(5)
さすがに今から
「すっかり遅くなってしまいましたね。どうしましょう、今から帰っても夕飯の支度をしていたら遅くなってしまいます。せっかく芝まで来たんですから、銀座に出て
「しゅーあらくれーむ! 私はしゅーあらくれーむが食べたい!」
「いや、そういうのじゃなくて……ビフテキとかカツレツとかコロッケとかの洋食の――」
「では、しゅーあらくれーむのある店に!」
二等車に乗りたいと言った時のように、桜は目を輝かせ
いくらハイカラな洋食屋といっても、本格的な洋菓子の置いてある店は少ない。帝国ホテルのような格の高いところに行かないと無理だろう。
期待に満ちた表情の桜をしばらく見つめ、米田は奇妙な声を漏らした。
「ンンンンンンンンン~~~~~ッ! ……シューアラクレームのある店、探してきます」
桜の可愛らしさに身悶えながら、米田は洋食屋の扉を開けては「シューアラクレーム、置いてありますか?」と聞いて回ることとなった。
結局、シューアラクレームは駄目だったので、プディングのある店に入った。
女給に案内され窓辺の席に座ると、桜は物珍しそうにキョロキョロと周囲を見回す。
「洋食店、初めてですか?」
「いや、家の者とはあるが……」
米田の手前、余裕ぶって微笑んではいたが、緊張で声が裏返ってしまう。
日も落ちたこんな時間帯に家族でもない男子と一緒に外食をするなど、「二人はただならぬ関係です」と宣伝するようなものだ。
心なしか周囲の視線が痛いような……。桜はメニューに目を落とすふりをして、米田を盗み見する。すると、こちらをじっと見ていた米田と目が合った。
「……さ、桜さんは、決まりましたか?」
そういえば私たちは「夫婦」だった。頬を染めながら桜の名を呼ぶ米田に、そんなことを改めて思い出し赤くなってしまう。
「あ、あの……それでは、このコロッケ、を」
「じゃあ、俺はポークカツレツ、で。――あ! あとプディングを二つ」
照れながらモゾモゾと注文する二人に、女給は生ぬるい笑顔を浮かべて応じた。
料理を待つあいだ、米田は昨日からの奇妙すぎる生活のあれこれと
昨日よりも桜はいろいろな表情を見せてくれるようになった。
ツンと澄ました少佐としての顔しか見せてくれなかったのに、時折十代の女の子らしい素が覗く。
――少しは親しくなれたってことなのかなぁ。任務とはいえ夫婦になったのも何かの縁なんだし、高嶺の花なんてことはわかってるけど……。もっと仲良くなりたいなぁ。
可愛らしい女子への男子としての下心は否定できなかったが、米田は草薙桜という人間にもっと近づきたいと思っていた。
ぼんやりと窓の外のガス燈を眺めていた桜の横顔を見る。すると、彼女は米田の視線に気づいたのか、気まずそうに俯いた。
「米田少尉はすごいな。誰とでも仲良く話せて。私はああいったことが苦手で、何を話したらいいのか、いつも困ってしまう」
話しかけるでもなく、独り言のような桜の言葉に米田はハハと笑い軽く答えた。
「少佐は色んなものいっぱい持ってるし、ちゃんとしてるからそう思うんですよ。俺は大したことないし、今さら馬鹿だって思われるの平気だから、知らない人ともどんどん話せちゃうんです」
「……私は、別に何も持ってはいない」
「え? 俺の目には草薙少佐はいろんなことに恵まれてると思いますが」
桜の暗い声に米田は首を傾げる。彼女のように才能にも美貌にも恵まれた女の子が、悲観するようなことがあるのだろうか?
米田の何気ない一言に、桜は自嘲気味に笑った。
「……そうだろうか? 私ができるのは見えないものに関わることぐらい。……料理や掃除もできない、人と接するのも不得意、そのうえ――」
そこで言葉を切ると、桜は黙り込んでしまう。
米田も黙り、顔を上げない桜をじっと見つめてみた。
自分よりも随分と小さく細い手に、彼女が少佐という立派な肩書きを持ちながらも、まだ十八の少女であったことを改めて意識する。
――時々すごく悲しい顔するけど……今もそんな顔してるのかな。なるべくなら笑っていてほしいけど。
俯いている彼女の旋毛が妙に愛らしく、米田は自然と笑っていた。
「もし草薙少佐が料理や掃除が得意だったら、俺はこの任務でのやることも居場所もなくって辛いです。少佐が人と接するのが上手なら、いらない嫉妬をしてしまいそうです。だから、俺にとって少佐のそういうところは、嬉しい誤算ってやつです」
力強く言い切った米田に思わず桜が顔を上げる。
「……変な奴だな」
自分の顔を見て微笑む米田に桜は憎まれ口を叩き、耳まで赤くしてまた俯いてしまうのだった。
「ぷでぃんぐとやらも、なかなかどうして……」
「俺も初めて食べましたが、甘い茶碗蒸しみたいで美味しかったですね」
デザートのプディングに大満足な二人は、帰路につく。
明日は朔月ということもあり夜空に月の姿はなく、光を放つのはガス燈のみ。夜道を照らす人工の光を頼りに、米田と桜は自宅までの夜の散歩を楽しんでいた。
ふと、冷たい風が桜の頬を撫でた。その瞬間、総毛立つような恐怖を感じ、思わず腕にしがみつく。
「~~ッえぇ!?」
突然の桜の接触に米田が奇妙な声を上げると、彼の懐の中からキンキンと懐中時計の時打ちの鐘が鳴り、騒ぎたて始める。
呼んでもいないのに
『あるじサマ、あるじサマ! 逃げるユエ!
