(2)
「近所の八百屋さんに行ってきます」
掃除を手早く済ませると、
一方、
軍の命令と桜の事情で夫となった米田のために、妻らしく身の回りの世話を! と意気込んではみたものの……。
「これほど何もできないなんて……自分でも呆れてしまいます」
「何を
小箱の励ましにも桜は暗い顔のままだった。
女子教育の基本理念は良き妻賢き母である。
いくらリベラルな女学校であっても、女子の当然の
だが、
天文のための高等数学ができても、美味しい味噌汁は作れない。過去の暦を読み解くため漢文に通じても、廊下を綺麗に磨くことはできない。退魔の符が書けても、愛する夫の浴衣を仕立てることはできそうにない。
女子として当たり前のことを、桜は何一つ上手くできないのだ。
料理も掃除も張り切った割には大失敗し、米田の作った雑炊が美味しかっただけに、余計落ち込んでしょう。
「米田少尉はあんなに手早くできたというのに……。私の作った味噌汁、なぜ糸を引いたのかしら……」
桜の料理の過程を見守っていた小箱は、料理の出来についてあえて言及をしなかった。
「あ、あの小僧も家事がしたいと申していたではありませんか。小僧も厨番ができ、喜んでおるはず……」
「……そう、だといいのだけれど」
桜はうなだれたまま木箱を開け、中の茶碗を取り出して箱書きの特徴と違いがないかを確認した。
――骨董の年代や真贋の鑑定。そんなことが得意な女子よりも、美味しいご飯を作れる女子のほうがいいに決まっているわ。
知識ばかりで何もできない自分が、ひどくみすぼらしく思えた。
張子の虎のように、地位と見てくればかりが立派。それが桜自身の自己評価である。
こうして自分が偏っていることを再認識すると、その歪さが嫌になってしまう。
――せめて、普通の女の子みたいに可愛らしく振る舞えたら……
「この結婚の秘密を知られたら、私の身勝手さを怒るのかしら、笑うのかしら」
桜の憂鬱なつぶやきに、小箱は悲しげに微笑み何も言わず彼女の頭を撫でた。
米田は昼近くに帰ってくると、私物だという白の
「通りに出るところの茶漬屋のおばさんが、売り物のかき揚げをくれたんですよ。あと筋向いの奥さんに胡瓜のぬか漬けと一緒に糠床を少し分けていただいて。八百屋さんで人参をおまけしてもらったんで、さっそくやってみますね」
買い物かごいっぱいの細々とした食品と、風呂敷に包まれた葱と醤油の一升瓶。
八百屋に行っただけとは思えぬ大量の荷物に、桜は目を丸くした。
「一体、どこに行っていたのだ?」
桜の問いに米田はにこりと笑った。
「まずは蕎麦買ってご近所に引っ越しの挨拶回りを。仲良くしてくださいってお願いしたらいろいろいただいちゃって……。ついでに、万葉堂の宣伝もしてきました。珍しいものがあったらぜひお持ちくださいって」
米田の腰の軽さに驚いていると、彼は少し硬い表情になった。
「で、八百屋さんで立ち話をしてる時に怪談じみた奇妙な噂を聞いたんですよ――何度捨てても必ず戻ってくる古鏡、って話なんですが……」
「必ず戻ってくる、古鏡? ――続けてくれ」
桜は米田の話に興味を示すと、上がり
「とある成功した実業家がいるそうなんですが、なんでもその家の主人が呪われた鏡を持っているそうで。たいそう立派な細工の古めかしい鏡で、そいつがどこの骨董屋に売り払おうと、必ず主人の手元に戻ってくると。一回目は何かの手違い、二回目は奇妙な偶然。でも三回も続けば、さすがにおかしい。気味が悪くなった主人はゴミとして鏡を処分しました。しかし――」
米田はそこで間を溜め、不気味な表情をした。
「翌日には傷一つない状態で、枕元に戻ってきていたそうです……」
