヒはシェリーとともにヴェンデルス邸を後にすると、旧聖堂へと向かった。
名目上は案内ということだったが、実際のところははっきりしなかった。しかし、とにかく悪くはなるまいと拒否はしなかった。
「シェリーさんは、テオバルト氏のことはどう思っているのですか」
道すがらに尋ねる。
「もし本当に奴も吸血鬼だったとして、俺がいる限り下手な事はさせないさ」
彼は両手を大仰に広げ、肩を竦めてみせた。
「……そうですか」
ヴェンデルス邸から旧聖堂まで、それほど距離はなかった。来ようと思えばいつでも来られる距離だ。途中までは私道でもあるため人通りはなく、それを差し引いても、森に近い場所であるために鬱蒼とした茂みに覆われ、わざわざこんなところを通る人間もいなさそうだった。整備もあまりされておらず、どちらかいうと庭の方に力が入っていた。
結局、旧聖堂に辿り着くまでには人の気配すらなかった。そのあたりになるとようやく木々も減ってきた。
旧聖堂の前には警察の制服を着た初老の男が一人、自分の持ち場を誇示するように突っ立って注意深くあたりを見張っていた。
「やあ、ラインマーさん」
シェリーが声をかけると、男はすぐに振り返った。
警官にしては筋肉に欠けるずんぐりとした体型で、制服がなければ犯罪とは無縁の生活を送ってきたのではないかと思うくらいだ。帽子をかぶっていても、はげかかってテカテカとした額がよく見えた。
二人で近寄り、ルードヴィッヒは頭を下げた。
「こっちが探偵協会のルードヴィッヒ氏だ」
「警察署長のラインマーです。このたびはどうも」
ラインマーは挨拶を交わすと、すぐにルードヴィッヒから目を離してシェリーへと笑いかけた。
「何かわかりましたかな」
「さあ、今のところは調査もまだですからな。俺は依頼通り、アドルフ氏が吸血鬼であるという前提で動きますが」
「ラインマーさんは――」
ラインマーの目と意識を向けさせるために、ルードヴィッヒはわざわざ咳払いをせねばならなかった。
「亡くなったアドルフ氏は吸血鬼であると確信しているようですね」
「ああ……」
ラインマーはやや面倒臭そうに視線を彷徨わせた。
「私は子供の頃から、母親にこの町の吸血鬼の話を聞かされましてな。かつての同僚の中には信じない者がおりましたが、私は違います。大人たちはみな吸血鬼を恐れておりました」
ラインマーは胸のあたりを掴んだ。
制服に隠れた首には十字架がぶら下がっているようだ。
「それに、そういう魔物たちの事件というのは、都会で警官をしていた時にも話だけは耳にしましたしな。信じる信じないの話ではないのです」
「わかりますよ。僕自身も魔物が引き起こした事件は経験していますので。今回もその可能性はありますね」
ルードヴィッヒの言葉に、ラインマーはようやく機嫌を直したようだった。
「それで、現場は朝からそのままなのですか? 誰も手を触れておらず?」
「ああ、そうだ。猫の子どころか蝙蝠一匹通してない! 本当は早くヨハネスさんに頼んで焼いてしまいたいんだがね、シェリーさんがいなかったらとっとと処分してるところだ」
それでもラインマーは言うべきことを言ったとばかりに視線を外した。間髪入れずにシェリーに笑いかけたのを横目に、ルードヴィッヒは軽く頭を下げた。
旧聖堂の中も、外と同じで質素で小ぢんまりとしていた。左右あわせても十ほどしかない長イスが並び、古き良き田舎の小さな聖堂といった風だ。当時の人々にも、愛される場所だったのだろう――異様な死体さえなければ。
祭壇は、剣のためにあるといっても過言ではなかった。ただしそこにおさめられるべき剣はそこにはない。申し訳程度のガラスケースが開けられ、剣の形にくりぬかれたワインレッドの布だけが空しく敷き詰められている。そしてその剣は、祭壇と長イスの間に転がった死体に突き刺さっていた。
今度の仕事はこの死体が人間として殺されたのか、吸血鬼として斃されたのか見極めることだと改めて自分に言い聞かせた。
アドルフ・ヴェンデルス卿――。
五十そこそこの彼は、生前の意思の強さを思わせる瞳をしていた。息子に受け継がれたその瞳も今や驚愕に見開かれ、二度と瞬くことはないだろう。かつては金鉱の採掘で成り上がったという彼の肉体も、今はその息子に受け継がれてしまったようで、贅肉に変わってしまっている。
