6.神父はすべてを語れない

 聖堂からは、もう旧聖堂は見えなかった。

 木々に囲まれ、静かではあるが目立たないところに建つ旧聖堂と違って、聖堂は大通りに面していることと、庭のついたある程度広い土地にあることで、その威厳を保っていた。

 聖堂まで記者がついてこなかったのは幸いだった。

 ついてきたとしても、神父がそれを許さなかっただろう。聖堂は旧聖堂に比べて敷地面積も広く、町の中心であるかのようだった。都会にあるような巨大なものではないにしろ、教会としては充分なつくりだ。ほとんど礼拝堂だけの箱型をした旧聖堂とは違い、規模は小さくあれど十字形プランを充分に満たしている。壁は白い石作りで、入口のアーチ部分に掘られた細やかな動物模様を見ても、建物としても手入れの方も行き届いているようだ。庭先には小さな菜園が作られ、花と作物とが植えられていた。


「腕が良いんでしょうね」


 ルードヴィッヒがそこにいたキャソック姿の男へ言うと、彼はこちらを向いて頭を下げた。


「失礼ですが、ヨハネス・ガードナー神父ですか?」

「はい。そうですが、ええと――あなたは」

「僕はグリム探偵協会より派遣されました、ルードヴィッヒ・エインと申します。こたびの旧聖堂の事件で、解決を依頼されて参った者です」


 ヨハネス・ガードナーは唇をきゅっと結んだ。

 白い髪に胡麻塩色の顎髭のせいか、それとも丸い小さな目の下に刻まれた皺が一段と深くなったせいか、ただでさえ年齢を重ねた老人は急激により老け込んだように見えた。顔色を青白くして、がっしりとした体躯も今は背を丸めて見える。


「とにかく――中へどうぞ」


 彼は困惑と戸惑いの色を浮かべながらも、ルードヴィッヒを中へと案内してくれた。


 聖堂は旧聖堂とはあらゆる意味で違っていた。天井も高く、上の方には左右にステンドグラスが日の光を淡く通過させている。白い壁に茶色の柱が品よく映え、ドーム型になった祭壇の後ろには左右とは違う色のステンドグラスが三つ。その手前には年代物のオルガンがあり、白いレースの布をかけられていた。祭壇のテーブルには緑色の布がかけられていて、その左右にはろうそく台が設置されている。木製の長椅子の背中側にもテーブルが備え付けられて、聖書を置けるようになっている。小さいながらも品のいい教会だった。

 全体としても古くはあるものの、きちんと手入れがなされている。さすがに懺悔室のようなものはなかったが、小さい部屋のようなものは幾つかあるようで、奥まったところにドアが見えた。

 旧聖堂とは違った意味で趣がある。


「ほう。こちらはまた立派な聖堂ですね」


 ルードヴィッヒは心の底からそう言った。お世辞でも揶揄しているわけでもないということは伝わったのか、それとも職業柄の懐の深さなのか、ヨハネスは僅かに頷くだけだった。


「当時の信者さんたちのおかげです。それだけの信仰を集めることができたのですから――」


 ヨハネス神父はそう言ったが、張り詰めたような重苦しい空気があった。


「それが、百年ほど前の吸血鬼事件での出来事です」


 声は聖堂の中に空しく響いた。神への祈りの場所であるにも関わらず、そのたった一言で見捨てられたようにも感じられる。

 どうぞ、と促され、ルードヴィッヒは一番前の席に座った。


「改めて、わたしがヨハネス・ガードナーです。この聖堂の管理人であり神父をしております」

「ええ。よろしくお願いします」

「それで――用件というのは」

「アドルフ氏が亡くなった件についてですが」

「……アドルフさんのことについては残念でした」


 ヨハネスは少しだけ目を伏せ、目の前で十字を切った。


「わたしは――わたしは、正直どうしていいのかわからないでいるのです。いったい何がどうしてこんなことに……」

「第一発見者はシスターだという話ですが」


 ヨハネスはようやく顔をあげると、僅かにうなずいた。


「エリス――ああ、シスター・エリス――今はまだ休んでいます。ですから――」

「何も今すぐ話を聞かせろというわけではありません」


 ルードヴィッヒが断わりを入れると、ヨハネスは目に見えてほっとしたように息を吐いた。あまり感情が顔に出ないのは職業病のようにも感じられる。


「そういえば、あなたはエリスさんの叔父さんなんだとか――ご心配でしょう」

「ええ、その通りです。何年か前に体調を崩しましてね、誰かに管理を譲ろうかと思っていたんですが――ちょうどそのころに来てもらったのです。わたしどもの宗派は、あまり男女が同じ教会に勤めることはないので反対しましたが、どうしてもと押し切られてしまいまして。なんとか別の住居を用意して、そっちに住むことで了承しました。……まだ若いのに、強い子です」


