7.聖職者達は嘘をつかない
ヨハネスがそのとき目を輝かせたのは見間違いで、おそらく純粋に彼女を案じての慈悲の光であり、けしてこの話が中断したことに対するものではなかった――ルードヴィッヒは神父の名誉のために思っておくことにした。
扉の向こうに立っていたのは、修道服に身を包んだ女性だった。
ベールはしておらず、ブロンドの髪が垂れたままになっている。美しく整った顔立ちは、暗く沈んでしまったこの町の中で唯一の清らかな乙女のように感じられた。彼女が修道女ということもそれに拍車をかけている。黒と白だけのつまらない修道服に包まれてなお、その魅力は隠されはしなかった。服の上からでも華奢だとわかる彼女は、きっと多くの男たちが放っておくには惜しい存在だったに違いない。それでも、一度神に身を捧げると決めたからには、それを貫き通す芯の強い青い瞳をしていた。
ルードヴィッヒは立ち上がり、多くの男が初対面の女性にそうするように礼儀を示した。
「こんにちは。体のお加減はいかがですか?」
「おかげ様でだいぶ――あの、あなたは?」
「申し遅れました。僕はルードヴィッヒ・エインと申します。グリム探偵協会より派遣されて参りました」
「エリス・ガードナーです。あのう――これはいったい?」
彼女は二人へと近づいてくると、硝子細工のような瞳で探偵と神父を交互に見つめた。
「僕は調査のために参ったのです。あなたが発見したものの――調査のために」
エリスはしばらく何のことかというような顔をしていた。だが、次第に理解が追いついたらしい。両手で口元を覆ってひきつり、顔を蒼白に染めた。今にもめまいを起こして倒れてしまいそうな彼女に、慌ててヨハネスが近寄った。
「大丈夫か?」
ヨハネスに肩を支えられ、エリスはなんとかうなずいた。
「申し訳ありません。ですが、これは重要なことなのです、エリスさん」
ルードヴィッヒはエリスの瞳を見つめ、早口で続けた。
「死んだアドルフ氏は、吸血鬼であると考えられています――しかし、テオバルト氏はそれを認めてはいません。アドルフ氏は人間であると主張しておられます」
エリスはその言葉を咀嚼するように、じっと考え込んでいた。
「もし体調がよろしいようでしたら、お話をお聞かせ願いたいのです」
重苦しい沈黙が支配していた。
ヨハネスは眉間に皺をよせていたが、言葉を発することはなかった。
対するエリスはその言葉をかみ砕くように立ち竦んでいた。程よい緊張の糸がはりつめていて、桃色に濡れた唇からどんな言葉が告げられるものか、固唾を飲んで待つしかなかった。
「私は――」
やがて彼女の口から、凛とした言葉が発せられた。
片手が胸の十字架を掴むと、やがてもう片方の手も追随した。一度だけ瞬きをしたあと、途端に、硝子細工のようだった瞳に光が宿った。
「あのようなものが人間であるとは思えません」
そのときの言葉はもう、恐怖でも怯えでもなく、しっかりと地に足のついた言葉であり、心の底から確信していた。彼女の信仰は嘘をつけない。ゆえにまちがいなく、嘘偽りなく神に誓って。
先ほどまでの困惑はなりを潜め、心から信仰するものの後ろ盾と支えによって証言している。
若い青春の時代を神に捧げた心意気は本物なのだと読み取った。
「アドルフ氏は吸血鬼であると確信しておられるのですね」
「はい」
返事に迷いはない。
ルードヴィッヒは彼女が本気だということを完全に悟ると、ただ頷くだけにとどめた。
「では、この話はあなたにとってはつまらない事かもしれません。吸血鬼が人間であることを証明しようなどというのですから。ですが、それが僕の仕事でもあります――あなたが旧聖堂に赴いた時の様子をお尋ねしたいのです」
ステンドグラスから差し込む光は、聖女の潔白を証明するようだ。彼女の瞳は頑なで、長いまつ毛の森はどんな言葉の風にもぴくりとも揺らされなかった。
ルードヴィッヒはとっさに思いついた言葉を付けたした。
「あなたの証言によっては、僕の意見も覆るでしょう」