「え? 何? なんなの?」
米田は動転しながらも咄嗟に桜を背に庇い、あたりを窺った。
計が通せんぼをするその先に目を凝らすと、夜にもかかわらず風景が
「騒がしいのぉ、……去ね」
恐ろしく美しい男の声が夜闇の中に静かに響く。その声と同時に計の姿と声が掻き消え、うるさく鳴っていた時打ちの鐘も停止した。
「計!? どうしたんだ!」
懐から懐中時計を取り出すと、さっきまで動いていた時計は針を止め、沈黙している。米田は
「い、や……来ないで」
いつもは凜と強気で涼しげな桜が、まるでか弱い小動物のようにカタカタと震え米田の背にしがみついている。
何が起こっているんだ? 米田は混乱しながらも懐中時計を握りしめ、桜を背にジリジリと後退する。
空気は温度を下げ、静謐な気があたりを満たしていく。震えるほどの神聖な気が――
「……また隠れ鬼で遊ぶのかえ?」
米田たちの前に音もなく青白い
ゆらり――空気が震えるとそこには何かが立っていた。
それは、白い
神々しい何かの化身は、金色に輝く目を二人に向ける。
「――――ッ!」
ただ視線を向けられただけではあったが、恐ろしい圧を感じ息も吸えず膝が折れそうだ。
米田は酸欠で霞む意識の中、必死に桜を守ろうと両手を広げ背中にを隠す。
目の前の事態がなんなのかまったく把握できないが、それが桜を怯えさせる敵であるということだけはわかった。
「こちらにおいで」
ひどく優しい声でそれが手招きすると、震え続けていた桜は米田の背から離れ、フラリと招き寄せられる。
人形のように生気のない表情の桜は、米田の隣をすり抜け、ヨロヨロとそれに歩み寄っていく。
白い直衣の男は満足げに桜へと微笑みかけた。
「良い子じゃ」
意思などなくしてしまったかのような彼女の動きに、米田はわけもわからない激しい憤りを感じた。
人間をこんなふうに扱うことはひどいことだ。自由であるはずの彼女の意思を折り曲げ、彼女たらしめる大事なものを消し去って、それを笑っている目の前の存在を許すことができない。
憎悪にも似た怒りが米田を支配した。
「行くな! 桜ッ!!」
硬直を打ち破り、腹の底から叫び、手を伸ばす。無我夢中で桜を後ろから抱きしめると、彼女の躰はビクリと跳ねた。
「……少尉」
弱々しい桜の声からは、ちゃんと彼女の意思が感じられていた。
二人のささやかな抵抗に、白い直衣の男はゆっくりと口の端を上げ、下弦の月を形作る。
「……そなたはほんに我を退屈させぬ」
そう囁くと男の輪郭は揺らぎ、そのまま闇の中に溶けていった。
あたりを覆っていた静謐は掻き消え、生ぬるい風と共に雑多な空気が戻る。
それでも米田は安心できず、腕に捕らえた桜の存在を確かめるように力を込めた。
「……く、るしい」
桜が米田の胸の中で呻きながらもがく。
「すすすすすすみません!!」
米田が慌てて彼女を解放すると、桜は米田の腕から跳ねるように飛び出し、振り向き真っ赤な顔で叫んだ。
「うら若き乙女に何をする! 恥を知れ!! それと、ちゃんと『さん』を付けろと言っているんだ! この、駄犬めッ!」
生気を取り戻した桜の元気のいい叫びに、米田は安堵して力なく笑う。
「何をニヤついている!?
「ごめんなさい! ごめんなさい! 不可抗力です!」
キャンキャンと騒ぐ桜に謝っていると、いつの間にか米田の足元に計が蹲っていた。
急いで抱き上げると、計はすいよすいよとのんきな寝息を漏らし眠っている。
『主様ぁ……今の時刻は、午後七時四十六分三十八秒でございますレバ……』
「まったく……何言ってるんだよぉ」
ウトウトと寝言で時を告げる計に米田は心底ほっとして、しばらくその場に座り込んでいた。
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