ナイフの突き刺さった箇所は、ナイフを中心にするように焼け焦げた肌が露出していた。中心といってもかなりの広範囲にわたっている。衣服の方にも同じだけ複雑な穴が開き、元は見目麗しいスーツだったのだろうが、今では下の方に残った金のボタンが空しくきらめいているだけだ。ボタンに掘りこまれた揃いの見事な装飾もすっかり色あせて見える。焼けた肌に近いところの金ボタンが一つ溶けかけていて、装飾が消えてしまっていた。
もう一度衣服を見回すと、穴だけが開いている箇所があるのに気が付いた。丸みを帯びていて、そこだけぽたりと聖水が落ちたようだったが、肌には到達していないのか、焼け焦げてはいなかった。
ルードヴィッヒは小さな小箱を取り出すと、その中におさめられたピンセットを取り出した。そうして、溶けかかった金のボタンを丁寧につまみあげ、箱の中へとしまいこんだ。
次はナイフの方へと視線を向ける。ナイフの刀身部分、特に肉体と近い部分が、酸化したように黒くなっている。銀のナイフとはいうものの、持ち手の装飾部分には金色が見てとれた。かなりの豪奢な装飾がされていたようだが、しかし一部が取れてしまっていた。きちんと左右と裏表で同じように配置されているのだが、明らかに足りない部分が見てとれる。
――銀に金の装飾とは。
吸血鬼を殺すためだけに作られたというには随分と豪華に思えた。しかしそれも百年前のことだというならわからなくもない。それに当時は腕のいい職人も随分といたのだろう。
ともあれ再び小さな小箱の中から、ペン型のメスのような細い刃を取り出すと、刀身の黒い錆のようなものへと押し当て、丁寧に削り取った。粉状になったそれを小さなガラスケースにおさめると、再び箱の中にしまいこんだのである。
それからもルードヴィッヒはアドルフ氏の頭を持ちあげ、そこに傷がないかどうかを調べたあと、指先や首のあたりも丹念に調べつくした。本来医者がやるべきことをやらねばならない状況に、ルードヴィッヒはため息をつきたくなった。
そのうえで相手が吸血鬼かもしれないことで、慎重に慎重を重ねなければならなかった。
最後に軽く唇をめくりあげ、あまり人と変わらぬ犬歯を眺めた。吸血鬼は気安く牙を見せないと聞いたのはいったいどこだったろうか。用途によって変化する牙がそこにあるとも限らなかった。もう片方の手でぐいと舌先を引っ張りだしたが、そこは丸みを帯びていた。
すべてをもと通りにしたあと、立ち上がって辺りに目を配った。落ちた金の装飾部分は見つからなかった。辺りに散らばった三つの聖水の瓶と、そこから流れ出したと思われる大きなカーペットの染みが三つ見つかっただけだった。
聖堂側にステンドグラスがはまっているが、そこは開けられるようにはなっていない。普通の窓はあるが、左右に二つある窓は小さくて鍵も閉まっている。出入りするにも大人ではずいぶんと苦労せねばならないだろう。
ルードヴィッヒはため息をつき、やがて死体に背を向けた。
旧聖堂の外に出ると、シェリーとラインマーの姿はなかった。見回すと、少し離れたところで別の男と話し込んでいるのが見えた。
視線を下に向けると、石階段の右側の石が一つ、外れているのに気が付いた。石の大きさと外れた箇所の大きさは一致しておらず、何かを隠せるようになっていたようだ。しゃがみこんでそれを見ていると、後ろから草を踏む音が聞こえた。
「おおい、探偵」
ルードヴィッヒは立ち上がると声の主であるシェリーを見つめた。
「何かわかったか?」
「さあ、今のところはどうにも」
シェリーは首の後ろを擦った。
「そうかい。いずれあんたの考えも聞かせてもらいたいね。その時はあんたの推理を先に聞かせてもらうことになるだろうけど」
「僕の考えは必要ないかもしれませんけどね」
「ふうん? ま、そんなことより――、一つ知らせがあるんだ――その辺はフェアにやろうじゃないか。さっき、第一発見者の娘が目覚めたそうだ」
ルードヴィッヒは片眉をあげ、瞬きを一つした。
「お体の方は大丈夫なんですか?」
「さあ、そいつはどうかな」
シェリーは肩を竦めてから歩きだし、ルードヴィッヒの肩を叩いた。それから横を通りすぎると、旧聖堂の前に立った。
「あなたはこれから何を?」