エリスは少しの間、目を伏せた。
聖堂の空気はいまや清浄だった。彼女の言葉一つによって何もかも変わってしまうようだった。彼女がようやくわずかに頷いたとき、ルードヴィッヒは安堵の息さえ吐きだしてしまいそうだった。
誰がそうするとも言わずに、三人はそれぞれ長椅子に腰かけた。
男たちは彼女がぽつりぽつりと話し始めるのを待った。
「私は――今朝、いつものように祈りを捧げるために旧聖堂へと向かいました。朝のミサが始まる前……、聖堂から旧聖堂に向かう間、道中に変わったことは特になかったと思います。旧聖堂に入ろうとすると、その――」
彼女は両手の中の十字架を強く握りしめた。
「正直にお答えいたします。普段は、階段の隠し場所に鍵が隠してあるのです。階段の右側にある石が外れるようになっていて、小さな空洞があるのです。そこに古い鍵を保管していたのですが、石が外れておりました。中を見ても鍵はありませんでした。私は驚いて、慌てて旧聖堂の入口に手をかけると、鍵が開いたままになっておりました」
それは初めて彼女の口から詳細な事実が語られた瞬間だった。
ともに聞いているヨハネスは黙ってはいたものの、何度も手を組み直し、軽く息を吐きだしたあと、キャソックに隠れた喉仏を上下させていた。
ちらりとその様子を見てから、それから、とルードヴィッヒは続ける。
「それで何事かと思って中へ入りました。中は妙なにおいがして、聖水はすべて床に転がって濡れていました。祭壇にお供えしてあったものすべてが転がっていました。嫌な予感がして、通路を慌てて突っ切ると――」
そこで言葉を切ると、彼女は一度深呼吸をしてから言った。
「そして――あの恐ろしい化け物の死体を見つけたのです」
「……なるほど。では、あなたはその死体を発見しただけなのですね?」
「私は――滅ぼしては――いません。私が入った時には、既に何者か、もしくは神によってそれがなされた後でした。私の他には誰もいませんでしたし、誰がやったのかまではわかりませんでした。それだけです」
彼女は淡々と答えた。
たかだか数分の間だというのに、ひどく清らかな存在と話しているような気分だった。清らかさと高貴さはイコールにならないにも関わらず、彼女もまた人間であると自分に認識させるのに暫しの時間を要した。
ルードヴィッヒは咳払いをし、なんでもないことのように振る舞った。
「それでは幾つか質問させていただきます。まずは階段の隠し場所とおっしゃいましたが、鍵は複数あるのですか?」
「それは……」
「そもそも隠し場所といっても、元々あった古い鍵でして」
答えたのはエリスではなくヨハネスだった。
ようやく事実を知った衝撃から立ち直ったらしい。
「旧聖堂が建てられた当時から使用していたもので、まあ、なんですか、普通の人が鍵をポストや植木鉢の下に隠すような、あんなようなものです。古いものですし、利用していたのはエリスや私が一人で向かう時などですね。近年では、合鍵を作ってこちらの聖堂で保管していました。旧聖堂の見学やらなにか特別な時に開ける際に、私かエリスのどちらかが同行して使用するためのものです。不用心に思われるかもしれませんが、なかなか昔の慣習を変えるのは躊躇いがありまして」
「それでは、古い鍵の隠し場所を知って居るのは貴方がた二人だけだったのですね」
ルードヴィッヒが確認すると、ヨハネスは急に言葉に詰まってうめいた。
「いえ、その……古い鍵の場所を知っているのは、私とエリス、それから――アドルフ氏です」
「アドルフ氏も鍵の場所を知っていたのですか?」
ルードヴィッヒは驚いた風に言ったが、すぐにそう言った自分を恥じた。よくよく考えてみれば、殺されたアドルフは旧聖堂を実質的に買い取ったのだとテオバルトが言っていたではないか。
だが、続くヨハネスの言葉にルードヴィッヒは今度こそ目を瞬かせた。
「え、ええ――はい――そうです」