 そう語るヨハネスはどことなく誇らし気に見えた。


「それなのに――あんなことになるなんて」


 彼は目を伏せ、胸に手を当てた。

 そこには、首から下げられた十字架が空しく光を反射していた。


「もしよろしければ、あなたのお話をお聞かせねがえませんか?」

「わたしの……?」

「ええ。少しずつ整理していけばいいでしょう。僕は事件の解決を依頼されて来たといいましたが、僕の捜査もまだ始まったばかりで、わからない事は多いです。一番の謎は、アドルフ氏が本当に吸血鬼なのかどうかですが」


 ルードヴィッヒはそう前置きした。


「ラインマーさんがおっしゃっていましたが、あなたは、その、吸血鬼を焼くような役目を負っているのですか?」

「ええ、まあ、そんなものです。百年前の吸血鬼事件の時から、神父の役目になっていることですから。斃された吸血鬼を聖別し、火にくべて完全に灰にして、二度と復活できないようにするのです。前任の神父から、この町で仕事をするのにとても重要なことだと教えられました。おかげで、吸血鬼については多少詳しくなったつもりでいます」

「ほう、たとえば? 吸血以外の特徴などでしょうか」

「ええ。わたしはそれまで、恥ずかしいことに吸血鬼といえば夜中に乙女の血を吸う化け物程度にしか思っていませんでした。そうでなければ、神に背を向けた呪われた死者だと。昼間は棺桶の中で眠ること、とてつもない怪力を持つこと、招かれなければ入れないことなど――でしょうか。すべてがわたしにとって驚くべきことでした」

「勉強家でいらっしゃる!」


 ルードヴィッヒが感心したような声を漏らすと、ヨハネスは首を振った。


「この町の神父として当然のことです。それで、何からお話すればよろしいでしょうか?」

「あなたはどうやって彼の死を知ったのか、そして姪御さんがその時どうしていたのか、お話していただけますか?」


 尋ねると、しばらく彼は逡巡するように祭壇を見つめた。だがやがて視線を戻すと、はっきりした調子でうなずいた。


「今朝、六時半のミサが終わるころでした。わたしは――エリスが旧聖堂から帰ってこないことを不審に思いました。エリスはここに来て以来、朝のミサが始まる前に銀のナイフに祈りを捧げるのが日課になっているのです。かつてはわたしの日課でしたが、それを引き継いだ形です。いつもなら朝のミサが始まる前に帰ってくるのに――ですが、その日に限ってはゆっくりしたいのだろうと思いまして」


 ルードヴィッヒは片眉を動かしたが、今は頷くだけにとどめた。


「しかしそれでも遅すぎました。あの子は真面目ですから。ミサが終わったら帰ってくるだろうと思ったのですが、七時になってもまだ帰ってきませんでした。さすがにいったいどうしたのかと旧聖堂に向かうと――鍵の隠し場所も、扉も開いたままで、中であの子が倒れていました。慌てて抱き起こすと、その先でアドルフ氏が死んでいるのを見つけました。見開いた目は、ひとめで死んでいると理解できました。あまりの恐ろしさに、いえ、もっと恐ろしかったのはその死体のありさまでした。銀のナイフに貫かれた死体は、そこだけ銀に焼かれたように――あるいは聖水に焼けたように、焼け焦げていたのですから! あたりにはお供えした聖水が散らばっていましたから。わたし――わたしは――ありえないことだと思いながら――吸血鬼が死んでいるのだと思いました――」


 ヨハネスの握った手は僅かに震えていた。


「銀のナイフは神々しく――十字架のように見えました」

「それで」

「思わず悲鳴をあげたわたしの声を聴いて――追いかけてきてくれた信者さんたちがやってきてくれました。それからはもう、あまり覚えていません。なんとかあの子を抱きあげたまま旧聖堂から飛びだしましたが、とにかく混乱してしまって。吸血鬼だとするならば、わたしのやることは多いですから。すぐに何をすべきか思いだすことはできませんでした。あっという間に話は広がりました。吸血鬼が死んだ。いやアドルフ氏だ。いや、アドルフ氏こそが吸血鬼だったのだ、と……」