尋ねたところで、ラインマーが体を揺らして戻ってきた。
「なあに、聖堂のまわりでちょいと聖句でもね」
そう答えたシェリーへラインマーが近寄っていく。
ルードヴィッヒの存在を無視するかのようなやりとりに、彼は何もいわずに踵を返すと、聖堂への道を見つめた。
最初に訪れたときに聖堂の前を横切ったおかげで、難なく向かえそうだった。
やがて森から出ると、すぐさま聖堂へと向かった。距離としてはそう遠いとも思えないが、森を抜けた分、明るさや町中に近いことで、まったく別の印象をいだく。
そのころから、ルードヴィッヒはひょこひょこと自分についてきている影に気が付いていた。相手は隠れるでもなく、尾行としてはずいぶんと素人だった。いっそ気付いてほしいのかと思うぐらいのものだ。
数歩行ったところで立ち止まる。相手もぴたりと立ち止まったようだが、即座に振り返ると、相手はびっくりしたようなわざとらしい驚き方をした。
相手は焦げ茶色の髪に丸眼鏡をかけたそばかすの青年で、ひょろりとした胴長の長身に、白いシャツと深緑のベストを着こみ、アイボリーの細めのカーゴパンツを見につけている。腰には茶色の革バッグをつけ、同じ色の革ブーツを履いていた。手には真鍮のカメラを持っている。左側にストロボと水晶動力のついた中型くらいのカメラで、型としては少し古かった。
見つけられるのを待っていたように、彼は満面の笑みを浮かべている。にこにこと近寄ってくるのを見るに、やはりついてきていたのは間違いなかった。
「こんにちは! 探偵さん――ですよね?」
「きみは?」
「僕はマルク・オベールです! 今日の号外の執筆者で――あ、これをどうぞ! ぜひとも受け取ってください」
彼は早口でまくしたてると、得意げに号外の紙を差し出した。テオバルトに見せてもらったものとまったく同じだったが、紙はぴんと張っていた。
「グリム探偵協会の探偵さんが来るなんて夢みたいだ! 噂だけは聞いていたんです、魔法事件専門の探偵さんたちが集うところだって!」
「……それはどうも」
「あなたも今までに人狼や吸血鬼なんかを相手にわたりあったりしたんですか?」
「それで、僕にいったい何の用です?」
ルードヴィッヒは号外を懐にしまいこみながら言った。
「おっと、これは失礼!」
彼は大仰にカメラを構えるふりをしてから、首に引っ掛ける。
そして腰の革バッグから伸びた掌サイズの有線マイクを引っ張って、ルードヴィッヒの前に差し出した。おそらく中にはテープレコーダーが内臓されているものだ。
「あなたを取材したいんですよ! ね、いいでしょう? 邪魔にはなりませんから!」
許可を求めてはいるものの、自分が拒否されることはまったく考えていないようだった。
「こんな小さな町で事件が起こるなんてね! 百年前の吸血鬼事件以来でしょうね――その頃の僕はまだ生まれてすらないんですけど! でもこんなの、どうしたって興奮するじゃないですか? 見出しももう決めてるんですよ、”吸血鬼事件、新たなる謎”なんてどうですか?」
「僕なんかより、優秀なヴァンパイアハンターの方がいらっしゃるようですから、そっちを取材したらどうです」
「それはもう! ちゃんと先ほど取材しましたし、次の取材の許可もとりましたよ!」
ルードヴィッヒは思わず視線を外してため息をついたが、マルクはその様子には気が付かなかったらしい。
無視してそのまま歩きだしても、それを無言の肯定と受け取ったらしく、マイクを片手にちょこちょことついてきた。
「それで、何かわかりましたか? やっぱりアドルフ・ヴェンデルス卿は吸血鬼だと思います? それとも、人間?」
「その質問には今は答えられないですね」
軽く手を上下に振ったが、マルクはその意図を解さなかった。足早にルードヴィッヒを追い越したあと、目の前に立つ。
「それってやっぱり、吸血鬼であることを完全に否定できないってことですよね」
今度こそ心の底からため息をついたが、マルクは恐ろしいほど無邪気に笑っていた。
ルードヴィッヒはやんわりと彼を手で横に退けると、たった一言だけコメントした。
「ノー・コメントです」
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