三
(1)
爽やかな朝、味噌汁の香りとトントンとまな板を叩く軽快な包丁の音。
「美味しくできたかなぁ」
白の割烹着に頭には姉さん被りの手ぬぐい。
「
「つまり、本日の予定は黒岩氏宅訪問、ということでよろしいですか? あ、だし巻き卵、甘めにしときましたが大丈夫ですか」
米田は頷きながらぬか漬けの皿を出し、桜の湯呑みにお茶を注ぐ。
「小僧、なんだこのぬか漬けの適当な盛り付け方は? 人参の赤が藍の染付に映えるようにもっと美しく並べぬか! それにだし巻き卵を青織部とは……そこは黒釉の皿に盛るのだ! まったく、わかっておらぬ!!」
小箱は器や料理の盛りつけに一通り文句をつけると、桜の隣に座る。
「これ、小箱。米田少尉を困らせるものではありません」
「申し訳ありませぬ、
炊きたてのご飯を食べていた桜が叱ると、とてもいい返事をした後も小箱は米田を睨んでいた。
姑の嫁いびりかよ……。米田は肩をすくめ、席に着くと手を合わせ朝食を食べ始める。
味噌汁を飲んで、チラリと桜の様子を確認する。美味しそうにだし巻き卵を食べる桜を見て、米田は安心してほっと息をついた。
昨夜、襖越しに聞いた桜の声は不安に揺れていた。直接見ることはできなかったが、きっとひどく怯えた悲しい顔をしていたのだろう。
品よく朝食を食べる今朝の桜からはそんな気配はまったくない。うまく不安を隠しているだけなのかもしれないけれども……。
――とりあえず、元気にご飯が食べられるならまだ大丈夫。少佐の言うように、全部終わるのを待ってみよう。
心配がないわけではないが……。
大丈夫と自分に言い聞かせ、桜好みに焼けただし巻き卵を頬張った。
二人が出かける時、小箱は玄関先でスーツ姿の米田を睨みつけていた。
「小僧、今日は陽のあるうちに戻るのだぞ……昨日のように調子に乗った時間に帰ってきてみよ……
何それ怖い。米田が引きつった笑みを浮かべると、小箱は桜に駆け寄った。
「主様ぁ~、留守番ばかりでは小箱は寂しゅうて、このままでは白露のようにはかなく消えてしまいまする。小箱を哀れに思うなら早う帰ってきてくだされぇ」
「今日はそれほど遅くはならないと思うから。小箱、いつも留守を任せてごめんなさい。礼を言いますよ」
「あなや! 礼など、滅相もございません! 小箱は果報者にございますぅ~」
甘えた声で桜にまとわりつきながらも、小箱は恐ろしい目つきで米田をじっとりと睨んだままだった。
もう怖いからこっち見ないで。米田は小箱の視線を避けるように顔を背け、逃げるように表へと出ていった。
「早く行きましょうよ~」
情けなく声をかける米田に桜は少しだけ笑った。
「それでは参る」
桜はいつもどおり
「俺たち、ちゃんと夫婦に見えてますかねぇ?」
米田が何気なくつぶやくと、みるみる桜の顔が真っ赤になった。
「私の偽装は完璧なはずだ!」
桜はそう言うと、米田の腕にぎゅっとしがみつく。
「どこから見ても夫婦に見えるはず!」
もしかして、腕を組んでるつもり? そうとも聞けず、かといって間違いを指摘して直すには惜しい距離なので、米田はあえて何も言わなかった。
「少佐の妻の偽装……完璧だと思います!」
幸せを噛み締めながら米田は答える。確かに傍から見ると二人は完璧な、浮かれた新婚さんだった。
通商を
「貿易商って儲かるんですねぇ……こんなお屋敷を一代で建てちゃうんだから、相当ですよね……」
なんとも俗で実に正直な米田の感想に、桜は呆れたと言わんばかりの表情になり、軽く睨んだ。
「言っておくが、我々の調査目的は彼の所得ではないからな」
「……申し訳ありません」
苦笑いでネクタイを直し、米田は改めて洋館を見上げてから家人を呼び出した。
「
紹介状を渡すと相手は鏡という言葉に顔を少し強張らせた。
確認するので少々お待ちください。そう言って屋敷の奥に引っ込んだ使用人は、ほどなく戻ってきた。
「どうぞ……旦那様がお目にかかります」
陰気なほど物静かな家人に応接室へと案内される。
室内は豪奢に彩られ、立派な暖炉のマントルピースには西洋アンティークの磁器人形が並び、黒岩氏の成功を余すことなく語っていた。
「こんなに立派な調度がたくさんあるのに……なんか、この部屋、変に静かですね……」
深緑のベルベットが張られたロココ調のソファーに居心地悪そうに座る米田は小さな声でつぶやく。
「……確かに、奇妙な空気だな」
桜もあたりを見渡し、
そこかしこに飾られる骨董や絵画はどれも真作で、付喪神というべき存在が宿っているものも多い。
しかしなぜかそれらは怯えるように息を潜め、異様な静けさを醸し出していた。
「直接聞いてみるか」
桜は暖炉に歩み寄り、マントルピースの上で微笑む
「こんにちは、お嬢さん。お友達とご一緒なのに、お静かですね」
葡萄を持った少女は黙し、その隣の花かごを持った少女が代わりに答えた。
『ヤメテ! その子は前の持ち主のおうちに帰りたくて、毎日泣いてるの。そっとしておいて。アタシだって、帰りたいの。こんな悲しいおうち、もうイヤ』
それだけ言うと、花かごの少女も黙ってしまった。
「悲しい、おうち?」
桜は首を傾げた。手入れの行き届いたこの屋敷にありながら、陶人形が「悲しいおうち」と評するほどの何かが、この屋敷にはあるのだろうか?
「やぁ、お待たせして申し訳ない」
桜がマントルピースの前で考え込んでいると、黒岩氏が先ほどの家人を従えて入室してきた。
貿易で成功した成金、と勝手に恰幅のいい中年男性を想像していたが、実際の黒岩氏は顔色が悪く頬がこけ、陰鬱な雰囲気をした四十代後半の紳士だった。
彼は暖炉の前に佇む桜に目を向けた。目が合った桜は優雅に会釈する。
「ケンドラーモデルのガーディナーシリーズ、これほど揃ったものは初めて拝見しました。素晴らしいですわね」
桜がマイセンフィギュアのコレクションを褒めると、黒岩氏はわずかに微笑んだ。
「ケンドラーをご存知とは……まだ日本でも知る人は少ないと思っていたが、うら若きお嬢さんなのになかなかお目が高い」
「いえ、私も骨董商ですので……」
桜はそう言って笑い米田に目配せをする。米田は慌てて立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「突然お訪ねして申し訳ありません。私どもは神田に万葉堂の名で店を構える骨董商の米田と申します。こちらは妻の桜、目利きもしております。芝の冥加屋さんから黒岩様の古鏡のお話を聞き、ぜひ拝見させていただきたく伺いました」
米田がピシリと背筋を伸ばし口上を述べると、黒岩氏は苦く笑う。
「ならば、顛末もご存知でしょう……それでも興味があると?」
黒岩氏は
これが一代で財を成し、立派な洋館まで手に入れた男のものなのだろうか? 米田は黒岩に疑問を感じていた。
「は、はい、もちろんそちらも承知です」
「それならばいい。――末吉、物置から例の古鏡を取ってこい」
黒岩はあっさり頷き、家人はその命に青ざめながらも「かしこまりました」と返事をし退室した。
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