(2)
布にくるまれたものを持ってきた家人は、その中身がよほど嫌いなのだろう。
「旦那さま、こちらにございます」
そう言うとサッとテーブルの上に置き、部屋の一番隅にまで逃げてしまう。怯える姿に
「末吉、ここはもういいから仕事に戻れ」
黒岩氏の言葉を聞くと家人はあからさまにホッとした顔をして、挨拶もそこそこに部屋から出ていった。
「いろいろあってね……この古鏡は屋敷の者たちにえらく嫌われているようだ」
黒岩氏は独り言のようにつぶやくと厳重に巻かれていた布を解き、中身を取り出した。
鏡の背には緑青の錆が浮き、しかし葡萄の蔦が絡む文様の美しさは損なわれていない。
「手に取ってもよろしいですか?」
「ああ、構わないよ」
「それでは……失礼します」
桜の申し出に黒岩氏はやや投げやりに答える。白い手袋をはめ慎重に古鏡を扱う桜を眺め、彼は自嘲気味な笑い声を漏らしソファーに深く座り直した。
「そんなに丁寧にしなくてもいいさ。海に投げ捨てても勝手に帰ってくるくらい頑丈なんだ。君が手荒に扱ったところで
古鏡を大事にしないその言葉に桜の眉がぴくりと動く。
なんとなく桜の怒りを察した米田は慌てて強引に話を逸らした。
「あ、え~っと、それにしても立派なお屋敷ですね! 羨ましいな~! 黒岩様は欧州との貿易で成功されたと伺いましたが……すごいなぁ~!」
米田のよいしょに黒岩氏は皮肉な笑みを浮かべたが、大人の対応として付き合ってくれる。
「私の家は代々幕臣として通詞(通訳)をしていてね。私も父の跡を継ぐべく蘭語や英語を学んでいたんだが、倒幕だのなんだので結局私の家は取り潰されてしまった。かといって新政府の役人にも潜り込めず、仕方なく培った語学を使って貿易の仕事を始めたのさ……今となってはそれでよかったのかもしれないが」
「それでは、黒岩様は長崎の出で?」
「あぁ。出島役人の
「長崎は異国情緒溢れる美しい街だと聞きます。一度は行ってみたいなぁ」
米田が長崎を褒めると、黒岩氏の顔は苦しく歪んだ。
「あの街が私にとって美しかったことなんて一度もないよ。……長崎から抜け出せて、清々してるくらいだ」
自分の故郷に恨みでもあるのか彼は憎々しげに吐き捨てると、また自嘲する。
「私は過去を美しく懐かしめるような、そんな思い出を持てなかった実につまらない人間でね……せっかく気を使って長崎を褒めてくれたのに、申し訳ない」
「あ……いえ……」
黒岩氏の苦々しい口調にさすがの米田も返事に詰まり、気まずく目を泳がせた。
そんな米田の苦戦を横に桜は真剣な顔で鑑定を続けている。
文様の様式や古びの具合から、冥加屋のご隠居の見たとおり江戸初期の作、状態もいい。しかし、鏡面は曇りきって光を反射せず、まったく像を結ぶことができない。
これは光沢面保護のためガラスの裏面に金属を蒸着させたまだ裏面鏡と違い、金属面を磨いて光を前に反射させる表面鏡の持つ宿命ともいう弱点だ。
鏡面である金属面は磨き手入れを続けないとすぐに酸化し曇ってしまう。
この銅鏡は鏡として長く使われていない。そのため道具としての機能を失っているのだ。
桜は古鏡から顔を上げ、黒岩氏に向き直る。
「この銅鏡はおそらく江戸初期の作、嫁入り道具の
桜の問いに黒岩氏は首を横に振る。
「そのような大したものではない。二十年ほど前、当時の住まいに小包で届いたものだ」
「失礼ですが、前の所有者とは、どのようなご関係ですか?」
「……あぁ、古い……知り合いだ」
少しだけ言葉を濁し答えると、黒岩氏は桜の手元の銅鏡をじっと見つめてから、不意に目を逸らした。
「……その間、今回のような『幽霊騒ぎ』は起きなかったのですか?」
「ああ、起きていない。といっても、私も仕事で海外を行ったり来たりしていて、その古鏡は当時住んでいた家に置きっぱなしだったからね。……ようやく事業も軌道に乗り、日本に腰を落ち着けて三年前に屋敷を建てしばらくしたら、この幽霊騒ぎだ」
「……それで、この古鏡を売り払おう、と」
「そういうことだ」
古鏡のしっかりとした来歴まではわからなかったが、幽霊騒ぎが始まった時期は特定できた。桜は別の疑問を投げてみることにした。
「もう一つ、お聞きします。――なぜ、屋敷に戻ってきた古鏡を手元に置いて、
すると黒岩氏の表情がわずかに曇る。
「私はその幽霊を一度も見ていない、だからそんなもの信じてはいないが……あえて言うならば……罪悪感、かな?」
黒岩氏はそれ以上は語らず、黙り込んでしまった。
桜は曇った鏡面にそっと触れ、古鏡に宿る気配を探った。
『どなたか、いらっしゃいませんか?』
桜は口の中だけで呟き、問いかける。しかし古鏡はなんの反応も見せず、沈黙したままだった。
二百年以上の時を経た器物で、しかも幽霊騒ぎを起こすほどの古鏡。なんらかの力を持っているはずなのに、古鏡からは付喪神の放つ独特の気を感知できない。
――付喪神が憑いていないとしても……どうしてこの鏡はこんなにも静かなのかしら?
桜は疑問を感じ、鏡面を覗き込む。
仮に幽霊騒ぎがなんらかの勘違いだとして古鏡に何も憑いていなかったとしても、これほど周囲の人間に「幽霊憑きの古鏡」と畏れられれば、自然と何らかの力を帯びてしまうはず。
――こんなにも何もないのは……逆に不自然だわ。
桜が影しか映らない鏡面を見つめていると、黒岩氏との会話に息苦しさを感じていた米田も隣から鏡を覗き込んだ。
「あれ? 俺の顔、全然映らないな。目鼻が失くなっちまったかな?」
米田が冗談めかして言った瞬間、古鏡がわずかに反応した。
『……ど……して……の』
幽かなさざ波が鏡面を震わせる。
桜は慌てて気配を追ったが、揺らぎはすぐに消え、古鏡はまた沈黙に戻るのだった。
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