27.誰が吸血鬼を殺したか
彼が目覚めた時、辺りはひどく暗くて湿っていた。
それでも目はすぐに慣れたようで、少なくとも視界に関して不自由はなかった。それでもここがどこなのかすぐに理解することはできず、混乱のまま体を起こすことしかできなかった。
どこかの部屋のようだが、灯りがない。部屋の中は真ん中に今自分が寝ていたベッドが一つきり。扉はひとつあるほかは、何もなかった。机と椅子ぐらいあってもいいものだが。窓にはぴったりとした重いカーテンが敷かれていて、今が朝なのか夜なのかすらわからない。窓を開けようにも体がまだ思うように動かなかった。
どうにかして体を起こすのにしばらくかかった。それでもどこにも不調は見当たらない。強いていうなら喉がかわいているくらいで、あとはすこぶる快調だった。目も悪くない。
灯りがどこかにないかと見回してみたが、ランタンの類は見つからなかった。いったいここはどこなのかと思っていたところ、ノックの音すら聞こえずに、扉が開けられた。
相手は自分の姿を見ると、立ち止まった。
何事か反応があっても良いだろうに、と気まずくなるほどの時間。その人物はそっと扉を閉めると、靴音をさせて自分に近寄ってきた。
「おはようございます」
深い闇の中から光が一つ。見えたのは足先からだった。眩しさが強調される。
彼――フランクは、現れた人物をまじまじと見つめた。
「まさか仮死薬だとは思いませんでした。『ジュリエット、あなたはどうしてまだそんなに美しいのか』――」
ルードヴィッヒ・エインとして知られた探偵だった。
ぴくりとも表情を動かさない。片手には盆を持っている。水差しとコップが一つと、もうひとつ蓋のされた透明な瓶が置かれている。ぼんやりとそれを眺める。
「シェイクスピアかね?」
『ロミオとジュリエット』の一説だ。
仮死薬を飲んだジュリエットを、本当に死んだとロミオは勘違いした。仮初の死者であるジュリエットを見ながらつぶやいた言葉。
「仮死薬……?」
フランクはぼんやりとした頭で考えた。次第に記憶がはっきりとしてくる。
追い詰められた自分は自殺したはず――。
「そうか、そうだったのか……?」
瓶を間違えたのか。それとも。
だが、妙に違和感がある。
「しかし、それで刑罰を免れることができるなどと考えてはいないでしょうね」
フランクは答えなかった。
絶望と、目の前の探偵を噛み殺してやりたいという不吉な思いがふつふつと湧きおこってくる。そうだ、今はこの男しかいない。他の奴らはどこだ。どうすれば逃げられるのか……そんなことがとりとめもなく泡のように浮かんでは沈む。
「今は……朝なのかね?」
「いえ、夜ですよ」
喉はからからに乾いている。
「悪いが、喉が……喉が渇いているんだ。ずっとこんなところで眠っていたからかな。はは……吸血鬼みたいだな、こんなことを言うと。水でいいんだ、水が……飲みたい」
「わかりました。少々お待ちを」
ルードヴィッヒは片手に持った盆を小さなテーブルに置いた。そこには水差しとコップがひとつずつと、透明な瓶がひとつ置かれていた。水差しから清らかな音をたてながら透明な水がいれられる。受け取ると、フランクは飲みこんだ。
だが、喉に到着する以前に、腐ったような味の水に思わずむせて吐きだす。
「ひどい味だ!」
「おや、そうですか。では、こちらはどうです?」
ルードヴィッヒは瓶の蓋を開けて、フランクに差し出した。受け取りはしたが、湯気もないのに、妙に熱い液体だ。だが喉は異様に渇いている。さっさとその渇きをいやしてしまいたかった。ぐっと喉に流し込んだとたん、今度は喉の焼ける強い痛みを感じた。胃の中が溶けてしまいそうなほどの激痛に、強くせき込む。
「大丈夫ですか?」
これはなんだね。
そう言おうとしたものの、口からはしゅうしゅうと煙が上がり、おまけに舌が半分無いことに気付いた。胃の奥から何かがこみあがってくる。
