8.探偵はおしゃべりに付き合わされる
ルードヴィッヒは旧聖堂に向かいながら、今までのことを整理していた。
アドルフ・ヴェンデルスは昨夜、もっというなら昨夜十一時から朝六時半の間に死亡している。街の連中の言葉を借りて、滅ぼされている、でもいいだろう。最後に屋敷の中で目撃されたのが十一時頃だというから、移動時間を考えると少し後ぐらいと考えても間違いないだろう。
せめて死亡推定時刻がわかればもっと色々なものが縮められるだろうに、今のところそれに関しては後回しにせざるをえなかった。いずれ医者だというギヨーム老を説き伏せねばならないだろう。少なくとも自分でやれることには限界があり、その一手が必要だった。
更にいえば、ヨハネス神父のことも気にかかった。
テオバルトが言った通り、旧聖堂はアドルフによって買い取られていた。それならば鍵の場所を知っていてもおかしくはない。ついで、自由に出入りできたはずだ。
ところが、肝心のヨハネスは、最初そのことを言おうとしなかった。あまり意味がないことと思っていたのかもしれないが、アドルフが鍵の場所を知ったのが一週間前と考えると、旧聖堂が買い取られたというのもつい最近のことではないかと思った。今になっても聖職者の二人が管理をしていることから考えると、実際に土地や建物がアドルフの手に渡ったのがいつなのか、あるいは渡るのがいつなのか、明確にしておく必要があった。それを明らかにしておくことは、あとあと重要になってくるだろう。
なにしろそれは、旧聖堂でアドルフ氏が死んだ時、その正体に関わらず――すなわち人間だったにしろ吸血鬼だったにしろ、どちらの場合であれ、アドルフ氏以外に何者かが存在していたことの証明になるからだ。
旧聖堂の前を通りがかると、旧聖堂を囲むようにして奇妙な円が描かれているのに気が付いた。ラインマーが晴れやかな顔でそれを感心したように眺めている。
「何をしているんです?」
尋ねると、ラインマーはつい先ほどまでの不機嫌さとは打って変わって、にやりと笑いながら振り返った。
「シェリーさんがこの辺り一帯を聖別してくれたんだよ」
声は得意げだった。
「こうしておくと仲間の吸血鬼が死体を見つけないんだそうだ」
「仲間の吸血鬼が?」
「ああ」
ラインマーはやや侮蔑するような目をしていた。おそらく自分が辺りを見るだけ見て何もしていないように見えるのだろう。ルードヴィッヒがその視線を無視すると、どことなくつまらなそうな目で視線を外した。
ルードヴィッヒがもう一度旧聖堂の中を覗くと、現場はほとんどそのままだった。
あれから検死のために医者が立ち入った様子もなかった。いったいいつまでこのままにしておくのかと呆れるばかりだ。
いったいここへどうやって怯える哀れな老人を引き出すべきか。
せめて表面的なことでも改めて探っておこうと、ルードヴィッヒはもう一度中へと滑りこんだ。転がった瓶もそのままで、ばらまかれた聖水の跡もそのままだった。ルードヴィッヒは乾いて白くなったそこを見つめると、今度は死体をもう一度よく見た。どうやら死体の方には何も手を出していないらしい。手の入れられる範囲でポケットや内側まで探ったものの、鍵は見つからなかった。
立ち上がり、懐から手帳とペンを取り出すと、軽く書き物をする。
調査を頼みたい。
たった一言だが意味は伝わるだろうという自信はあった。書きとめたページを破りとり、外へ出てついと森の方へ目をやると、待っていたとばかりに森の中でじっと構える梟と目があう。太い幹に擬態して隠れる小さな相棒は、音もなくルードヴィッヒの近くへと寄ってきた。
「こいつを頼んだ」
できるだけ優しい声で、小さな箱と紙をまとめたものを梟の足先に結んだ。あとはこの優秀なメッセンジャーが届けてくれるのを待つばかりだ。
見送りの視線は向けずに目を地上へ向けると、シェリーが満足げに旧聖堂を見つめているのに気が付いた。こちらの視線に気が付いたのか、軽く手をあげてこっちへやってくる。
「うっかり消すんじゃあないぞ」
ルードヴィッヒは足元を見やった。足のすぐ先に旧聖堂を囲む円形があった。二歩ほど後ろへ下がる。
「これにはどのような意味が?」
尋ねると、シェリーは意味ありげににやりと笑った。
「驚いたかい? 流派によって色々とあるんだ。残念ながらそいつを教えてやるわけにはいかないがね」
