10.主亡き部屋は喪に服する
ルードヴィッヒはローマンに連れられ、食堂を出た。
ローマンによると、アドルフの部屋は東棟の一室にあるという。
館は玄関を中心に東西に伸びているが、一階部分は大きく分けられておらず、食堂やキッチンの他に、書斎や狩猟室といった特殊な部屋で埋められていた。玄関に面した大階段から二階に行くことができるが、三階に行くには一旦それぞれの棟に行かねばならないらしい。
東西どちらの棟もほぼ同じような大きさではあるが、使用人たちは小さな部屋の多い西棟に住んでいるらしい。廊下の装飾も東棟に比べるとやや劣り、元々二階の西棟は、――特に従僕だけでなく、執事や副官など主人に近い立場――のために作られたのではないか、というのがローマンの見解だった。一階の西側にもベッドが詰め込まれた部屋が二部屋ほどあったようだが、今はベッドを取り出し、ひとつは使用人たちが自由に出入りする休憩室のようなものになっているらしい。もう一つは倉庫になっていて、雑多に物が詰め込んであるようだ。だが、其方の方にあまり足を踏み入れる者はいないらしい。
地下への入口があるからだと彼はほのめかしたが、そのことについて従僕は詳しいことを言わなかった。
ルードヴィッヒはそれ以上はここで聞かず、胸の内にしまいこんだ。二人は玄関からまっすぐ見えている大階段を目指し、歩きだした。
「ここは最初、この辺り一帯を治めた領主が作ったようなんですよ。ご存知ですか?」
足音のほとんどは敷き詰められたカーペットに吸い込まれてしまっているというのに、彼の声は囁くようで心地が良い。
「確か、避暑地として作られたと聞きましたが」
ルードヴィッヒが先を促すように言うと、ローマンは大階段へ足をかけながらうなずいた。
「ええ、村も本来は領主がいない時の整備のために雇われた者たちばかりだったそうです。屋敷の中にも身の周りの世話をする者たちはいたでしょうが、それらは領主が連れてきた者たちでしょうからね。領主が変わってからはあまり利用されなくなったようですが、そのときにはもうこのへんの村人たちは定住していたそうですよ」
「そのあたりから無人になったのですか」
「管理はされていたようですが。そこからが、この屋敷に纏わる吸血鬼の話です」
階段をのぼった突き当りでローマンはルードヴィッヒを待った。
「こちらです。東側へまっすぐと行くと、ご主人様たちのお部屋がございます。途中で左に曲がりますと、渡り廊下の先に、客室がございます。他のみなさまは、今はそちらにおられるはずです」
東側の通路へと促され、二人は再び歩きだす。
「先ほどの吸血鬼の話ですが、是非ともお尋ねしたいものですね」
ルードヴィッヒは歩きだした背中に言った。
その背は玄関を見下ろせる右側の通路を尻目に、東棟の中へと吸いこまれていく。吹き抜けの中央部分を経験したあとだと狭く感じるかと思ったが、そんな感覚もすぐに消えてしまった。古い作りとはいえきちんと整備はされていた。
歩いた通路は左側は窓が連なり、外が見えるようになっている。外には小さな庭があり、そのすぐ向こうに客室棟らしき建物があった。あたりは森に囲まれていて、自然豊かといえば聞こえはいいが、今はどこか不気味ですらある。
ルードヴィッヒは前を行く従僕に気付かれないように軽く口の端をあげた。
避暑地としての役目を終えたあと、なにがしかのきっかけで居着いた吸血鬼もこの城の整備はしていたのだと思うと、なかなかにほほえましいものがあると思ったのだ。
「わかりました」
ローマンがあげた声に、ルードヴィッヒは思わず口元をおさえた。
「今お話するには少々骨が折れるお話でして、よろしければ後ほどお話させていただきましょう。アドルフ様との直接的な関係は一切ないと信じておりますので」
示された右側には、時を経てなお重厚な扉があった。ルードヴィッヒがもう一度扉からローマンに目をやって頷くと、老人もまた小さく目を伏せた。
「アドルフ様は、このお部屋を使っておりました。こちらは私室になります。この左側にあるのが三階への階段で、その左がアドルフ様専用の……そうですね、アドルフ様は書斎と呼んでいらっしゃいましたが」