葱を両手で握ったまま、米田はおどろおどろしい話を締めくくった。
桜は少し考え込むと、ふむと頷いた。
「……確かに奇妙な話だな」
「ですよね。まぁ、『町外れの辻で狐に化かされた』みたいな
米田が軽く笑い飛ばして葱を置くと、桜はますます考え込んだ。
「いや……そういうことではなく。なぜその実業家は古鏡を売り払おうとしたんだろうな。そもそも古鏡はいつから実業家の手元にあって、どういった経緯で処分という決断を下したのか。実業の資金繰りの問題か、それとももっと別な何かか……」
そう言ったきり桜はじっと黙り唇に指を当て、考え込んでいる。
考え込んでる顔も可愛い……。米田は桜の人形めいた美しい横顔を頬を染めうっとりと眺めていた。すると、
「小僧、遊んでおらんと主様の昼餉を早う用意せい」
いつの間にやら隣に立っていた小箱が、恐ろしい形相で米田を睨んだ。
「~~ヒィッ! はい、ただいま……」
いそいそと荷物を片付け、米田は昼食の準備に取りかかった。
おすそ分けでいただいたかき揚げと、余った引っ越し蕎麦を茹でて並べる。
「……古鏡、気になるな」
桜はポツリと呟き、小さな口で蕎麦を啜った。
「はへ? さっきの話ですか?」
米田はのんきにかき揚げをかじり、首を傾げる。
「あぁ、件の鏡とやらを見てみたい。店の整理は後回しだ。午後からはこの地域の状況確認を含め、古鏡の調査もしよう。米田少尉も同伴するように」
まだ整理のつかない店先では開店することもままならず、といっても骨董屋は客が押し寄せるような商売でもない。
――随行での界隈の状況確認ってことは、少佐と夫婦として一緒に街をぶらつくってことだよな……それって、もしかしてデ、デェトというやつでは……!
上官の命令に疑問をはさむわけもなく、米田は勢いよく頷いた。
「はい、米田少尉、地域の状況確認及び古鏡の調査をいたします」
見えない尻尾をブンブン振り回し、残りの蕎麦を急いで食べた。
米田はまず最初に饅頭屋に行き、いくつか包んでもらった。
「何をしているのだ?」
書生のような袴姿の米田はカバンに饅頭の包みを入れると、笑いながら答えた。
「え? 古鏡のこと聞いて回るんでしょ? いきなり知らない人が『鏡のこと教えてくれ』って言ったって答えてくれる人あんまりいないじゃないですか。引っ越しの挨拶に来た、って話のきっかけ作りましょうよ。――しかし、これって、経費で落ちるのかな……」
「な、なるほどな……」
桜が米田の交渉能力の高さに感心していると、彼はちょっと頬を赤らめて注文をつけた。
「あのずっと気になってたのですが、自分たち一応『新婚夫婦』って設定なんで、お互いの呼び方もそうしたほうが……あとですね、少佐の口調も……それらしく……」
もごもごと照れる米田に、桜の頬も自然と赤くなる。
「そ、そうだな……いや、そうですね……だ、旦那さま」
旦那さま、の呼称の思った以上の破壊力に米田の耳は真っ赤に染まり、掌に大量の汗が滲み始める。米田は袴で拭ってから、桜に手を差し出した。
「じゃ、じゃあ行こうか、さ、さ、桜」
昨夜の練習の成果を披露すると、桜の眉がぴくりとはねた。
「……『さん』ぐらい付けろ、この駄犬め! ……ですことよ」
「申し訳ありません! さ、桜さん」
耳をぺたりと伏せた犬のように、情けない顔になる米田に桜はクスリと笑う。
「ならばよし。――では、さっそく参りましょう」
頼りなくも憎めない米田の腕にそっと手を添え、桜は引っ越しの挨拶という名目の聞き取り調査へと向かっていった。
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