(6)

 なんとか二人が万葉堂まんようどうの玄関に辿り着くと、そこには小箱こばこが待ち構えていた。


「いま、何時だと思っておられる? 妙齢のおなごを連れ回すには、少々遅すぎではございませぬか……?」

 乱れた髪を一筋咥え、猫背で恨めしくこちらを睨む姿はそんじょそこらの幽霊が悲鳴を上げて逃げるような、鬼気迫るものがあった。


「ヒィッ!」

 怖くて飛び上がると、小箱はだらりと垂らした両手を米田よねだに差し向けてゆっくりと近づいてくる。


「あな、恨めし……恨めしや……」

 地を這うような小箱の低い声は情感たっぷりで、米田の肝が縮み上がる。本格的な悲鳴を上げる半歩手前で、さくらが小箱を遮った。


「小箱、米田少尉で遊ばない。それよりも……あの御方が現れたわ」

 桜の一言に小箱が顔色を変える。

「な……、しかし、今宵はまだ……」

「そのおかげなのか、こうしてここに戻ることができたわ。しかしあちらにとっては、その程度なんの支障もないということでしょうね」


 桜と小箱の暗い表情に、二人が話すことが先ほどの「白い直衣のうしの男」に関係することぐらい米田にもわかった。

 しかし、あまりにもピリピリとした二人の緊迫した空気に、一体どういったことなのかと尋ねることをためらってしまう。


「あ、俺……先に着替えてきます」


 すごすごとその場を逃げ出し、米田は階段を上がって自室のふすまを閉めた。

 一人きりになったことを確認してから、懐から時計を出し、はかりを呼ぶ。

 現れた小さな計は畳の上にちょこんと座り、米田を見上げている。


『あるじサマ、今日の夕餉ゆうげは豪勢でござりますレバ、桜様の言う〝衆荒しゅうあらくれもの〟と申す猛々たけだけしきモノ、計もご一緒に食べてみとうござりますユエ。お次もお供しますレバ』

「衆荒くれ者、じゃなくてシューアラクレーム、な。嫌だよ、そんな戦国武将みたいな名前のデザート」


 ニコニコする計の金の髪を撫で、米田は少し笑ってから真剣な表情になる。

「計、さっきの白い男、何者だ?」

 その問いに計は突然落ち着きをなくし、あたりを見回して怯えた顔になる。


『あるじサマ、あの御方と関わるのはダメでござりますレバ! 皆が申しております! あるじサマからコメやらムギやら出てきてしまうと! おそろし、おそろし!』


 意味のわからぬことを言いながら計は米田にしがみついた。

「米やら麦ってなんのことだ?」

 プルプルと震える計は怖がるばかりで、それ以上何も聞き出せない。

  米田は怯える計を宥めて時計に戻すと、ゴロリと寝転がり天井を見上げた。


 ――一体、何が起こってるんだ? 少佐たちは何に怯え、何を隠しているんだ?


 米田は天井板の木目を見つめ、この任務の違和感について思いを巡らせていた。



 その夜、米田の部屋の明かりが消えたのを確認してから桜はこっそりと自室に戻る。

 眠っているだろう米田が起きてしまわないように、静かに白い単衣ひとえに着替え、符の準備を整える。


 並べた人形の符に桜の身代わりとなるべく呪を書き付けていく。守り刀でもある短刀を取り出し白木の鞘から抜くと、奥歯を噛みしめてからきらめく刃で人差し指の先を少しだけ傷つけた。

 流れ出た赤い血を人形に押し当て印をし、桜はふっと息を吹きかけ仮初の魂を与えた。


「お前たち、どうか米田少尉を守り隠して」


 祈りにも似た命を唱えると、紙人形たちはカサカサと小さな音を立て部屋の外に飛び去っていった。

 式の結界や隠形の術が相手に対しどこまで通用するのか、正直わからなかった。

 こうして桜がもがくことすら、相手は見物して楽しんでいるのかもしれない。

 しかし、何もせず彼の為すがまま流れに身を委ねることもできない。


 桜は小さくため息をついて、机に灯したランプの光を見つめた。

 幼い頃より世のために身を尽くすことを教えられてきた。その教えがとおといものだとも理解している。

 世のために尽くすには、自分がこの世界に存在しなければならない。桜は現世に留まらなければならない。

 しかし、桜には世界に対する強い思いがない。命を懸けても守るべき大事なもの、そう教えられたからそう思っている。が、実感は乏しいままだ。


 ――これほどまでして、私はこの世界にしがみつかなければならないのかしら?


 いつも胸の奥にあるうずのような疑問が、またくすぶりだした。


 ――いっそ、連れ去られてしまえば、楽になれるのかもしれない。


 その時、ふっと米田の顔が脳裏に浮かんだ。桜と同じ孤独を抱えているはずなのに、彼の笑顔はいつも朗らかで温かい。


 ――どうしてあなたは、そうやって自然に笑えるの? あなたといたら、私も同じようになれるのかしら?


 桜は無意識のうちに米田との部屋を仕切る襖に手を当てていた。


「少佐、まだ起きておいでですか」


 向こうから米田の小さな声が聞こえた。

 桜はとっさに「草薙少佐」の顔を作り、ふすまから手を離す。


「米田少尉、何か?」


 感傷を押し隠し、上官としての冷静な声を出した。

 ゴソゴソと布団から起き上がり、膝を擦って彼が襖に近づいてくる音がする。だんだん明確になる米田の気配に、桜は息苦しいほど緊張した。


「今日の帰りに出会った白い直衣の男についてお聞きします。彼は一体何者ですか?」


 米田の問いに桜はびくりと震えてしまう。


「明らかに少佐を狙っていました。その理由を少佐はご存知ですか? 彼は……いや、あの存在は、この任務と何か関係があるのですか?」


 桜はぐっと両手を握りしめたまま俯き、襖から目を逸らした。どう答えればいいのか、何も頭に浮かばず黙っていることしかできない。

 しばらくのあいだ、沈黙が二人を支配する。ランプの芯が立てるわずかな音だけが聞こえる。


「……少佐」


 先に沈黙を破ったのは米田だった。


「いつか話せる時が来たら、俺にも聞かせてください。俺はその時まで待ってます。……だけど、一人で抱え込んだりしないでください。理由なんて知らなくたって、俺はあなたの部下です。あなたの命令には何があっても従います。だから……ちゃんと俺を使ってよ、桜さん。任務とはいえ、俺はあなたの夫でもあるんです」


 優しい米田の声に桜は泣いてしまいたかった。

 泣いて全部を打ち明けて。そうして、私を助けてと縋りついてしまいたい。


「米田少尉、襖に手を当てろ」


 桜の短い命令に、米田は返事もせずに従った。

 音を頼りに桜は襖越しに米田と手を重ね合わせる。米田の体温がわずかに伝わるような気がして、桜はそっと頬を寄せる。


「明日、全部終わったら……ちゃんと話します……だから、しばらくこのままで……」

「……はい、桜さん」


 襖を隔てて掌を重ねたまま、桜は唇を噛みしめた。そうしていないと、余計なことを言ってしまいそうだった。

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