「違うのですか?」
「アドルフ様が鉱山で働いていらっしゃった頃のツルハシや服、その他雑多な品が保管されています。以前より、この辺り一帯の鉱山博物館を作るのだとおっしゃられていまして」
「……それを聞くと、書斎ではないように思いますね」
「三階は同程度のお部屋が二つあり、一つがテオバルト様の私室です。もう一つ部屋がありましたが、そこは奥様の部屋でした」
ルードヴィッヒが尋ねる前に、ローマンは何かを察したらしい。
「奥様は一、二年ほど前に、奥様付きのメイドたちを連れて出て行ってしまわれました。もともとあまり仲の良い方々ではありませんでしたので」
「へえ、なぜです?」
「政略結婚でしたから。このあたりの地主の娘だったらしいのですが、家が傾き、ちょうどそのころ財をなしたアドルフ様と結婚することで持ち直したといわれています。奥様は美しい方でしたが、あまりアドルフ様のことを好いてはいらっしゃいませんでした。特に奥様はこの屋敷のことも良く思われていませんで、この屋敷を買い取ってからはよくもった方でしょう」
ローマンはそこで言葉を切って目を伏せた。
「現在は離婚調停中でして、まだ今回の事はお知らせできていません」
「そうですか……」
ルードヴィッヒが何も言わないでいると、ローマンは他人ごとのように金色のノブを手に取った。
「さあ、おしゃべりがすぎましたな」
扉は慇懃に開かれた。
奥方が去り、主人も不在となった屋敷で、従僕だけは元からあった忠誠を持ち続けていた。
中へ入ると、ルードヴィッヒは目を細めた。
床には赤と茶の入り混じるペルシャじゅうたんが彩り、その上には優美な曲線を描いたテーブルの板が猫足によって支えられている。ロココ風の椅子はすべて揃いのものであり、すべてにクッションが設置されている。壁際に置かれたコレクションケースやチェストも、年月を帯びた木材が品の良い光沢を放っていた。みな一そろいで輸入してきたようだ。同じくロココ調のベッドはシーツがぴんと張られ、いつでも飛びこんで眠れるように整えられている。
「あの花は?」
ルードヴィッヒは隅に置かれた花瓶を示した。花瓶には赤く咲いた薔薇が何十本とあり、花の方もまだみずみずしさを失っていない。
「庭に咲いているものです。時折、剪定したものをこうしてご主人様がたのお部屋に飾ることがありましたから。これも、昨日変えたばかりでしたが……」
従僕は肩を落とした。
かける言葉が見つからず、ルードヴィッヒは視線を逸らした。
一見すれば生活感のない部屋だが、コレクションケースの中にはきちんと物がおさめられている。統一感の方はあまりなかった。全六巻ほどの外国の革装丁の本や、豪奢な額縁に入れられた、鉱山所有者の権利書――これは掲示専用のものだった――、ひっくり返されて置かれたグラスが二本と、ウィスキーが数本。その中に紛れて、鉱山の入口で撮ったと思しき古い写真が飾られていた。写真の中のアドルフは若く活気に溢れ、着ている物は擦り切れてみすぼらしいが、それ以上に渦舞いた野心が見てとれた。つい昨日まで確かに主がいた証拠をそこかしこに残している。
奥にあるデスクの前まで行くと、右側に三つある一番上の抽斗が、数ミリほど机からはみ出していた。しっかりと閉めることをしなかったのだろう。
抽斗をひとつずつ開けてみると、一番下の一番大きなものには書類が縦置きにびっしりと几帳面なほどに分類されて詰まっていた。続く真ん中には、小型蒸気銃と燃料のスペア、それから弾丸の箱――ここでルードヴィッヒは眉を顰めた――、そして一番上の抽斗の取っ手に指をひっかけてから、少しだけ瞬きをした。
音を立てて中身を引きだすと、そこはペンとインク瓶、判子といった文房具類といっしょに、黒い革の手帖がおさめられていた。取り出して表紙につけられた紐を解くと、中は三年ほど使えるスケジュール帖になっていて、びっしりと予定が書かれていた。