ヨハネスは落ち着かなげにうなずき、エリスはちらりともその様子を見ることはなかったが、十字架を強く握っていた。ルードヴィッヒは気が付かなかったふりをして、続きを待った。
「まあ、少し事情がありまして――その――以前、お教えしたのです」
「その事情とは、旧聖堂を売りはらったことですか」
ヨハネスは肩を跳ねさせたが、それ以上の反応はなかった。代わりに小さな声で、はいとだけ答えがかえってきた。
しかしすぐに顔をあげると、言い訳でもするようにまくしたてた。
「今になって思えば、とんでもないことをしてしまったと思っているんです! 他ならぬ吸血鬼に旧聖堂を売り払う契約をしてしまうなんて! 鍵のことを教えたのも一週間ほど前のことですが、鍵の場所を知っていたからこそ、旧聖堂に入れたんでしょう。わたしはそう見ています。何をするつもりだったかなんてわかりませんし、知りたくもありませんが、吸血鬼には神の裁きが下ったのでしょう――」
ヨハネスは息継ぎをしてから続ける。
「少なくとも新しい鍵の方はちゃんと保管されていますし、荒らされた形跡はありませんでしたから。古い鍵はひょっとしたらまだ旧聖堂の中に転がっているかもしれません」
ヨハネスはそれだけ吐きだすと、小さく肩を上下させた。
ルードヴィッヒは、ヨハネスの言葉の端から泡のようにふきだす激情がどこからやってくるものかと考えた。
後悔なのか、それとも。
やがてヨハネスは呼吸を整えると、顔をあげた。眉尻が下がっている。
「申し訳ないですが、今日はこれぐらいで勘弁願えないでしょうか。わたしはこれから、契約を破棄できないかと……、なんとかテオバルトさんと交渉するつもりなので」
ルードヴィッヒは黙して続きを待ったが、それ以上さらけ出すつもりはないようだった。愚直に尋ねることもできたが、この様子では真実を言ってくれないだろうと予感した。
「叔父様、本気なのですか? あのテオバルトさんも――吸血鬼かもしれないのに?」
エリスはよほど驚いたのか、目の前にルードヴィッヒがいるにも関わらず声をあげた。ヨハネスは変わらず憂鬱そうな顔をしていたが、非難というよりも咎めるような目線で自分の姪を見つめた。
エリスははっとして片手を口元へやった。
「も、申し訳ありません。お客様の前ではしたない真似を」
「いえ、お気にせずに」
ルードヴィッヒはやんわりと告げると、立ち上がった。
「今日のところはこれでお暇させていただきます」
頭を下げると、二人は目に見えてほっとしたように表情をやわらげた。
「一つだけ確定していないことがあるのですが、アドルフ氏が吸血鬼なら、一体どうやって旧聖堂に入ったのでしょう?」
「それは、まあ、鍵を使って入ったのではないでしょうか」
「……霧や何がしかに化けたのなら、その限りではないと思ったんですよ」
「あ、ああ、そういうことですか」
この問いの意味を、ヨハネス神父は図りかねているようだった。困ったように僅かな息を吐く。ルードヴィッヒが無言のままじっと見返すと、彼はますます顔を顰めた。
「……またお邪魔いたします」
返事はなかった。ルードヴィッヒは一礼を残し、そのまま踵を返して歩きだした。
静かに聖堂の扉が開けられ、そして同じように閉められた。静かになった聖堂の中に、エリスとヨハネスだけが取り残された。
しばらくの間、聖堂は重苦しい沈黙に包まれていた。
二人の口をどちらともなく閉ざしたままだ。祈りに似た時間だけがゆったりと過ぎていく。
「……叔父様」
エリスがようやく声をかけると、叔父はいつものように優しく微笑み、エリスの肩に手を置いた。
「今日はまだ疲れているだろう。あとのことはわたしがなんとかするから、きみは今日はあそこの部屋でゆっくり休みなさい」
「ですが――」
「休息というのは必要だ、エリス」
叔父の声は優しかった。エリスは後ろ髪をひかれながら頭を下げ、部屋へと戻るしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます