(3)

 一方でさくらは蛍の群れにまとわりつかれ、身動きが取れなくなっていく。

 ひんやりとした青白い光は桜をやんわりと抱きしめ、愛おしむように包み込む。


「人は脆いのぉ……ほれ、あの老女など虫の息じゃ」

 彼が笑うとお清の呼吸はか細くなり、今にも止まってしまいそうだ。桜は悔しさに月読命つくよみのみことを睨む。

「どうして……こんなことを」

 人の心の柔らかな部分を暴き、嬲り。痛みに涙する人々を見て、どうして何も思わないのか。


 あの時も、彼は桜の大事にしていた鞠の価値をわかってはくれなかった。

 いつも忙しい父が桜のためにと買ってくれた鞠。だからこそ大事にしたいと思う桜の気持ちを、代わりの美しいそれを与えることで無視をした。


 ――あなたに、私が逃げた理由はずっとわかりはしない。


 彼は笑い、泣きだしそうな桜に手を伸ばしてその白い頬を撫でた。

「つまらぬからじゃ……其方そなたが我を楽しませぬから、他のもので退屈を凌いでおる。其方が我の許に居ればこのようなこと、せずとも済んだのにのぅ」

 お前のせいだ――暗に責めるその言葉に桜の瞳は暗く濁っていく。

「我の許に戻ろうぞ……さすれば何も憂うことはない。我も其方が居れば満足じゃ」


 自分が去れば、世界に渦巻くその悲しみが少しだけ減る。

 守るべき世界を自分が乱しているという現実が、桜の心を黒く蝕んだ。


 ――私がいなければ、みんなが少しだけ幸せになれる。私がいない世界の方が、きっと穏やかで憂いがなく……


「桜、我の許に参れ。――其方が我を動かすぞ?」

 桜の矜持きょうじが折れかけた時、米田よねだは叫んだ。


「桜! そいつの話聞くな!!」


 米田の声は強い圧を持ち、桜を包む月読命の神気を薙ぎ払う。

「桜がいるから俺はこの世界楽しい! だから、そっちに行くな!!」

 思いの丈を言葉に乗せると、声に力が籠っていく。


「言霊……言の葉使いか……厄介な」

 それまで薄く笑っていた月読命の眉がわずかに寄り、不快という感情が面に出た。

 神である自分の興を殺ぐ、罰当たりな存在に金の瞳が苛立ちを宿した。  

 いにしえの神々が使った言の葉を、脆弱な存在が我が物のように操り、その力を行使する。月読命の顔に陰惨な笑みが生まれた。


「気に入らぬ……しかし、退屈よりは幾分と面白い」

 狂ったように蛍が乱舞し、桜を完全に覆い隠していく。

 熱がないはずの蛍の光に触れると雪のように冷たくなり、米田はチリチリとした強い痛みを与えた。


「~~~イッ! ッテェんだよ!!」

 しかし、米田は物ともせず凍える手を桜へと伸ばし続けた。

 青白い光は質量を持って先へ進むことを阻む。それでも米田は光の壁をこじ開けようと必死に爪を立てる。


 彼女が自分をどう思ってくれているのか、そんなことはわからなかった。だが、彼女の気持ちを確かめないまま、他の男に渡すことは嫌だと思った。


「俺のこと、好きになってよ!! だって桜は俺の妻なんでしょ!!」


 声に出し誓いをし、それを叶える。未来を縛る言霊を乗せ、米田は声を張り上げた。


「桜は渡さない! 桜は俺のお嫁さんなんだ!!」


 言霊で桜の魂に「米田雅彦の妻」と言う名を書き込んで、桜の未来を自分と共に歩む方向に縛り上げようとする。


「桜! 手を! 俺の手を取って!!」


 青白い蛍のあいだで桜は米田の必死な形相を見た。

 髪を乱し、汗を滴らせ、顔は痛みに歪み、痛々しいことこの上ない。


「もうやめて! そんなに苦しくて辛いのに……どうして、私なの……? 私じゃなくたっていいでしょ! 霊力以外取り柄のない……私は空っぽなのに!」

 霊力のある巫女としての存在価値は認められてきた。でも個人としての桜はいつも蔑ろにされる。

 巫女としての役割のためには「桜」など必要ない。桜としての個人の意思などない方がいいのだ。


 陰陽寮の存在を示す為、軍部に籍を置き、霊力は国家の資産として見倣され、それを奪われないために結婚という策を用いる。一方で神との縁を保つため、贄であることを求められた。神の花嫁に選ばれたことを寿ぐ者たちさえいたのだ。


 ――桜の人生において「桜」であることは望まれない。神に選ばれるほど高い霊力の巫女であること、それが桜のすべてなのだ。


 怯える桜に米田は声を上げる。


「桜は空っぽじゃない! 一生懸命だから。自分のありたい姿を目指してがんばってるから。だから俺も一緒にがんばりたいんだ。ありたい姿の桜に相応しい、そういう俺になりたいから!」


