16.かつての夢の跡は沈黙する

「失礼」


 玄関先に突っ立っていたメイドに声をかける。


「あっ……申し訳ありません」


 彼女は自分が邪魔になっていたことに即座に気付いて、場所を譲った。

 リエールに噛み跡がないかを探したオリヴィアというメイドだった。ルードヴィッヒはそのまま出て行こうとしたが、それより先に彼女の口が動いた。


「……あの、探偵さんですよね?」


 ルードヴィッヒは振り返る。


「今はどういう状況なんですか? アドルフ様は本当に吸血鬼なのですよね?」

「僕の口からは答えかねますが」


 そっけなく答える。

 立ち去ろうとすると、彼女は目の前にまわりこんできた。


「お、お願いです。アドルフ様は吸血鬼なんですよね?」


 ルードヴィッヒは瞬きをした。奇妙な物言いだった。アドルフが吸血鬼であることを望んでいるような。既視感すら覚える。

 オリヴィアはなおも何か言いかけた。無言で先を促したが、彼女は戸惑ったように目を潤ませたまま、何もいわずにいる。血の気が引き、自分が何を言っているのかをいまさら理解したようだ。


「何か気になることがあれば聞きましょう」


 ルードヴィッヒは改めて彼女に向き合った。


「そ、そうではないのです……ただ……ただ、私は……」

「探偵さん!」


 屋敷の中から声をかけられ、二人は声の方を向いた。


「ではオリヴィアさん。決心がついたらどうぞ。お待ちしております」


 ルードヴィッヒが促すと、オリヴィアは頭を下げた。


「行ってらっしゃいませ」


 客に対する言葉ではあったが、どこかほっとしたような表情も浮かべていた。踵を返し、屋敷の中へと入っていく。入れ違いにやってきたのは、背の高い、のっぽの男だった。途中でオリヴィアが立ち止まって頭を下げたが、すぐにまた歩きだした。


「何かあったのか?」


 怪訝な表情で尋ねてきたのはフランクだった。


「いいえ、なんでも。あなたこそどうされたのですか?」

「急ぎの仕事があってね。一度、アトリエの方に戻らせてもらいたいと思ってな。町から出なければ、大した問題でもあるまい。出るつもりもないしな」

「そうですか。シェリーさんが取り仕切っていたと思うのですが?」

「そうそう、彼はどこだい? 許可を取ろうと思って探していたんだが……」


 フランクはきょろきょろと辺りを見回した。一緒にいると思ったらしい。


「シェリーさんならデニスさんかリエールさんのところにいると思いますよ。リエールさんの警護を頼まれたとかで、その話し合いをしていると思います」

「なんだ、それじゃあ客室棟まで戻らないと!」


 フランクは慌てたように屋敷の中を見た。


「わざわざこっちまで来たというのに、骨折り損だ、まったく」


 もう用はないと言いたげに、踵を返す。そのまま戻りかけたが、再び振り返る。


「ところで……ルードヴィッヒさんは? どこへ行くのかね?」

「今から鉱山へ行ってみようかと」

「鉱山へ? いったいどうして。あんなところに手がかりがあるとも思えないが」

「今は少しでも情報が欲しいですからね。それでは、失礼します」


 手短に言うと、ルードヴィッヒは歩きだした。後ろでフランクが困惑した表情で何かもごもご行っていたが、屋敷の門を出るころには聞こえなくなっていた。

 屋敷を出て旧聖堂の前を通りがかると、ラインマー警察署長がいまだにじろじろと辺りを警戒していた。軽く頭を下げたが、特に何か反応はなかった。

 町の入口からまっすぐ聖堂までを繋ぐキングズ・ストリート。その聖堂から右に曲がり、町中から外れた方向へと向かうと、鉱山の入口に向かうようだった。きちんと整備された道は途中からなくなった。土は大勢の人々によってならされている。道に沿って、おそらく聖堂周りから続いているのだろう木々が増えたが、境目には積まれたままの木箱が、まったくの自然の中というわけではない。それまでとはまったく違う世界に唐突に放り込まれた感覚に包まれる。

 やがてそんな道も終わり、木々がなくなってぐっと広くなった。代わりに、放置されたがらくたが目立つようになっていた。

 壊れたままのトロッコや、古錆びた道具、はたまたパンクした車輪の山、そして腐りかけた木製の二輪車。それらが誰かの手で直されるでもなく、捨てられるでもなく道の脇で転がっている。


 ――かつての夢の跡、か。


 希望への道だけはまっすぐ続いていた。やがてガラクタの山の向こうに、開けた土地が現れる。古びた掲示板には蜘蛛の巣があちこちに張っているが、その主はもういない。向けられる目もなく寂しく突っ立っている。すすけた硝子の戸に覆われたコルクボードには、破れかけた張り紙。どれもこれもが古い情報ばかりだ。鉱山に入る際の注意書きや誰かへの連絡。騒ぎを起こして出入り禁止になったのだろう者の名前。露出の多い踊り子が官能的なポーズをした広告は、色あせてなお惜しむように貼られていた。この踊り子も今は何をしているか知れない。

 掲示板の向こうには古びたコテージがあった。その一つだけが今も使われているようだ。扉には、そっけなく「管理人」のプレートが掲げられている。ところどころ、何度も修復された跡がある。ずいぶんと改修を繰り返したようだ。そのくせ、外に転がった樽には泥のような雨水が溜まったまま放置されている。荷物の上にかけられた巨大な毛布は、黒くすすけて擦り切れている。

 案内所も兼ねていたようで、扉の横には窓があり、そこから人々は管理人と話をしていたようだ。中を覗きこむと、そこには大口を開けて眠っている男がいた。目の前のテーブルには棚があり、そこに古びた紙やファイルがいくつも乱雑に置かれている。今時見ないような電話はあるが、蒸気機関の類はひとつとして存在しない。その代わりに、酒の空き瓶がひとつ、ふたつ、転がっていた。今のこの男の主な仕事がうかがえる。

 他に人の気配もなく、今はこの男だけが管理と案内を兼ねているのだろう。

 窓の硝子を叩く。何度目の強いノックでいびきが途絶え、男はしぶしぶ目を開けると、悪態をつきながら重い体を起こした。

 乱暴に窓が上側に開けられる。


「やあ、こんにちは」


 ルードヴィッヒはなるべく友好的になるようつとめたが、相手はじろじろと急な来客をいぶかしんだ。


「なんだ、お前?」


 擦り切れて汚れきったシャツに、深く帽子をかぶった赤黒い男。手入れのされてない、日に焼けた肌は年齢がわからない。もしかしたら、見た目より若いのかもしれなかった。

 ルードヴィッヒが軽く自己紹介をしたが、男は相変わらず胡散臭そうな目でじろじろと遠慮なく見返した。


「ああ、今朝の事件の……。なんだってこんなところに?」

「アドルフさんはここの経営もしていたと聞きまして」


 その名を出した途端、男は目に見えて不機嫌になった。


「話すことなんざねえよ。とっとと帰んな」

「しかし、あなたがたも無関係ではないのでは」


 男は鼻で笑い、小馬鹿にして見下ろす。


「話すことはねえな」


 窓に手をかけて、そのまま引き下ろそうとする。ルードヴィッヒは引き下ろされる直前の窓にとっさに手をやった。


「まあ、お待ちください」

「こっちは忙しいんだ」


 先ほどまで眠っていた男が忙しいとはいったいどのような了見なのだろう。

 男はもう一度窓を引き下ろそうとしたが、ルードヴィッヒはそれを止めた。明らかにこちらに聞かせるためだけのため息を吐き、ルードヴィッヒを睨む。


「いえ、お話を伺いたいだけなんですよ」


 男は面倒臭そうな顔をした。眠りを邪魔された者の顔だった。


「もしくは、坑道を見せていただくだけでも良いのですよ。勝手に行きますから」


 男は一瞬言葉に詰まった。


「いったいなんだっていうんだ、ああ? しつこいぞ、この優男め!」


 唾を飛ばしながら怒鳴りつけると、窓を掴んでいるルードヴィッヒの手を無理やり外し、ひねりあげ、突き飛ばした。


 ルードヴィッヒはたたらを踏みんで、窓から強制的に離されることになった。


「今は誰も入れねえようにしてるんだ! わかったらさっさと帰れ!」

「……そうですか」


 有無を言わせぬ態度に、ルードヴィッヒは頭を下げた。


「ご無理を言って申し訳ありません」


 男はそれを聞いたか聞いていないかの間に、さっさと窓を閉めてしまった。窓を閉めてなおそこに突っ立っているルードヴィッヒを睨みつける。それからは完全に無視を決め込んだ。

 ルードヴィッヒは頬を掻き、辺りをゆっくりと見回した。ため息をつく。

 がっくりと肩を落とすと、みじめな気分になった。何かが見つかると思ったのにとんだ無駄足だったこともそう思わせたに違いない。今や彼はみすぼらしい物乞いと同様だった。

 情けない姿を晒して踵を返し、帰り路をとぼとぼと引き返す。

 後ろから無言で威圧され、その姿を嘲笑されたまま。


 あるところまで引き返したところで、ルードヴィッヒは管理人室から見えない、ガラクタの裏へとそっと入りこんだ。周囲に山と置かれたガラクタは、視界を阻んでしまう。後ろに隠れ、息を潜める。男が時折、警戒心をまるだしにしてじろじろと辺りを見回していた。しばらく様子を見ていると、やがて男は来た時と同じように管理人室の椅子におさまった。両腕を頭の後ろにまわし、暇そうにあくびをした。

 ルードヴィッヒはガラクタの後ろを移動し、そっと建物の裏側へ回りこんだ。

 まっすぐ行くよりもひどい遠回りだった。腰を折って身を低くし、日の落ちかけた闇の中を歩く。


 ――まったく、僕は吸血鬼じゃないというのに。


 笑えない冗談だ。

 やがて鉱山の入口にさっと辿り着いた。ぽっかりとあいた穴にあわせて、鉄格子の扉が鎮座している。

 ノブへ手を伸ばすと、鍵は開いていた。

 鉄格子はところどころさび付いたままで、風化しているような印象を受ける。そっと扉を開けたにも関わらず、かすかに耳障りな音がした。男の耳に聞こえていないことを祈るばかりだ。


 滑りこむように中へ侵入すると、ぽっかりと開いた大穴へと素早く身を潜めた。天井の隅に、コードで繋がれたランプがあるにも関わらず、灯りはついていない。スイッチはどこかにあるのだろうが、つけるのは危険だろう。道は掘り進められたものがまっすぐ続いていた。壁が崩れぬように補強はしてあるものの、ずいぶんと雑に見えた。

 奥まではさすがに見えなかった。視界が悪くなってきた頃合いにを見計らい、ポケットからペンライトを取り出す。スイッチを入れると、小さな光が辺りを照らしだした。それで充分だった。ペンを手に、奥に向かって伸びている道を行く。いったいどこまで伸びているのか、どの程度行けば奥に辿り着くのかさっぱりわからない。

 それについても考えねばならないと思った矢先、飛びこんできた光景に思わず息を飲む。


「これは……」


 ルードヴィッヒは言葉を失った。


 鉱山はもはや存在しないといってもよかった。道は土砂でふさがれ、ちぎれた灯りのコードが宙ぶらりんになったまま土埃で汚れている。土砂には本来壁を支えていたはずの木材が巻きこまれ、腐りかけていた。