それから視線を旧聖堂の中へと向けた。ぎらぎらと光る目は、ルードヴィッヒの真意を探ろうとしているようだった。
「あんたはここで何をしてたんだ? 死体を見る趣味があるわけではないだろうに」
「旧聖堂の鍵が無いらしいんですよ」
「そいつは、無いと困るのか?」
「いえ、合鍵はあるようです」
ルードヴィッヒはそう伝えると、相手はもう興味を無くしたように、ふうん、とだけ呟いた。目に浮かんだ光も消えていた。代わりに、急になれなれしく肩を掴んできた。
「そうだ。良かったら、ちょっと付き合ってもらいたいところがあるんだが」
「……なんでしょう?」
ルードヴィッヒはそうして連れてこられたことを少なからず後悔した。
「それでねえ、まだ吸血鬼がいるんじゃないかなんて揶揄はされてたけど、まさかアドルフさんが本当に吸血鬼だったなんて思わないじゃないか。この辺は魔物の類もあんまり見かけないし、吸血鬼の話だって百年も前の話だからアタシは笑い飛ばしてたんだけどねえ。アンタだって百年前に何が起こったかなんてぴんとこないだろう? だけど、だからこそ吸血鬼の話が今になっても影響を持ってるんだろうねえ」
相槌を打つ暇もなかった。
目の前には恰幅のいい宿屋の女将が話題をあちこちに飛び火させながらまくしたてていた。ちりちりの髪の毛を頭の上で一つにまとめても、ふくよかな頬はそのままだ。胸元には銀の十字架が見えている。使い込まれてはいるが清潔そうな白いエプロンをしているところからして、彼女がここの調理担当だと思われた。だが、片手に持っていたはずのトレイはいつの間にかテーブルの上で鎮座し、その上に乗せられた紅茶をそのままにして暇を言い渡されている。
ここはノースウェアで唯一の宿屋らしかった。二階から上が客室で、一階は受付と小さな談話コーナーがある他は、食堂になっていた。食堂だけは宿泊客でなくとも利用できるようだったが、今はルードヴィッヒとシェリーの二人しかいない。だからなのか、女将は、ルードヴィッヒが探偵であると知るや否やあれこれと質問をまくしたてたあと、次第に自分の話へとうつっていった。どこそこの誰それが出戻ったとか、子供がどうしたとか、ちょっとでも変わったことがあると取りざたされる井戸端の会議めいて、いつ息をしているのかわからないままに話はあちこちに飛び、ルードヴィッヒはそれに付き合わされていたのだ。
ここに至るまでにも、指先でテーブルを叩いたり大げさにため息をついてみたりはしたのだが、向こうはまったく意に介さなかった。
吸血鬼狩りはこのおしゃべりな奥方の相手をさせるためだけに自分を呼んだに違いない。ルードヴィッヒはそう確信していた。そのシェリーにちらりと視線を向けると、彼は知らん顔をして、カウンターで寡黙な宿の主人を相手に遅い昼食を楽しんでいた。
「あたしがまだほっそりした女の子だった頃は物語の中のお姫様に憧れたりもしたけれどね、この近辺じゃあ攫ってくれそうな恐ろしいドラゴンどころか、ゴブリン一匹いなかったんだよ。あるのは幽閉塔じゃなくて食糧庫くらいで、おまけにそこに住みつくのは食糧を食い荒らす恐ろしいドブネズミさ。勇敢な騎士様よりも昼寝好きの猫を放し飼いにしておく方がまだ役に立ってくれてるんだよ。あたしが親指ぐらいに小さかったら、ネズミだろうがミミズだろうが恐ろしかったんだろうけど、あたしは小さくなるどころか反対にどんどんでっかくなっちまった」
女将がそこで大きく笑い飛ばしたので、ようやくルードヴィッヒは隙を見つけた。
「それなら、この辺で大きな事件なんかはそうそう起こらなさそうですね」
「事件だなんて! 起こる事件といえば、惚れた腫れたの繰り返しぐらいさ。若いやつらなんてみんな出て行っちまったから、そういうのも今からずっと前の話だよ。でも、そうそう、そういえば聞いたかい、一週間くらい前に、東のクルズベリーの村に盗賊が押し入ったって! 事件といえばそれぐらいだね」
ルードヴィッヒは再び隙を見つけたと思ったが、女将の口の方が早かった。
「クルズベリーっていうのは鉱山の麓にある村でね、舗装された道すら無いとこなんだけど」
微かなため息は女将の声に覆い隠され、とんと気付かれなかった。
