(1)

 爽やかな朝、味噌汁の香りとトントンとまな板を叩く軽快な包丁の音。


「美味しくできたかなぁ」

 白の割烹着に頭には姉さん被りの手ぬぐい。米田よねだはとてもいい笑顔で茶碗にご飯をよそっていた。


冥加屋みょうがやのご隠居に紹介状と、口利きまでしていただいた。この機運に乗り、本日は黒岩くろいわ氏の自宅を訪ね、情報収集及び器物の見極めを行う。場合によっては買い取りという形で器物の徴収も実施する。活動資金は軍から支給されているが、経費節減を意識し、適正価格での取引が望ましい。米田少尉も心がけるように。――今朝の味噌汁は小松菜と油揚げか」

 さくらはそう言ってから米田の作った味噌汁をすする。


「つまり、本日の予定は黒岩氏宅訪問、ということでよろしいですか? あ、だし巻き卵、甘めにしときましたが大丈夫ですか」

 米田は頷きながらぬか漬けの皿を出し、桜の湯呑みにお茶を注ぐ。


「小僧、なんだこのぬか漬けの適当な盛り付け方は? 人参の赤が藍の染付に映えるようにもっと美しく並べぬか! それにだし巻き卵を青織部とは……そこは黒釉の皿に盛るのだ! まったく、わかっておらぬ!!」

 小箱は器や料理の盛りつけに一通り文句をつけると、桜の隣に座る。


「これ、小箱。米田少尉を困らせるものではありません」

「申し訳ありませぬ、ぬし様ぁ。――すまんな、小僧」

 炊きたてのご飯を食べていた桜が叱ると、とてもいい返事をした後も小箱は米田を睨んでいた。

 姑の嫁いびりかよ……。米田は肩をすくめ、席に着くと手を合わせ朝食を食べ始める。

 味噌汁を飲んで、チラリと桜の様子を確認する。美味しそうにだし巻き卵を食べる桜を見て、米田は安心してほっと息をついた。


 昨夜、襖越しに聞いた桜の声は不安に揺れていた。直接見ることはできなかったが、きっとひどく怯えた悲しい顔をしていたのだろう。

 品よく朝食を食べる今朝の桜からはそんな気配はまったくない。うまく不安を隠しているだけなのかもしれないけれども……。


 ――とりあえず、元気にご飯が食べられるならまだ大丈夫。少佐の言うように、全部終わるのを待ってみよう。


 心配がないわけではないが……。

 大丈夫と自分に言い聞かせ、桜好みに焼けただし巻き卵を頬張った。



 二人が出かける時、小箱は玄関先でスーツ姿の米田を睨みつけていた。

「小僧、今日は陽のあるうちに戻るのだぞ……昨日のように調子に乗った時間に帰ってきてみよ……煩悩ぼんのうを祓うありがたい経を消せぬ墨で貴様の顔にみっしり書き込んでやるぞ……」

 何それ怖い。米田が引きつった笑みを浮かべると、小箱は桜に駆け寄った。


「主様ぁ~、留守番ばかりでは小箱は寂しゅうて、このままでは白露のようにはかなく消えてしまいまする。小箱を哀れに思うなら早う帰ってきてくだされぇ」

「今日はそれほど遅くはならないと思うから。小箱、いつも留守を任せてごめんなさい。礼を言いますよ」

「あなや! 礼など、滅相もございません! 小箱は果報者にございますぅ~」

 甘えた声で桜にまとわりつきながらも、小箱は恐ろしい目つきで米田をじっとりと睨んだままだった。

 もう怖いからこっち見ないで。米田は小箱の視線を避けるように顔を背け、逃げるように表へと出ていった。


「早く行きましょうよ~」

 情けなく声をかける米田に桜は少しだけ笑った。

「それでは参る」

 桜はいつもどおりりんとしている。米田はその隣で背筋を伸ばして歩いていく。


「俺たち、ちゃんと夫婦に見えてますかねぇ?」

 米田が何気なくつぶやくと、みるみる桜の顔が真っ赤になった。

「私の偽装は完璧なはずだ!」

 桜はそう言うと、米田の腕にぎゅっとしがみつく。

「どこから見ても夫婦に見えるはず!」


 もしかして、腕を組んでるつもり? そうとも聞けず、かといって間違いを指摘して直すには惜しい距離なので、米田はあえて何も言わなかった。


「少佐の妻の偽装……完璧だと思います!」

 幸せを噛み締めながら米田は答える。確かに傍から見ると二人は完璧な、浮かれた新婚さんだった。



 冥加屋みょうがやのご隠居から貰った書き付けをふところに、桜と米田は古鏡の持ち主が住む麹町こうじまちへと向かう。


 通商をいとなみ古鏡の持ち主でもある黒岩善次郎ぜんじろうという人物は大変な成功を収めているようだ。彼の自宅である新しめの煉瓦れんが造りの立派な洋館に、米田は「ほぉ~」と気の抜けたため息が漏らした。