 米田は蛍の群れをこじ開け、桜に叫ぶ。


「桜も手を伸ばして! 俺からだけじゃ届かない!!」


 初めての「桜」を望む存在に、胸の中に暖かな火が灯る。

 米田の言葉に励まされ、勇気を振り絞りおずおずと手を伸ばす。


 すると月読命は後ろから桜を抱きしめ、耳元に甘やかな毒を垂らす。

「届いたところで、どうなるというのかえ?」

 月読命は愛しげに桜の頬を撫でさらに囁く。

「こちらの世界の者どもは其方を利用するだけじゃ。誰も無力な其方を愛してはくれぬ。其方はただの道具、不用になれば切り捨てられる」

 桜が恐れる暗闇を彼は月光で浮かび上がらせる。


「それ、役に立たぬ巫女など、あの者も見捨てよう」

 月読命は桜の頬を撫でた指先を米田に向ける。

 蛍たちは一斉に米田を取り巻き、小さな光の粒の輪になってその首を絞めつけた。


「~~~~グ、ゥッ」

 苦しくもがきながらも、それでも米田の目から光は消えはしない。

 その姿に、月読命の目に苛立ちの影が浮かんだ。

「しつこいのぉ……引き裂いてくれようか」


 桜に手を伸ばし続けている米田に大量の蛍が襲いかかった。

 米田の姿は光の渦に取り込まれ、桜に伸ばした手の指先しか見えなくなってしまう。


「いいのかえ? あの者の手を取れば、其方は庇護されるだけの世界には戻れぬぞ? そのままの其方を愛せるのは我だけじゃ……」

 桜の目に絶望が浮かびかけた瞬間、光の中から米田は大声で叫んだ。


「ああぁぁもぉォォォ!! ごちゃごちゃウルサイ! 俺はがんばってる桜もへなちょこな桜も両方好きなの! どっちかだけに限定する奴より、両方好きな俺のこと好きになれ!! 邪魔すんなァァァ!!」


「~~なっ!? へなちょこ!?」


 一瞬にして桜の頭に血が上る。 米田の暴言に桜は目を剥き、蛍たちを物ともせず必死に伸ばしている米田の手を強く握り引き寄せた。

 光の渦から飛び出した米田の胸元に桜は勢いよく飛びこむ。

 まるで全存在を預けるようにドシンとその身をぶつけた桜を、米田は取り落とすことなく強く抱きとめた。


「へなちょこって私のどこがへなちょこなんです? 撤回してください! あと何度も桜桜って呼び捨てにしないで! さんを付けろ、この駄犬がッ!!」


 へなちょこという言葉に桜はご機嫌を激しく損ねたらしく、プリプリ怒りながら、米田に文句をつけた。

「こんな時ぐらい、俺が守ってやるとか心配するなとか頼り甲斐のあること言ったらどうなんです! だいたいあなたは――」

「よかったぁ~」


 怒り心頭の桜を抱きしめ、光の渦から引き揚げられたボロボロの米田は情けなく笑った。

「これって、俺を選んでくれたんだよね? そう思っていいんだよね?」

「あ、その……」

 怒りとは違う種類の感情で頬を赤く染める桜を見て、ウヘヘともう一度笑うと、米田は月読命を睨んだ。


「桜さんはアンタじゃダメなんだって――消えろよ、俺はアンタを神様と認めないし、崇めてなんかやらない」

 大きな力で人を弄び、その苦しむ姿を「面白い」という。

 自分の弱さを知りながら、それでも強くあろうとする、桜の努力を笑う。それが許せなかった。

 米田は背に桜を庇い、ギリギリと月読命を睨めつけていた。



 圧倒的な存在を前にし、米田は怯むことなく立ち向かう。その背に守られ、桜もようやく自分の望みを取り戻していく。


 ――私は弱い。弱くてつまらない存在だ。でも、強くありたい。誰かの望みじゃなくて、私の希望としてみんなを守る。そういう強さが欲しい。


 桜は目の前にある米田の背に手を当てる。

 たくましく、頼り甲斐のある背中ではない。それでも温かく、優しいものを内包した柔らかな生命に溢れる背中。


 この背中を守りたい。――初めて生まれた誰かの望みではない、桜だけの願い。

桜は生まれたばかりの願いを強く祈った。


「私はここにいたい。私がいたい場所はここだから!」

 彼に触れる掌に願いを集め力にする。 桜はかつてないほどの霊力が高まり、掌に集まるのを感じた。


「私の力、全部預ける! 米田少尉、言霊の力で奴を否定しろ!」

「米田少尉、致します!」


 桜の掌から背中を伝い、彼女の温度を感じる。祈りにも似た温かな力を、米田は桜の気持ちとして受け止めた。


 ――必ず、守る。強さも弱さも全部、俺の大好きな君だから。


 桜のぬくもりに自分の思いを撚り合わせ、一つの強い音として喉を震わせた。

 自分の中の思いを乗せ、強く喉を震わせた。


「俺たちはお前の存在を必要としない! ――月読命、消えろ!」


 米田の声は月読命を強く拒否する。強く強く、神としての彼を否定した。

青白い光が力を失くす。弱まっていく光の中、月読命の輪郭が揺らぎだす。


「言の葉で……我の存在を消す、か……」


 白い直衣がボロボロと崩れ、次第に質量が失せていく。

 この世界に存在を否定された月読命の、その霊威が壊れていく。


「ハハハ、あなこれは面白や、愉快じゃ愉快じゃ」


 月読命は笑いながら溶けてゆく。そうして彼の痕跡はすべて消えた。

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