 ヨハネスは力なく言った。膝の上で握られた拳はわずかに震えている。口から口へ伝わる、疑念と恐怖は簡単に思い浮かべることができた。

 ひとめで吸血鬼だとわかる死体――。

 神の威光を宿したナイフに貫かれた魔物の姿。

 旧聖堂に転がる死体は、ただ人が死んでいるというよりももっと別の恐怖を引き起こしたにちがいなかった。


「じっさいに何が起きたのかはわかりません。エリスが吸血鬼を斃したのか……それとも、死んでいるアドルフさんを発見したのか。そもそも、アドルフさんが吸血鬼だったことにわたしは非常に困惑していました。他の方々もどうしていいかわからない状態でした。そんなときでした。信者さんの――宿屋の女主人なのですが――昨夜、吸血鬼ハンターと名乗る男が泊まったと。何人かがすぐに彼を呼びに行きました」

「シェリーさんのことですね」

「彼を叩き起こして、すぐに来てもらいました。それから、確か……八時半ごろには、もうヴェンデルス邸の方にも報告に行ったはずです。そこから、わたしは――ずっとエリスが目を覚まさないか診ていました。先ほど一度目を覚ましたのですが、薬を飲ませて、今は体を休めています。そのあいだに随分と色々あったようですが――」

「色々というのは? 警察を呼んだり、僕が呼ばれたり、ということですかね」

「はい。警察といっても、ハンターの方がいらっしゃいますから……そちらに任せていると聞き及んでおります」


 なるほど、とルードヴィッヒは一人ごちた。


「それが午前中のできごとですが――たった半日の間にあった出来事だとは、今でも考えられません。もっとずっと、多くの時間が経ったように思います。町の人間のなかには、エリスが吸血鬼を斃したのではないか、という見方もありますが――ただ、彼女が向かったのは夜明けとはいえ朝でしたから――わたしはその意見を信じられませんけどね」


 ヨハネスは遠い目をして、ため息をついた。


「それにしても、アドルフさんという方は随分と有名な方だったようですね。僕は権力者の一人としか聞き及んでいませんが」

「ええ。何十年か前に、このあたりの鉱山で金が出ましてね。その採掘でなり上がったと聞いています。この町の基礎を固めていったのも彼だと聞いています。それも含めて、あまり良く思わない方もいるようですが……。しかし、それほど力のある方だったんです。あの方が、かつての吸血鬼城を買い取ったときも色々といわれましたが、それもすぐに忘れ去られてしまったぐらいに。彼が死んだというだけで、あまりに衝撃的でした。それが――」


 彼は持ち前の、あるいは神父としての寛容さで、この試練をなんとか乗り越えようとしているようだった。それでも落ち着いて見えるのは、自分が冷静にならなければならないと強く意識しているようだ。

 今この瞬間でさえ、怒涛の波のような一日のほんの一瞬に過ぎないのだろうと思われた。

 ふとルードヴィッヒは気になることがあり、なんとなしにヨハネスへと質問を投げかけた。


「それと、テオバルト氏から聞いたのですが、あなたも、エリスさんも――昨夜の、アドルフ氏の夕食会に参加されたのですよね」

「……はい。ですから、余計に信じられない気持ちでいっぱいでした」

「その夕食会とはどんなものだったのですか?」


 ルードヴィッヒが尋ねるやいなや、ヨハネスは急に口を噤み、ぐっと拳を握りしめた。


「僕はてっきり、あなたやアドルフさんが、個人的に仲が良いのかと思っておりましたが」

「え、ええ――そのう、まあ、お互いによく知っているというわけではありません。ですが、昨夜はどうしても参加してほしいといわれたのです」


 彼は歯切れの悪い調子で言った。

 目が泳ぎ、視線を外してこちらを見ようともしない。その視線はあちこちを彷徨い、体は動かなかったものの、何とか取り繕おうとしているのははっきりと見てとれた。彼の寛容さをもってしても処理しきれない事態というのは確かに存在するようだった。

 これまでずっとアドルフ氏の話はしてきたというのに、急にどうしたのかと思った。

 今までも困惑したり現実を受け止めきれていないふしはあったものの、それは殺人そのもの、またはアドルフ氏が吸血鬼――あるいは吸血鬼かもしれないことに対する困惑だった。

 ただ夕食会に参加したというだけのことの、いったいなにが彼を揺さぶったのか。

 そのときだった。

 突然、奥の扉が軋んだかと思うと、年季の入った音をたてて開ききった。


「エリス」


 ヨハネスは立ち上がって、扉を開けた者の名を呼んだ。

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