ルードヴィッヒはその手からひったくった瓶の中身を、そのまま口に含んだ。
目を剥いたフランクの前で僅かに表情をゆがめたが、口から煙が上がることもなく、ルードヴィッヒはけろりとした顔をしていた。
「聖水です。僕にはまったく、塩水にしか感じません。味としていうなら、しょっぱいぐらいですね」
「き、き、きみは」
呂律の回らない口で尋ねる。舌が消えている。果たして強酸であってもこれほどの威力を持つだろうか。
「いったいどうしましたか? 熱かったですか? それとも強酸でも飲んだような気がしましたか? 僕には塩水にしか感じないというのに!」
フランクはぎょっとした。
まさか。そんなことが。
「あなたの体に王水でもかけてみましょうか? ……今と違って、今度は体が再生するかもしれません」
眠る前のルードヴィッヒの言葉がよみがえる。
”本当に気を付けなければならないのは――あなただ。”
罪から逃げ、向き合うことからも逃げ、生きることからも逃げた男の体は、死を迎えてから変質してしまったのだ。
フランクは青白い自分の腕を見下ろした。自分は確かに毒を飲んで意識を無くし、そして今は――この男に、何もかも騙されたのだ。
「ヨハネス神父!」
ルードヴィッヒが叫んだ。
扉から異様な声が聞こえた。扉から滑るように入りこんできたのは確かにヨハネスだった。だが、その口から発せられるのは、これがヨハネスの声だなどと、死んでも――それこそ死んでも信じられないような不気味な音だった。ひどく耳障りで、怒りに似た声。
いったい何なのかがわからない――だが、心の奥底ではわかっていたはずだ。
神への祈り。
かつて自らも信じたものへの罪悪感。神の怒りがやってくる。それに対する恐怖がふつふつと湧きおこってくる。さながら、暗闇からやってくる未知の魔物をこわがる小さな子供のように。祈りの言葉が、神聖なるものへの恐怖が、体中を蝕んでいく。
「それをやめろ!」
だが、体を起こすと妙に軽かった。生前では考えられなかったほどの筋力に、恐怖はたちまちに吹き飛んだ。今ならやれる。
ルードヴィッヒはヨハネスと反対方向へと跳んでいた。馬鹿な男だ。ヨハネスから視線を逸らすことを見込んでの行動だったのだろうが、まずはこのぼんやちした聖職者をなぶり殺してやる。今ならなんだってできる――。
ヨハネスが掴んだ十字架を突きつける。目がくらんだ。
十字架を持つ腕を潰そうとしたとき、シャッと音がした。
「フランクさん!」
呼び声に振り向くと、ルードヴィッヒは閉められたカーテンを掴んでいた。一気に引く。
途端に、十字架よりも強い光が辺りを支配した。立っていられないほどにまぶしく、それどころか頭から抑えつけられたような痛み。
フランクは悲鳴をあげながら両目を抑えた。その下で、眼が腐り落ちていく。両手が直接朝日に晒され、ぼろぼろと零れ落ちていった。髪が崩れ、体のなかをめぐる変質した血液が蒸発していった。
どんな吸血鬼も、火によって滅せられる。
巨大な炎であり、世界に暁光をもたらす朝日はその最たるものだった。そして太陽はいつの時代も、どんな種の人々が支配しようと、神々のものであり続けている。たとえ吸血鬼がこの世を支配しようとも、太陽だけは彼らの敵として君臨し続けるのだ。
ルードヴィッヒは木乃伊のように干からび、朽ちゆく体を見下ろした。
「おやすみなさい」
たった一言向けられた言葉。その言葉を耳にしながら、ヨハネスは上下させていた肩を落ち着けるように大きく息をした。体の前でゆっくりと十字を切る。
部屋の中は今や、朝の優しい光に満ちていた。
誰が吸血鬼を殺したか?――または探偵ルードヴィッヒの推理 冬野ゆな @unknown_winter
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