 崩落したのは昨日今日というわけでもないらしく、簡易のロープが申し訳程度に立ち入り禁止であることを示している。これでは採掘どころではない。

 じっとその様子を見ていると、後ろからかすかな音が聞こえた。勢いよく振りかえると、棒を掲げた両手があった。

 舌打ち。振り下ろされる直前に、服が汚れるのも厭わず右へ転がる。相手はターゲットを見失い、目の前の土砂を打ち付けた。

 膝をついて姿勢を正すと、唸り声をあげながら突っ込んできた。

 左下へ狙いを定めて抜けだしながら、どたどたと土埃をあげる足を払いのけた。足は簡単に引っ掛かり、あっけなく前のめりになる。


「オアッ、オッ、トトッ」


 もんどりうって倒れた相手は崩れた岩場に顔をぶつけ、大の字になってうめいた。からからと手から離れた木の棒が転がり、洞窟の中にむなしく響いた。

 この服は見覚えがある。それどころかついさっき見たばかりではないか。


「管理人さん」


 ルードヴィッヒは起き上がろうともがく男の腕を掴み、背中に抑えつける。空を掻く手を背中ごと踏みつけると、呻き声が聞こえた。


「これは一体どういうことなのか説明していただけますね?」


 有無を言わせぬ言葉。

 だが男はヒューヒューと息をしたまま、睨みつけてくる。


「どうするつもりだ、俺ァあんたに殴られたと言いふらしてやるからな」

「説明しろ、と言っているのがわからないか?」


 見下ろすと、男はもごもごとうめいた。


「僕は正当防衛を主張することができる。無理なことだと思うか? この穴蔵を見られて一番困るのはきみだろう」


 ルードヴィッヒはそう続けたが、男は睨みつけて拘束を逃れようとするだけで埒があかない。ここで人に見られるのも面倒だ。


「それとも」


 ふと思いついて、ルードヴィッヒは問い方を変えた。


「きみは吸血鬼の仲間だったんだな」

「ちっ、違うっ!」


 管理人の目に恐怖が浮かぶ。


「僕を殺そうとしたのもそれが理由か。きみはアドルフに雇われた人間だし、仲間であってもおかしくない。きみは僕がこそこそかぎまわっているのをよく思わなかった。僕がここにやってきてきみなんかを殴る理由はないからな」


 反論の時間を与えないほどにまくしたてる。次第に男の口調はしどろもどろになっていった。


「あ、あんたはどうなんだ。吸血鬼の仲間じゃあないのか」

「僕は確かにテオバルト氏に雇われてはいるが、吸血鬼の仲間になった覚えはないな」


 背中を踏みにじり、物理的に圧迫をかける。


「まだ確証がなかったんだが――そうか、きみこそが他ならぬ吸血鬼の仲間だったんだな。もしそうなら――」


 男はもがいたが、次第に、自分がどんな立場にあるのか理解してきたらしい。突貫工事もいいところの言葉だったが、うまく引っ掛かってくれたようだ。頭が悪い人間でなくて助かった。


「違う! そ、そうじゃない。そうじゃないんだ。吸血鬼の仲間だなんて滅相もない! たのむ、助けてくれ!」

「きみが本当の事を言うと約束するならな」

「いう! だから助けてくれっ!」


 声はふさがった穴の中に反響した。男はがくがく震えたまま、ルードヴィッヒの言葉を待っていた。やがてルードヴィッヒが背中から足をどかすと、男は逃れるように手足をばたばたさせながら四つん這いになり、崩れた岩に倒れるように背を預けた。吸血鬼の名を出したとたんにすっかり毒は抜けてしまったようで、肩を上下させながら怯えた目でルードヴィッヒを見つめる。


「お、俺は、吸血鬼の仲間なんかじゃない……」


 長い間鉱山でだけ働いていたのだろうに、この怯えようは異様だった。


「きみは吸血鬼を信じているのか」

「当たり前だろう!? あ、あ、あんな死体を見て――人間のはずがないだろうが! それが……それが……こともあろうに、あのアドルフの野郎だなんて!」


 つい昨日までアドルフの旦那、であったであろう人物に、悪態をつく。


「じゃあ、どうして僕を殴り殺そうとしたんだ?」

「そ、それは……その……この現状を知られたらと思って……」


 どういうことだ、と詰め寄ると、男は怯えたように縮こまった。


「ま、待ってくれ、説明させてくれ」


 男は右手でルードヴィッヒを制す。


「つ、つまり俺たちは、ここがもう採掘ができないような状態であると知られたら困っちまうんだよ。ここが今でも稼働してるように見せかけろってのが、アドルフからのお達しで、それで俺たちは報酬を貰ってたんだ。俺たちにとっては願ってもなかった。この年になって新しい仕事なんて探すこともできないしな」

