(4)

「行っちゃった……かな?」

「行ってしまわれた……みたいですね」


 青白い光が消え、午後の陽射しを取り戻した部屋でさくら米田よねだは揃って安堵の息をつき、その場にしゃがみ込んだ。

 あれほど大きな力が荒れ狂ったはずなのに、部屋の中は整然として、青磁に活けられた薔薇は花びら一枚落ちていない。

 ここであった戦いの名残は、乱れた髪と痛む節々、そして倒れ伏している黒岩くろいわ氏とおきよの姿だけだった。


「あの二人、大丈夫ですか?」

「気を失っているだけみたいです――それで、私たちはいつまでこうしているのですか?」

 耳まで真っ赤にした桜は、自分を正面から抱きしめている米田に抗議めいた質問をする。


「エヘヘヘヘヘ」

「エヘヘじゃないです! 早く離してください」

「ヤダ」

「ヤダじゃなくて!!」

 プリプリと怒りだした桜を腕ごとぎゅっと抱きしめ、米田は桜の頭に顎を乗せる。


「俺って桜さんに好かれてるって、ちょっとはうぬぼれていてもいいですよね?」

 その質問に桜は首筋まで赤く染める。火照る頬を米田の胸元に押し当て、小さな声でこっそりと答えた。

「……ちょっとだけですよ」


 桜の可愛い答えに米田は「ンンンンン~~ッ!」と奇妙な声を漏らして照れた。

 戦いの余韻と興奮が冷め落ち着きを取り戻した二人は、少し照れくさい顔でようやく躰を離し、上司と部下の適正な距離を取った。

 桜は服の乱れを整えながら立ち上がり、絨毯の上に転がる魔鏡を拾い上げた。


三鈴みすずさん、大丈夫ですか?」

 声をかけると魔鏡からは白い煙が立ち昇り、聖母の姿を取る。

『いろいろとご迷惑をおかけしました。なんとお礼を申してよいのやら』

「いえ、こちらの事情に巻き込み、しかも振り回してしまい申し訳ないです」

 三鈴と桜は互いに謝り合い、それがおかしくて少し笑った。

 三鈴は笑み収めると、少しだけ悲しい顔になる。


『いつまでも善次郎様のお近くにいたいけれど……どうやらそれも、終わりのようです』

 次第に三鈴の存在感が薄れていく。月読命の力が注ぎ込まれたとはいえ、それ以上に精気を放出してしまった三鈴は、現世にとどまる力も潰えようとしている。

『心残りがないと言えば嘘になりますが……心残りがあることは伝えたかった』

 悲しく笑う三鈴に桜も泣きそうな、情けない顔で申し出た。

「私が聞こえる範囲なら言葉を伝えます」

『ありがとうございます』


 そんなやり取りをしているうちに、三鈴の輪郭は薄れ、やがて人の形を失くし、ぼんやりとしたオレンジの光になってしまうと、魔鏡から別に白い煙が立ち昇った。

 それは聖母マリアの形を取ると、改めて桜と米田に挨拶をする。


「お初にお目にかかる。わたくしはこの魔鏡に宿りしモノにございます。よろしくお見知りおきを……」


 事情がわからぬ米田が首をひねると、桜が教えてくれた。

「三鈴さんの黒岩氏に会いたいという強い気持ちがこの世に残り、それが魔鏡にしがみついてしまった。魔鏡の付喪神殿は持ち主である三鈴さんの願いを叶えようと、力を貸し与えた。しかし本体の手入れを怠ったことによって鏡の命でもある鏡面が曇り、付喪神殿の力が弱まると三鈴さんの思いは暴走を始め、今回の幽霊騒ぎとなった。ということです」

「じゃあ、三鈴さんの思いと付喪神さんの思いは別々に存在した、ということですか……」

 米田は魔鏡の付喪神とオレンジの光を交互に見つめる。


 三鈴は黒岩氏の幸せを願い、付喪神は三鈴の幸せを願い、お清は黒岩氏の幸せを願い、黒岩氏は三鈴の幸せを願い。

 みんな誰かの幸せを願っている。――米田は微笑み、この優しい人やモノたちの幸せを願った。


 桜は改めて魔鏡の付喪神に向き直り、語りかけた。

「付喪神殿はこの後どうなさいます。黒岩氏を新たな主とされるのでしょうか? もしよろしければ、私どもの許で帝都に住まう人々の幸せを願う役目を負ってはいただけませぬか」

 桜の問いに魔鏡の付喪神は頷き肯定する。

「人の願いのためと作られた我が身なれば、信仰は違えど人のために尽くすが道理。あなたがたに受けたこのご恩、如何様にもお応えしましょう」

「ならば、帝都を守る神器の一柱となりて、人の世のためにご尽力いただきましょう」


 桜はそう言うと美しく笑った。 ようやく目を覚ました黒岩氏とお清に、桜はニコリと笑い声をかけた。

「大丈夫ですか?」

「いや、それよりも……あれは……」

 黒岩氏の問いかけに桜は微笑むだけで答えず、代わりに質問をした。

「黒岩様、今度はあなたが三鈴さんを待っていてくださいますか?」

 桜の質問の意味が分からず、黒岩氏はぼんやりとしていた。

「三鈴さんがいつまでもこの世界に残っているのは、よくないことだと。だから、遠くに行ってしまうけど、黒岩様が懸命に生きて一生を全うできたら、迎えに来るそうです……それまで、三鈴さんをお待ちいただけますか?」


 黒岩氏はようやく桜の言わんとすることを理解し、泣きそうな顔で笑った。

「ああ、待つよ……私は待てるから、必ず迎えに来てくれ。……そう、伝えてくれ」

 桜は頷くと、今度はお清に向かって語りかけた。

「お清さん、ずっと鏡を磨いてくれてありがとうございます、と。鏡が綺麗なうちは黒岩様のことがよく見えたのに、曇ってからは何もわからなくなり心配で……だから見えないのに黒岩様を捜して動き回ってしまったそうですよ」

 少しいたずらっぽく笑うとお清は泣きだした。


「申し訳ないことを……なんと馬鹿なことを……」

「もう、いいんですって。三鈴さんもお清さんがいつも黒岩様のためを思っていろいろしているとわかっていたから、いいんですって。それよりも、長生きして黒岩様のお世話を焼いてほしいそうですよ」

 お清は泣きながら、ありがとうと何度も繰り返した。 桜は何ものっていない掌の上を見つめ、悲しく笑った。


「もういいですか? 他に何か……」

 そう囁くとふと顔を上げ、何かを追いかけるように視線を動かした。

 視線はゆっくりと黒岩氏の方を向いていく。その時、黒岩氏は頬に温かなものが触れるのを感じた。


「三鈴……」

 その温もりが彼女の別れの挨拶だということは、説明されなくともわかった。


「待っているよ。お前を待って、私は生きていく」


 さよならの代わりに呟くと、黒岩氏は深く俯いて肩を震わせた。

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