ドイツのちょっと変わった勤務事情

八話:『朝食が……勤務時間に含まれまれる、だと!?』

ドイツ人の朝は早い。どれくらい早いかというと、朝の六時台の電車が日本で言うところの通勤ラッシュになるくらい早い。面白いのはみんなが早く出社したくなるその理由にある。日本人的にはドイツ人は勤勉だから早く行くのだ、と思う人もいるかもしれない。しかし実際のドイツ人はプロ意識こそ高いが、別に仕事が好きな訳ではない。そこに彼らの朝が早い理由がある。

 その一つは、早く仕事を終えて早く家に帰りたい、という理由である。基本的にドイツの夜は早く、観光地ではない限り夜九時を過ぎれば通りから人の往来が途絶える。夜に騒ぐのは元気が有り余っている若者たちだけであり、企業戦士たちは家でゆっくりと英気を養うのである。これは概ねヨーロッパ諸国に共通しており、夜九時を過ぎても街中が光り輝いているのはアメリカと東アジアくらいである。朝早く出社し、そして夕方の四時には家に帰る。日本人からしたらなんとも健康的なライフスタイルである。しかしドイツ人の朝が早い理由はこの他にもう一つある。

 それは、『職場で朝食を食べた場合、その食事に有した時間は勤務時間にカウントされる』という摩訶不思議なドイツのルールに起因する。平たく言うと、食事にかかった時間が勤務時間から差し引かれる、ということである。例えば一日八時間勤務だった場合、昼休みと朝食時間を差し引き、一日六時間働くだけでいい。逆に言えば、職場で朝食を取らなかった場合、朝食時間が勤務時間から差し引かれないので余計に働かないといけない。朝食を職場で取る場合と取らない場合、どちらも出社している拘束時間は同じ八時間だが、昼休みを一時間と仮定すると働くのは前者は六時間でよく、後者は七時間働かないといけない。一時間だけ多く手を動かさねばならない。そんなお得なシステムがあるなら特別なこだわりを持つ人を除き、わざわざ家で朝食を取る人は少ない。職場で朝食を取ったほうが断然お得だからである。

 だからドイツ人は皆こぞって朝早く出勤する。早い人には七時過ぎにはもう会社にいる程である。そんなドイツ人の勤労スタイルを影から支えているのが、実はベーカリーであることを知っている人は少ない。

 ドイツは言わずと知れたパンの国である。ドイツ人ですら自分の国に何種類のパンがあるか分からない程たくさんあり、その数は優に千を超える。日本人の朝が白米と味噌汁から始まるように、ドイツ人の朝はパンから始まる。焼きたてのパンにお気に入りのジャムをつけ、場合によってはチーズやハム、サラミをはさむ。ドイツ人はそれぞれが独自のパンのレシピ(どのパンに何をはさむか)を決めている。余談ではあるが、ドイツのパンとしては個人的にはプレッツェルが好きなのだが、どうやらあれはビールのおつまみとしての側面が強いらしく、朝食にはあまり食べないらしい。

 さて、企業戦士たちはとにかく朝早く職場に行って朝食を食べたい。しかし朝の六時にスーパーは開いていない。ならば前日にパンを買い置きして、次の日の朝食にすればいいと思うだろう。しかしここで重大な問題が生じる。ドイツ人は古くて固くなったパンが死ぬ程許せないのである。白パンなら焼きたてホカホカもっちりであるべきで、それがライ麦パン(黒パン)ならしっとりしていなければならない。どれくらい許せないかというと、日本ならちゃぶ台返しをするくらい許せないらしい。

 友人が日本のちゃぶ台返しという知識をどこで仕入れたのかは置いておくとして、それではみんな出社後の朝食に焼き立てパンではなく包装された保存パンを食べるのかと問われれば答えは否である。心配ご無用、そんなドイツ人のパンへの執念を一身に受けたベーカリー(ドイツ語ではベッカライ:Baeckerei)は彼らの要望を満たすべく、早いところは五時半〜六時から開店しているのである。どんなに遅くても朝の七時には必ず開店するので、皆出勤前にベーカリーに立ち寄り焼きたてのパンを手にすることが出来る。朝の電車も混むが朝のベーカリーもなかなかの戦場である。

 一度だけ朝のベーカリーに立ち寄ってみたことがある。小さな店内は人で埋め尽くされ、皆口早にパンを買っていく。とてもではないがショーウインドウを眺めながらあれこれ悩んでいる暇など無い。客が波のように次々に押し寄せるので、カウンターの前に立ったらすぐに注文しないといけない。もたついているとこの客は時間がかかりそうなので後回しと判断され、今度は店員さんが他のお客さんにつきっきりでこっちを向いてくれなくなってしまう。自分の食べたいパンをスラスラと語れるようになってからでないと朝のベーカリーは敷居が高いかもしれない。要修行である。

 さて、こうしてドイツのベーカリーがドイツ人の朝を支えているわけであるが、必ずしもすべての人が職場で朝食を取るわけではない。ドイツ人は他国に比べて比較的朝食に時間をかける国民として知られており、家でゆっくりと朝食を取る人も少なくない。そうした人たちはパンだけベーカリーに行って買ってくるか、買い置きのパンで済ませる事が多い。しかし買い置きの保存パンと侮ることなかれ。オーブンでじっくり焼くと驚く程もちもちになり、ベーカリーの焼き立てパンと比べて遜色ないレベルで仕上がるのだ。これだけで驚きなのだが、その値段にも驚かされる。一番オーソドックスな白パン(六個入り)で約50セント。日本円にして70円位である。たった70円でおそろしく美味しいパンが買えるのである。それにほろ苦いマーマレードを塗ったり、スライスされた生ハムを挟めばあっという間に高級サンドに早変わりである。

 日本人が炊き上げた白米を誇りにするように、彼らはパンを誇りに思っている。故に手を抜かない。だからとても美味しい。白パンに限らず、ドイツではあらゆるパンがとても安い。げに恐ろしきはドイツパンのレベルの高さである。

 ドイツに旅行に行った時は、是非地元のベッカライに立ち寄ってみて欲しい。朝の喧騒に揉まれるも一興、落ち着いた時間にじっくり選ぶもよし。日本にいては味わえない、パン文化の深淵を垣間見ることが出来るだろう。何より美味しいので、いろいろ食べ比べてみるのも面白いかもしれない。

 ちなみに日本にもドイツパンの専門店がいくつかあり、日本にいながらドイツパンを楽しむことができる。しかし注意してもらいたい。日本とドイツとでは小麦粉の精製・分類方法が異なっており、日本では小麦粉に含まれるグルテンの質と量によって分類され(強力粉、中力粉、薄力粉)、一方のドイツの小麦粉はミネラルの含有量によって分類されている(Type405, Type550等)。同じレシピでも使う小麦粉の種類が異なると、出来上がったパンの食感が大きく異なってしまうのだ。本場のドイツパンを食べてみたいと考えている人は、そのベーカリーが使っている小麦粉の種類がドイツの分類に準拠しているものかどうかについても気にしてみるといい。もっともそれはベーカリー側からしたら厄介な客にほかならない訳であるが。

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