ドイツの知られざる食事情 〜 ケーキから生肉まで

ドイツの恐るべき食べ物とは

四話:『生の豚ひき肉を食べるなんて聞いてないぞ! 私は帰らせてもらう!』

いきなりだが、読者諸君は豚についてどのようなイメージを持っているだろうか? 豚に真珠という言葉に代表されるように、日本では豚を用いる場合、総じてネガティブな意味合いを持つことが多いだろう。しかし面白いことに、それがドイツに来ると事情は大きく異る。

 そんなドイツ人が豚に対するイメージを強く表すことわざが『Schwein gehabt! = 豚ゲット!』だろう。さて、面白いのはこの意味である。日本的解釈なら素直に「太った」とも訳されそうな言葉であるが、ドイツではこれを『運があった=幸運』と言い換えることが出来る。なんと豚さんは幸運の象徴なのである。

 これ以外にも豚にちなんだ諺があるが、いずれも日本のように豚=否定的なもの という使われ方はしていない。これには理由がある。いわゆるドイツの豚さんは日本で言うところの牛馬なのだ。労働力という意味ではなく、資産という意味で。

 さて、ドイツにおける豚の役割はとても重要で、多くのドイツ文化の発展に欠かせない存在となっている。例えばドイツの代表的な料理であるソーセージ。豚や鹿、牛や羊、ラム肉が使われるがその主役はやはり豚肉である。どの地域に行ってもご当地ソーセージがある。それは何故か? その理由はドイツの主要タンパク源が古くから豚であることに起因する。

 何故豚肉を食べているとソーセージが作られるのか。理由は簡単である。まず野生の豚はとても大きい。家畜の豚も大きい。そんな大きい豚を殺して解体したとする。そうするとものすごい量のお肉が手に入る。しかし昔は冷蔵庫のような便利なアイテムは存在しない。つまりせっかく大きな豚を手に入れたのに、大量のお肉を食べきる前にお肉が悪くなってしまう、という問題が発生する。もちろん一頭の豚をある程度の人数でシェアすれば食べきれるかもしれない。でもそれでは毎回豚を裁く度に食べきらねばならず、融通が利かない。

 そこで開発されたのが腸詰めの燻製=ソーセージである。豚をさばいて手に入れた大量のお肉はソーセージという形にすれば長期保存できるのだ。そこからは速い。豚を手に入れたらソーセージ。ひたすらソーセージ。ソーセージが嫌なら解体した時に適当にお肉を焼いて食べればいい。

 そんなこんなでドイツは延々と豚を食べ続けてきた。ちなみにドイツの豚の消費量はダントツの世界一で、EUにおける豚の消費の25%をドイツだけで消費している。ちなみに年間560万トンくらい。日本は150万トンくらい。ドイツの人口が約8000万人で、日本が1億2000万人ということを考えると、日本に比べて一人あたり5.5倍近く豚肉を食べている。そんな豚肉大好きドイツ人の豚肉への情熱はソーセージだけに留まらない。

 例えばベルリンのご当地料理かつドイツを代表する料理の一つであるアイスバイン(豚の豚足)。これは沖縄料理の豚足に近いが、こちらの豚は日本の豚に比べて味が以上に濃いので、苦手な人は苦手かもしれない。もう一つ、ドイツを代表する料理といえばシュニッツェル(ドイツカツレツ)である。これは豚のステーキを専用のハンマーで叩いて薄く伸ばして油で揚げたものである。200gからスタートして、300、400、強者は500gのシュニッツェルを食べるらしい。ちなみに400gともなると、その重さの分お肉が薄く伸ばされてお皿に乗り切らないこともある。初見の人が調子に乗って頼むと、出されてきたお皿を見て絶句するだろう。

 あと忘れてはいけないドイツ料理がハンバーグ。アメリカの食べ物のイメージが強いが、これも伝統的なドイツ料理である。語源はドイツの北部に位置する都市、ハンブルグから。

 これ以外にもケーニヒスベルガー・クロプセ(ミートボール:ベルリン郷土料理)やカスラー(塩漬け豚肉の燻製)が一般的で、上にあげたものはスーパーで全て手に入る。特にカスラーのりんごソース和えは絶品で、これはいつか詳しく紹介したい。

 さて、パテからミンチ、腸詰めからステーキ、ハムとドイツ人は豚肉研究に余念が無い。その究極系がメットブルスト(生豚ひき肉)である。

 豚の生肉――日本におけるタブー中のタブー。レバ刺し、馬刺し、牛刺し、鳥刺しがあるが、豚刺しは存在しない。むしろ存在してはいけない。そんな禁忌中の禁忌がドイツには存在する。