そこには友人たちや取引相手の名のなかに、今日この日、この屋敷に監禁されている客人たちの名もあった。一番多いのは専任細工士であるフランクの名前だったが、ここ数カ月の間にヨハネス神父との面会日が増えていた。
ほかにも衣服には並々ならぬこだわりがあったとみえ、彼の衣服はみなノースウェアにあるベルン呉服店という店が特注で作っていたらしい。名前を覚えるほどに何度も名前があがっているのは他にない。その他にも、よその商人や元貴族たちとの商談やパーティの予定がずらりと並んでいる。
ルードヴィッヒは片眉を上げると、ぱらぱらと手帳をめくった。
今月の予定に辿り着くと、昨夜の夜六時から夕食会が開かれることになっていた。横に目を滑らせると、今日の午後三時にヨハネス神父との面会が入っている。その先に短く「旧聖堂購入成立」と書かれていた。ルードヴィッヒは目を瞬かせた。つまり、本来なら他でもない今日の午後三時に、旧聖堂は教会のものからアドルフ個人の土地になるはずだったのだ。
ルードヴィッヒは更に手帳をめくった。
今月以降の予定も主要なものだけ書きこまれているが、どれも華やかな言葉に満ちていた。だが、それ以上の細かな予定が書きこまれることはもうないだろう。
欄外にも幾つか書きこみがあり、衣服の新調、博物館の内部展示の内容、新人画家の名前、鉱山労働者の給料、”W”を使うこと、ルートの確保、金の輸出量について――ある程度安定した輸出量は確保していたようだ――というように、雑多な記録が残されていた。
それに混じってひとつだけ、融資について、と書かれた項目があった。考えあぐねるように銀行を含めた数人の候補が名を連ねていたが、その中には客人でもある元貴族デニス・ブラウムの名もあった。
ルードヴィッヒは考えあぐねた。
それから静かに手帳をしまいこむと、元の通りにした。振り返り、じっと耐えるように立っているローマンへと視線を戻す。
「ここに入った方は?」
「さあ……、アドルフ様は昨夜は早く人払いをされましたので。それから呼ばれませんで」
テオバルトの言っていることとほとんど同じだった。
ルードヴィッヒはもう一度部屋の中をぐるりと見回したが、デスクの上に黒い電話があること以外、使用人を呼びだせそうな設備はなかった。
使用人たちと住む場所が明確に区別されているような大きな屋敷には、たいてい呼び鈴などがあることも珍しくない。ちょっと前には主流だった伝導管すらないのはある意味見事だ。呼び鈴も伝導管もたいてい、部屋の入口付近の壁に設置されているが、そこには何もなかった。呼び鈴はそのまま相手の部屋――この場合は主な使用人である執事の部屋――に単純な音が響くというもので、現状よく使われている。この発明のおかげでわざわざ隣通しの執事と主人の壁に専用の穴をあけ、ヒモを通さなくても良くなった。
伝導管は更に用件まで伝えられるもので、専用の硝子ボックスの中にこれまた専用の筒に手紙を入れたものを入れておくと、蒸気の力で屋敷に這わせたパイプ管の中を通って相手の部屋に届くというものだ。もっとも、そんなことに使われたのは金持ちが物珍しさに任せて作らせた最初だけで、今ではアパート内での家賃徴収や大家が受け取った手紙の仕分け、それから事務所や資料室なんかで使われる程度に一般的で実用的だ。
「普段、あなたがたが夜中に自室から呼びだされる時はどうやって? ……あれですか?」
ルードヴィッヒが黒い電話を示すと、ローマンはうなずいた。
「この城は古いですから、お察しの通りです。アドルフ様はあの電話を使っておりました。私の部屋と、玄関の近くと、それから客室棟に談話室がありますので、そこにも同じものがございます。この城を購入してから設置したもので、内線用の線がありまして。……むろん昨夜は呼びだされてはいません」
窓の外は小さなバルコニーに通じていたが、鍵はかけられていた。
豪奢な家具たちは今や帰ることのない主をここで待ち続けているのだ。
「つまり、誰かが歩いてこの部屋から出て行っても、霧になって出て行っても、わからなかったというわけだ」
「は。霧、ですか?」
ローマンは頓狂な声をあげた。