「しかもそれが、あたしが思うような、真夜中に押し入ったり、空き家に忍び込んだりっていう泥棒みたいな感じじゃないらしくてね。なんでも、なんとかいう魔物が集団で近くに棲みついてるとか言って、村人を騙したらしいんだよ! たぶん、今は使ってない鉱山の入口があるから、多分そこにいるとかなんとかいわれたんじゃないかい。あの村も鉱脈が発見されてからちょッと賑わったんだけど、今じゃあ何の変哲もない小さな村になってるんだよ。あの村の村長さんもさぁ、何度か顔をあわせた事があるんだけど、これがまた人がいいもんだから。早くに先代のお父さんが亡くなって、まだ四十の半ば頃に村長になってからずっとやってる人でね、うちの旦那と違ってひょろひょろしてて、表情もやんわりしていて気の優しい人でねぇ。だから気が付いた時にはあっという間にお金だけとられてトンズラされちゃってたみたいでさあ」
「ええ、それでですね」
「でも、殺されなかっただけいいよ、絶対に」
二度目の失敗は意外に早かった。
「きっと犯人は頭のいい奴だったんだろうね。一週間も経ってれば犯人はもう都会の方に逃げちゃってるだろうし、悔しいと思うよ。あたしだってそんなの騙されるかいと思ったんだけれど、やっぱり魔物は怖いからねえ。きっと不安を煽られてコロッと騙されちゃったんだと思うと、気の毒でしょうがないよ。騙されるのもわからないでもないよ」
「この辺りはそれほど普段は静かなところなんですね。だからこそ百年も前の吸血鬼の話題が今なお影響力を持っている。違いますか?」
ルードヴィッヒはようやく早口でまくしたてた。
女将は一瞬豆鉄砲でもくらったみたいにぽかんとしたが、すぐにおしゃべりな口元が活気を取り戻す。
「そうだねえ、最近は大きな盗賊団の話もとんと聞かないし、いつもだったら静かなんだよここは」
「しかし、金が見つかったんでしょう?」
ルードヴィッヒはなんとか有益な話を引きだそうと、針の先で窓の隅を掃除するような気分で、小さな隙をついては声を挟んだ。
「ああ! そうだよ」
「吸血鬼が住んでいたところでよく見つかりましたね」
「それがね、吸血鬼が退治されたとはいえ、あの山はそれからずっと禁忌の場所になっていたみたいなんだ。調査の手が入ったのも数十年くらい経った頃さ。数十年経ってようやくだよ!」
女将は大げさに手を振ってみせる。
「何年かかけて辺りの調査も行われて、そこに同行してたのがまだ若かったアドルフさんだったらしいよ」
ルードヴィッヒは隙を見つけたが、今度は話を妨害しなかった。
「それで金の存在が発覚したんだ。それでうまくやったんだ。そのことでアドルフさんのことを悪く思ってる人間もいたけど、色々と整備をしてくれたのもあの人みたいだし、表立っては言われなかったようなんだけどねえ。みんな、吸血鬼の事件を忘れるように金の採掘に躍起になったんだ。一時期はひどくにぎわって、細工士なんかもいっぱいいたもんさ。宿もここ以外にもたくさんあったしね」
「ですが、失礼ながら今は……」
「ああ、金の採掘量が減っちまったんだ。それほど大きな鉱脈ではなかったんだろうね。結局、ほとんどの人間はうまくいかなかったのさ。おかげで吸血鬼への恐怖もそれほど払拭されなかった。今はもうアドルフさんがいくらか掘り返してるくらいらしいけど、その当のアドルフさんがまさか吸血鬼だったなんてねえ」
女将はため息をつくように吐きだした。
「人は見かけによらないものだよ。あの邸宅を買ったのもいまだに残る吸血鬼への怖さを打ち消すためかと思ったんだけど、そうだ、もしかすると、仲間の邸宅を取り戻したのかもしれないねえ! あんただってそう思うだろ?」
ルードヴィッヒは、そうかもしれないですね、と答えておいた。裏を返せば肯定したわけではない返答でも満足したらしく、女将は大きく肯いた。それからおしゃべりで思いこみの激しい人間に特有の想像力の豊かさをもって、思いついたことをしゃべりはじめた。
それから更にしばらくして、ようやく紅茶を受け取ることを許されたとき、紅茶はすっかり冷めきってしまっていた。口をつけて顔を顰めたあと、カウンターへと目をやった。シェリーは自分の担当した事件で自分がいかなる役割を演じ、敵を滅ぼしたかを得意げに語っているところだった。カウンターの奥にいる主人も真剣な目でそれに聞き入り、二人ともまるでルードヴィッヒのことなどいないかのように振る舞っていた。
クライマックスにさしかかった辺りで、ルードヴィッヒは冷えた紅茶を飲み干した。
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