「この鉱山が崩れたのはいつだい?」

「一年か二年くらい前だ……、幸い、死者はいなかった。とっくに金は採れなくなってて、中に入ろうなんて奴はいなかったから。アドルフの野郎に雇われた何人かが採掘に入ってたりもしたが、もうそのころには雀の涙にも満たないくれえだったからな。アドルフは焦ってたんだ、自分の収入源が減ってる上に、落盤で閉鎖寸前だなんてな」


 それだけではないだろう。

 ルードヴィッヒは屋敷の中を思い起こした。アドルフにとって鉱山は自分の出発点であり、買い取ったほどのものなのだ。自分がすべてを捧げてきた場所。ただでさえ金の減少が顕著になっているところへ、落盤事故が起こったのだ。


「しかし、雇われた鉱夫は何をしてるんですか? まさか一日中ぶらぶらしてるわけにもいかないでしょう」

「たまにここに来て、賭けをしてたんだ……、とにかく、カネだけはアドルフは払ってくれてたからな。アドルフが吸血鬼かどうかなんてどうでもよかったんだ! もしかしたら、テオバルトがカネを払い続けてくれるかもしれないんだからな。だが、もし、他の奴にここの存在が知られたらどうなる?」

「むちゃくちゃじゃないですか」


 ルードヴィッヒは嫌悪感を露わにして言った。

 そんなことで殺されてはたまったものではない。


「それは悪かったと思ってるよ、だが……俺だって、俺たちだって生活があるんだ」


 まともに稼いだカネではないだろうと思ったが、そこまでは言わないでおいた。彼らには彼らの恐怖があるのだ。この先やっていけるかわからない、という。


「しかしこんな状況で、アドルフさんはいったいどうしていたんでしょうね」

「さあ……今までの残りでなんとか回してたんじゃあないか? 一生過ごせるような金は稼いだはずだろうしな。話によると、今は直接金塊を売るんじゃあなくて、ほら、あの……細工士の男と組んで、加工して売ってたっていうしな」

「加工?」

「ああ。実際のところはわからねえが、十中八九そのとおりだと思うぜ。だけどやっぱり、昔と違うやり方をするのはプライドが許さねえんだろう。二人してこそこそとやってやがったのさ」


 ルードヴィッヒは黙った。

 その沈黙に耐えられなくなったのか、男は不安そうに身じろぎをした。

 唇を舐め、咳払いを何度か繰り返しても何も言わぬルードヴィッヒに、次第に男は気まずそうに俯いた。ルードヴィッヒはといえば、男がそんな風に不安を現しても、まったく違うことを考えていた。


「まあ、しかし」


 ルードヴィッヒがようやく声をあげた時には、男はびくりと哀れなほどに肩を跳ねさせたのである。


「あなたの頭はどうにかしたほうがよろしいでしょうね」


 男はそれが自分をいたわる言葉だと気付くのに、少しの時間を要した。

 ルードヴィッヒは、懐からハンカチを取り出して軽く振った。割れて血を流している男の額へと、わずかばかりの復讐心と止血の意味をこめて押し付けてやる。男は痛がってうめいたが、すぐに大人しくなった。


「管理人室に応急用具くらいあるでしょう、そこまで行きましょう」


 ルードヴィッヒは男を伴って、管理人室まで戻った。

 だが、そこにあった応急用具はどれもこれも古いものばかりで、だいぶ長い間交換がされていない事実だけが浮き彫りになった。

 ルードヴィッヒは茶色い瓶を手に取り、すすけた字を見る。中の液体は半分ほど残っているが、開けると瓶の口からはぼろぼろと固まったクズが落ちた。包帯は使いかけのまま黄ばんでいる。そもそも中身が少ない。


「これ、いつの物です?」


 ルードヴィッヒは瓶を片手に尋ねた。


「わかんねえ。使えないのか?」


 男は困惑の表情を浮かべた。

 ルードヴィッヒは男をしばらく見返す。


「確か医者がいましたね、ギヨーム老とかいう。彼のところまで行きましょう」

「な、なんて言えばいいんだ」

「案内をしているときにうっかり転んだとでも言えばいいんですよ。さあ、案内をお願いします」


 小さく呻き声をあげる彼を伴い、今度は管理人室を出た。

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