「ええ、霧です。吸血鬼は霧にも変化するのですよ。ご存知ないですか?」
「はあ、初めてお聞きいたしました。てっきり、吸血鬼といえば必ず蝙蝠に変化するものと思っておりました」
執事は戸惑ったように言った。ルードヴィッヒはその顔をじっと見てから、急に笑った。
「吸血鬼といえば、確かに蝙蝠ですな」
ルードヴィッヒはくつりと喉を鳴らし、ますます執事を狼狽させた。
謝る間もなく、急に乱暴に扉が開かれた。どんな理由にしろ、二人の目は扉に注がれることになり、話は打ち切られた。
「まったく、俺の仕事を増やすなよ!」
そこには肩を怒らせたシェリーが、文句を言いながら部屋にずかずかと入りこんでくるところだった。
「おや、シェリーさん。どうしました?」
「どうしました、じゃあない。あんたのおかげでこっちはてんてこまいだ。テオバルトの監視に、今度はあんたが俺の依頼人や他の客たちを丸め込まないかの心配をしなきゃいけないだなんて!」
「それは申し訳ない。しかし、こちらも依頼を受けた身でして」
ルードヴィッヒは悪びれもせずに言った。
「それに監視といいましても、先ほどまで一緒に出掛けた仲ではありませんか」
「そりゃ昼間はな!」
シェリーは肩を竦めた。
「太陽の下に晒すのも考えたが、あえて中にいてもらったのさ。昼間に活動できてるってことは、太陽の光で滅せられないかもしれない。それにだ、可能性を口にするあんたのことだ。吸血鬼に協力する人間がいないとも限らない……そう思うだろ? ん?」
値踏みするようにルードヴィッヒを見上げるシェリー。
隣にいるローマンは大きく息を吸いこみ、自分を落ち着かせているようだった。
ルードヴィッヒは何も答えず、ただシェリーを見返した。やがてシェリーはにんまりと笑うと、横に立ってルードヴィッヒの肩を大きく叩いた。
痛みに思わず睨んだが、シェリーはその視線に気付かなかったらしい。
「だがまあ、そう心配するなよ。俺だって吸血鬼は滅したいのさ。あんただってそうなんだろう? ちゃんとそうであると信じてるよ。とはいえ」
真面目な顔で言う。
「俺の指示には従ってもらうぞ」
「ええ、心得てますよ」
今度は軽くルードヴィッヒの肩を叩くと、ようやくシェリーは離れた。彼が背を向けて歩いているうちに、ルードヴィッヒは今しがた叩かれた肩を手で払っておいた。ローマンがちらりと見てきたそぶりがあったが、何も言われなかったのでルードヴィッヒも黙っていた。
両腕を振りながらくるりとシェリーが振り向いた時には、二人は元の姿勢に戻っていた。
「どうかしたか?」
「いいえ、なにも」
しれっと答える。
「そうかい。じゃあ、あんたが何を企んでるのか教えてもらおうか」
ルードヴィッヒは微笑して、改めて姿勢を正した。
「まずはこの部屋の調査、それから客人がた一人ひとりに話を伺うことです。もちろん使用人の方々にも同様に。あなたもご一緒するんでしょう?」
「それはそうだが、どうやらうまくやる自信があるようだな」
ルードヴィッヒは大げさに両手を振った。
「そんな! あなたほどではありませんよ」
「ふん。遊んでる暇があるんだったら、とっとと始めたらどうだ」
シェリーは面白くなさそうに吐き捨てた。
「では、どこの部屋で事情聴取すればいいのかの指示をお願いしたいですね」
「そうだな、どこか空いている部屋はあるか?」
そして、貝のように突っ立っているに目をやると、彼はしばらく目を逸らして考えた末に、とざしていた口を開いた。
「客室棟の談話室はいかがでしょう? 少し広いですが、テーブルやソファもございます。そこでよろしければ」
「では、そこを使用させていただいてよろしいですか?」
ルードヴィッヒはシェリーに向きなおり、慇懃に尋ねた。
「ああ、いいぜ」
シェリーがうなずいたことで、そういうことになった。
ローマンとシェリーが先に部屋を出て行くと、ルードヴィッヒは改めて部屋を見回した。二度と主の帰ることのない部屋を。
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