ドイツの充実しすぎている医療保険事情

二十一話:『怪我をして入院しても治療費ゼロ? えっ? 無料? えっ?』

人はドイツはどんな国かと問われたら、一体何と答えるだろうか。多くの人は工業、技術の国であると答えるだろう。実際ドイツは工業・技術の国であり、車の国であることは疑うべくもない事実である。しかしもう一つ、ドイツにはあまり一般の人には知られていない別の側面がある。それは一体何か。答えは『健康保険』である。

 ドイツは世界的にも類を見ない秀逸な健康医療保険システムを持つ国なのだ。ではドイツの保険とは一体どのようなものなのか、と問われたら多くの諸外国の健康保険に関わる官僚達はこう答えるだろう。「世界中がドイツの保険制度を目指し、そしてどの国もそれを実現できていない」と。さすがに言い過ぎかと思うだろう。しかしこれは紛れもない事実なのである。厳密に言うとイギリスも社会保障、特に医療保険においては成功している国にカウントされそうだが、実際には多くの問題がある。イギリスの話は置いておくとして、では世界中からそこまで言われるドイツの保険とは一体どのようなものなのか。

 結論から言うと、医療費は保険の適用範囲内であれば原則無料である。事故に遭い、たとえば骨折してしまったとしても医療費は全額無料である。風邪をひいて医者に行っても診療費は無料だし、子供を出産するのも無料である。日本のように数十万円かかる、なんていうことはない。逆に子供を産むと多少は減額されたが国から少なくない額の補助金がもらえたりする。まるで冗談のようだが本当の話である。

 ではどうやってこのシステムが成り立っているのか。多くの国が試み、何故うまくいかなかったのか。実は医療費が無料なのはドイツだけではない。最近EU脱退でメディアを賑わせているイギリスも医療費が無料である。しかしながらイギリスの医療システムはお世辞にも成功しているとは言いがたい、多くの問題を孕んでいる。ではドイツとイギリス、同じく医療費が同じなのにどう違うのか。

 まずドイツとイギリスで共通して点として、一般医と専門医とが明確に分かれているということである。これは日本の診療所と病院の関係を想像してもらうとわかりやすい。ドイツでは多少具合が悪くなったからといっていきなり病院に行く人はいない。というか行けない。まず近所の一般医と呼ばれる医者のもとに行き、果たして専門医(病院)に行く必要があるのか、それとも薬局で薬を処方してもらえば済む状態なのかを診断してもらうことになる。イギリスの場合、かかりつけ医(GP:General Practitioner)をそれぞれ前もって登録する必要があり、更に診察には予約をする必要がある。場所にもよるが都市部のGPは混み合っていて当日に診療を受けられないということも珍しくない。しかしドイツでは事情が全く違う。ドイツの場合はかかりつけ医の事前登録は必要なく、いつでもどこでも好きな場所のホームドクター(Hausarzt)に駆け込むことが出来る。もちろん予約が必要だが、火急の患者を受け入れる制度としてドイツのほぼすべての医療機関には予約無しで診察してもらえる『急患』用の時間が設けられている。これは非常に便利で、例えば紹介状が必要な病院でさえ急患であれば受け入れてくれる事が多い。

 さて、ホームドクターのところに行き、次は必要に応じて各種専門医の紹介状を書いてもらうことになる。耳が痛くても、目が痛くても、風邪で熱があっても、とにかく最初にホームドクターに行くのがドイツである。

 ちなみに症状が軽微な場合は薬を処方して様子を見るのは日本と同じであるが、日本人がドイツの薬を使うと大変なことになる。以前のハーブティーのトピックで述べたが、ドイツの薬は当然欧米人、特にドイツ人の体を基本に設計されている。大柄なヨーロッパ人と日本人とでは体格、体重、あらゆる点で異なっており、一言で言うとヨーロッパの薬は日本人には恐ろしく効くのである。

 アスピリンは冗談のように効くし、痛み止めはロキソニン並に効く。薬に関して言うと、ドイツと日本との決定的な違いは効果だけにとどまらず、その価格が恐ろしく安いことだろうか。ドイツ定番のアスピリンコンプレックスや頭痛薬はたった数ユーロである。日本円にして数百円である。なんともバリュー感のある薬たちであろうか。実際これらの薬を日本から個人輸入して転売する人や、旅行のついでにと薬を買っていく人も少なくない。ちなみにイギリスではGPから薬を処方される場合、その種類に関わらず一種類につき一律数ポンド(千円ちょい)を支払わねばならない。二種類薬が処方されたら三千円近くになる。仮にドイツで百円ちょいで売っている薬であってもイギリスだとそれに千円以上支払わねばならない。それを考えるとドイツは実に患者に優しい。同じ医療費(診療費)が無料でもその実態は大きく異るのである。ちなみにイギリスではGPから専門医を紹介された場合であっても多くの問題があるのだが、それは割愛する。一言で言うなら、同じ医療費が無料と言ってもドイツとイギリスとでは天と地ほどの差があるとだけ伝えておきたい。