「貿易商って儲かるんですねぇ……こんなお屋敷を一代で建てちゃうんだから、相当ですよね……」

 なんとも俗で実に正直な米田の感想に、桜は呆れたと言わんばかりの表情になり、軽く睨んだ。

「言っておくが、我々の調査目的は彼の所得ではないからな」

「……申し訳ありません」

 苦笑いでネクタイを直し、米田は改めて洋館を見上げてから家人を呼び出した。


しばの冥加屋文右衛門ぶんえもん様からご紹介いただきました、神田かんだで骨董商を営む米田と申します。黒岩様がお持ちの古鏡に大変興味がありまして……。ぜひ、ご主人にお取り次ぎ願いたいのですが」


 紹介状を渡すと相手は鏡という言葉に顔を少し強張らせた。

 確認するので少々お待ちください。そう言って屋敷の奥に引っ込んだ使用人は、ほどなく戻ってきた。

「どうぞ……旦那様がお目にかかります」

 陰気なほど物静かな家人に応接室へと案内される。


 室内は豪奢に彩られ、立派な暖炉のマントルピースには西洋アンティークの磁器人形が並び、黒岩氏の成功を余すことなく語っていた。

「こんなに立派な調度がたくさんあるのに……なんか、この部屋、変に静かですね……」

 深緑のベルベットが張られたロココ調のソファーに居心地悪そうに座る米田は小さな声でつぶやく。

「……確かに、奇妙な空気だな」

 桜もあたりを見渡し、付喪神つくもがみたちの気配を探った。


 そこかしこに飾られる骨董や絵画はどれも真作で、付喪神というべき存在が宿っているものも多い。

 しかしなぜかそれらは怯えるように息を潜め、異様な静けさを醸し出していた。

「直接聞いてみるか」

 桜は暖炉に歩み寄り、マントルピースの上で微笑む葡萄ぶどうを持った少女の人形に話しかけてみる。


「こんにちは、お嬢さん。お友達とご一緒なのに、お静かですね」

 葡萄を持った少女は黙し、その隣の花かごを持った少女が代わりに答えた。

『ヤメテ! その子は前の持ち主のおうちに帰りたくて、毎日泣いてるの。そっとしておいて。アタシだって、帰りたいの。こんな悲しいおうち、もうイヤ』

 それだけ言うと、花かごの少女も黙ってしまった。

「悲しい、おうち?」

 桜は首を傾げた。手入れの行き届いたこの屋敷にありながら、陶人形が「悲しいおうち」と評するほどの何かが、この屋敷にはあるのだろうか?


「やぁ、お待たせして申し訳ない」

 桜がマントルピースの前で考え込んでいると、黒岩氏が先ほどの家人を従えて入室してきた。


 貿易で成功した成金、と勝手に恰幅のいい中年男性を想像していたが、実際の黒岩氏は顔色が悪く頬がこけ、陰鬱な雰囲気をした四十代後半の紳士だった。

 彼は暖炉の前に佇む桜に目を向けた。目が合った桜は優雅に会釈する。


「ケンドラーモデルのガーディナーシリーズ、これほど揃ったものは初めて拝見しました。素晴らしいですわね」

 桜がマイセンフィギュアのコレクションを褒めると、黒岩氏はわずかに微笑んだ。

「ケンドラーをご存知とは……まだ日本でも知る人は少ないと思っていたが、うら若きお嬢さんなのになかなかお目が高い」

「いえ、私も骨董商ですので……」


 桜はそう言って笑い米田に目配せをする。米田は慌てて立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。

「突然お訪ねして申し訳ありません。私どもは神田に万葉堂の名で店を構える骨董商の米田と申します。こちらは妻の桜、目利きもしております。芝の冥加屋さんから黒岩様の古鏡のお話を聞き、ぜひ拝見させていただきたく伺いました」

 米田がピシリと背筋を伸ばし口上を述べると、黒岩氏は苦く笑う。

「ならば、顛末もご存知でしょう……それでも興味があると?」

 黒岩氏はくらい目で米田を一瞥いちべつした。とても疲れたひどく寂しい目だった。


 これが一代で財を成し、立派な洋館まで手に入れた男のものなのだろうか? 米田は黒岩に疑問を感じていた。

「は、はい、もちろんそちらも承知です」

「それならばいい。――末吉、物置から例の古鏡を取ってこい」


 黒岩はあっさり頷き、家人はその命に青ざめながらも「かしこまりました」と返事をし退室した。

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