 友人のドイツ人曰く、朝早く起きてベーカリーに行き焼きたてのパンを買う。それにたっぷりとメットブルストを塗りこんでブラックペッパーをかけて食べるのが幸せの秘訣なのだと。メットブルストを知らなかった筆者は友人の話に強く興味を持ち、自分もそれを食べてみたいと言った。言ってしまった。そして悲劇が起きた。無知は罪である。

「なにコレ?」「ん? 前に言ってたメットブルスト。食べたいって言ってたでしょ?」

 友人達とバルト海にキャンプに行った二日目の朝、それは起きた。朝が弱いと語っていた友人がその日は珍しくごきげんな様子で鼻歌交じりにパンを切っていた。眠い目をこすりながら椅子に座り、机に綺麗に切られたパンを眺める。なんでもパンを一定の厚さにスライスできてこそ一人前なのだそうな。ちなみに一人前になるとどうなるのかは分からない。

 さて、そんなこんなでコーヒーを飲みながらじゃあお気に入りのマーマレードでも付けて食べようかなと思っていたら、何を思ったのか友人がパンを掴み、目の前でどうみても生肉を塗りたくっていた。成る程、ドイツにはパンにひき肉を塗って後で一緒に焼く料理でもあるのだろう。総判断した自分はどんな料理が出てくるのかと期待に胸を膨らませた。

「はい。どうぞ」友人は笑顔で生肉パンを差し出した。絶句した。友人は笑顔だった。

 トキソプラズマやE型肝炎、豚ヘルペスという言葉が頭の中を駆け巡る。しかしドイツ人はこれを常習的に食べているらしい。ならば大丈夫なはずだ、と頭の中で自分に言い聞かせる。そもそもこれを食べたいと言い出したのは自分なのだ。わざわざ朝早く起きて近くのスーパーに買い出しに行ってくれた友人の好意を無下には出来ない。それにあんなに期待に満ちた目で自分を見ている。やめて、そんな目で見ないで。

 そんな葛藤が何回かあって、結局意を決して食べてみることにした。

 生まれた始めて食べた豚の生ひき肉は――とても美味しかった。

 冗談じゃない。本当に美味しいのだ。メットブルストには生肉の臭みを消すためにいろいろな香辛料が練りこまれており、それが実にいい塩梅なのだ。豚肉の味もしっかりと感じつつ、ハーブの香りが鼻に抜けていく。そして黒胡椒が味をしっかりと引き締める。美味しい。本当に美味しいのである。それまでの忌避感はどこに行ったのやら、手の平返しの誹りを甘んじて受ける覚悟でひたすら食べた。

 世界中にはトリッキーな食べ物がたくさんあって、得てしてそれらは珍味≒ゲテモノに分類される傾向が強い。しかしこのメットブルストは料理として完成されていた。今では大好物のドイツ料理(食材)の一つである。

 なんでも友人曰く、メットブルストの豚肉は生食ができるように特殊なプロセスで加工される、とのこと。なので銚子に乗ってドイツの豚肉=生で食べても大丈夫、と勘違いして食べると病院直行だそうな。そこまでして生の豚肉を食べたいと思えるのがすごい。ドイツ、恐るべし。

 メットブルストを受け入れた経験は心に大きな余裕を生み出していた。ならば今まで敬遠していた料理にも積極的に手を出すべきだろうと。そこで次の候補に上がったのがブルート・ブルスト(豚の血のソーセージ)である。これもドイツを代表する料理の一つであるが、特徴的すぎる原料が故にどうしても食指が伸びなかった料理でもある。

 そこそこ評判の良いレストランを予約していざ試食。食文化の深淵を垣間見ることが出来るのかという淡い期待が現実味を帯びてくる。真っ黒い何かがお皿の上に置かれた。小さく一口大に切り分けて口へと運ぶ。

 口の中にじわりと広がる独特の血の香りとラードの旨味、そして香辛料の香り。次の瞬間、思わずワインを一気飲みした。臭い――得も言われぬ匂いが口の中を蹂躙する。血や内臓は臭いとは聞いていたがまさかこれ程とは思わなかった。そもそも内臓の中で、血抜きした肉は比較的匂いの少ない部分らしい、ということを後で知ったが時遅し。泣きながら必死にワインで流しこむようにして食べた。ワインを四杯飲んだ。ブルストの味は噛まずに全部飲み込んだので味を感じることなく食事は終わった食後のケーキがとても美味しかった。


余談であるが、日本でもメットブルストは手に入るので興味のある方は是非挑戦してみることをおすすめする。豚の生肉を食べるという行為に対する嫌悪感に打ち勝つことができれば素晴らしい味に出会えるだろう。必ず黒胡椒をかけるの忘れてはならないことを記しておく。

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