 さて、話を戻そう。具合が悪くなった場合、ホームドクターから処方された薬で対応しきれない場合は、紹介された専門医のところに行くことになる。ここでは文字通り専門的な医療機器を用いた検査を受け、病気を詳細に調べるところである。当然ながら診療費は無料である。ここでさらなる高度な検査が必要と判断されると今度は病院の紹介状を書いてもらうことになる。病院の医者は専門性が高く、それぞれが○○専門、という風に分野を限定して診療している。故にドイツでは病院に行くと複数の医者に診てもらう、ということが普通に起こる。

 そしてそれぞれの専門医の意見を統合的に判断して治療が行われる。尚医者が必要と判断した検査・治療は一般的なものであれば無料。一部の特殊な診療においては加入している保険会社の規定によって異なる。さて、ここでいう保険とは一体どのようなものだろうか。ドイツでは日本とは異なり公的保険と私的保険との二つが存在する。

 私的保険だと保険代が高い代わりに治療のカバー率(多くの新規治療も保険でカバーしてくれる割合)が高いとは言われているが、実際にはそのカバー率はあまり変わらない。というよりもドイツの公的保険が優秀すぎてプライベート保険のメリットがあまりない、というのが現状である。しかし医者はプライベート保険の患者を好み、中にはプライベート保険専門の病院も存在する。その理由は何か。

 ドイツでは公的保険ではそれぞれの治療に対して支払われる医療費が厳密に定められているが、患者がプライベート保険加入者であった場合はその限りではない。どういことかというと、患者がプライベート保険であった場合、その医療報酬は医者がある程度自由に設定できる、というシステムである。医者としてはどちらが旨味がある患者なのかは語るべくもない。予約を取ろうと思って電話をすると、公的保険だと満員で予約を取れない場合でもプライベートだとほぼ自由に予約を取れたりする。ただそれはあくまで医者側のメリットであり、患者側としてのメリットは少ない。プライベート保険に加入しているという特別感と、一部の高額なプランのプライベート保険が富裕層に人気であるという理由で、プライベート保険は存続している。いわゆるお金持ち用の保険とも言える。もっとも富裕層でも公的保険で十分というのが一般的な意見だが、人と違ったものが好きな人は全世界どこにでもいるものである。

 肝心の医療のレベルであるが、安かろう悪かろうを地で行くイギリスとドイツとでは全く異なる。必要な治療は遍く受けることができ、そのレベルも高い。もっとも日本の病院に見られるきめ細やかなサービスなどは一切存在せず、ややもすると無愛想とも感じる対応をされるが、これがドイツである。驚いてはいけない。一つだけ注意しないといけない点は、ドイツでは病院ごとに治療ポリシーが異なることが多く、この病院では○○メソッドを推奨しているが、他の病院では違った手法を推奨している、ということも往々にしてあり得る。なので事前にどの治療が自分に合っているか、そしてそれはどの病院に行けば受けられるのかについて、ある程度予習する必要がある。ドイツでは病院の口コミが非常に盛んで、ネットで検索すれば不満を語るのが大好きなドイツ人の不満スキルをいかんなく発揮しているシーンに遭遇することも少なくない。

 このような充実した医療システムを支えているのが、給料から天引きされる恐ろしい額の税金である。ドイツの社会保障費ははっきりいって高い。とても高い。というか税金全てが高いし、消費税も20%近い。年収がある程度ある人ならお給料の四割以上を税金に持っていかれるのがドイツである。しかし給料から引かれた分、医療制度として国民にしっかりとフィードバックできているのがドイツである。


 最後に、ドイツでは『必要な治療』に関しては原則無料であるが、事故を除く自身の過失(さぼり)による疾患に対する治療――つまり虫歯に関しては保険がきかない。なので虫歯治療がものすごく高い。どれくらい高いかというと、詰め物をすると素材によっては数万円かかるくらいには高い。嘘のような本当の話である。なのでドイツ人はとにかく歯をちゃんと磨く。ここでサボると恐ろしく高くつくことを身にしみて理解しているからである。死にものぐるいで歯磨きに執念を燃やした結果、ドイツの虫歯予防薬や虫歯予防歯ブラシは瞬く間に世界中で支持を得た。セッチマから始まりブラウン3Dのような電動歯ブラシの最高峰もある。医療歯磨き粉エルメックスも旅行客に大人気である。


 小さな問題もあるが、ドイツの医療制度は実に合理的で患者に優しい。高い税金を払っても納得できるものである。変革を迫られている日本の医療保険制度がどのようになるか。世界中が真似をしようとして出来なかったドイツの医療制度、日本には是非それを再現した最初の国になって欲しいと切に願うばかりである。決して医療費無料という言葉に踊らされてイギリスの二の舞いにだけはならないように、と。

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