(4)

 陽のあるうちに戻るのだぞ。小箱こばこのお達しを守るべく夕焼けになる前に万葉堂まんようどうに戻ると、奥座敷には式典用の正装姿の鳥山とりやま中将と彼の秘書官がいた。


「おう、お帰り。早かったな。先にやってるぞ」

 やたら姿勢のいい秘書官に酌をさせながら鳥山中将は笑い、酒を飲んでいた。

 なぜか床の間には御幣ごへいが置かれ、鯛の塩焼きや赤飯など祝い事のような料理も箱膳で並べられている。米田よねだは呆気に取られ、ぽかんと口を開けた。

「今日の夕飯は、里芋の煮っころがしとアジの干物の予定なのに……」

 米田が思わず呟くと鳥山中将はガハハと笑った。

「そいつは酒のさかなにもいけそうだな、今から作ってくれても構わねぇぜ?」


 軽口を叩き機嫌よく飲んでいる鳥山中将とは対照的に、いつにも増して目つきの鋭い秘書官が無表情のまま米田を見据えた。

「何をしている。さっさと着替えてこい」

「は、はい! 致します!」

 秘書官の冷たすぎる声に米田は慌てて敬礼し、大急ぎで自室に戻った。



「チョッ! どうなってるんですか? なんで鳥山閣下がいるんですか? あのご馳走なんですか? 着替えるって何に着替えるんですか!?」

「落ち着け、いっぺんに質問をするな! ――今夜は私たちの祝言を挙げる。閣下はその斎司で、馳走は披露のためだ。着替えは軍服で構わないが、祝いの場なので正装にしろ。以上」

「いや、『以上!』って……」


 二階の部屋の前でさくらを問い詰め、とりあえずの回答は得られたが抜本的にはわからぬままだった。

 そもそもこの結婚は「偽装」である。すでに夫婦としてこの万葉堂に越してきている。

 それなのに披露宴をする意味がわからない。――一体、誰に披露するというのだ?


 混乱する米田に桜は小さく笑い、彼の目をじっと見つめた。

「お願いだ。今宵、私と祝言を挙げてくれ」

 悲壮なほど真剣な眼差しの桜に、米田はそれ以上追及することはできなかった。

「……米田少尉、軍命により草薙少佐との祝言を、致します」

 少尉として硬い声で答えた米田に、桜は少し傷ついた目をする。

「……あぁ、よろしく頼む」

 少佐として桜は答えると、そのまま自室へと入っていった。


 

 複雑な気持ちで儀典の正装をして階段を下り座敷に行くと、同じく正装をした桜が彼を待っていた。

 キリリとした表情で前を見据え、緊張しているのか白い頬がわずかに赤みを帯びていた。彼女は珍しく紅を引いていて、それがひどく艶かしい。

 正座する桜の袖には星章二つ線章一本が輝いていた。

 米田は彼女が少佐という階級にいることを改めて思い知る。


 ――やっぱり桜さんって、高嶺の花なんだなぁ。


 そう思うと急に胸が苦しくなり、彼女の隣に座ることに躊躇してしまう。


「おっ、ご両人さんが揃ったな。米田くん早く座んなよ」

 敷居の前に立ったままの米田に着席を促し、上座かみざの鳥山中将は持っていた杯を飲み干す。

 二人が並んだことを確認すると、彼はそれまでのだらけた表情を消し、恐ろしい程真剣な顔になった。


「全員、平伏しろ」

 米田は周りに合わせ畳に手をついて頭を下げてみる。

 鳥山中将は座りなおし背筋を伸ばすと、床の間に置かれた幣に向かい静かに二度頭を下げる。顔を上げ姿勢を正すと、大きく息を吸い込んでから高らかに二度手を打ち鳴らした。


けまくもかしこ八百万やおよろず大神等おおかみたち大前おおまえ鳥山とりやま是嗣これつぐかしこかしこみもまおさく、八十日やそかびれども今日きょう生日いくひ足日たるひ選定えらびさだめて、鳥山是嗣の媒妁なかだちり、大神等おおかみたち崇敬者すうけいしゃ仕奉つかえまつ米田よねだ雅彦まさひこと、草薙くさなぎさくらと、大前おおまえにして婚嫁とつぎいやわざ執行とりおこなはむとす」


 朗々とした声で鳥山中将は祝詞のりとを奏上する。彼の声が響くに連れ、部屋の空気は張り詰め、異様な静けさを生む。


ながちぎりむすびかためて、今よりのちあめなる月日の相並あいならべく事のごとく、地なる山川の相対あいむかへる事の如く、たがいに心を結び力を合わせて相助あいたす相輔あいあななひ、堅磐かきわ常盤ときわかわる事無く、うつろふ事無く、神習かむならひに習奉ならいまつらむと誓詞うけいごとまおさくをたいらけくやすらけく聞食きこしめして、行末長く二人が上に霊幸たまちばして、高砂たかさご尾上おのえまつ相生あいおい立並たちならびつつ玉椿たまつばき八千代やちよを掛けて、家門いえかど広く、家名いえのな高く、弥立いよよたち栄えしめたまへと、かしこかしこみもまおす」


 鳥山中将は神事を終えると深く一礼し、そのまま深く深呼吸をする。

 ようやく顔を上げると、彼は末座に控えていた秘書官に目配せをした。

「じゃ、二人に三日夜みかよの餅を食ってもらうか」


 色とりどりの餅が並べられた盆を秘書官はうやうやしく桜と米田の前に置くと、祝いの場とは思えぬほど険しい表情で彼を睨めつけた。

「歯を立てずに三つ食え」

「は? 歯を立てずに?」

 米田は言われたことの意味がわからず、思わず素で聞き返すと、秘書官の目つきはいよいよ凶暴さを増した。

「……嚙み切らずに餅を三つ食うんだ。できそうにないなら早く言え。すべての歯をへし折って食べやすくしてやろう」


 ――この人は要人の秘書官なのに、なんでいつも暴力的なの? 怖すぎるよ。


 米田はカクカクと何度も頷き、餅を手に取った。

「ゆっくりで構いません。くれぐれも喉に詰まらせないように」

「……老人じゃないから、大丈夫ですよ」

 心配そうにこちらを窺う桜に笑って答え、米田は盆から小さめの餅を手に取り口に入れた。


 甘く柔らかなそれを歯を立てぬように気をつけて立て続けに三つ食べると、桜も盆に手を伸ばし、桃色の小さな餅を取り口に入れた。

 少し恥ずかしそうに米田から目を逸らし、呑み込むと、


「これで……私は、あなたの妻です」


 桜は顔を背けたまま小さな声で言う。米田の躰に桜の声がジワジワと広がり、喜びを上回る緊張に頬が強張っていく。


「あ、ありがとうございます、よろしくお願いします」

 どうにも締まらないセリフで答えると、桜の頬は真っ赤になり、そうして頷いた。


 互いに赤い顔で俯く二人を前に、鳥山中将は厳しい表情で宣言した。


「おめでとう、お二人さん。――これで婚儀は成立し、草薙桜は米田雅彦の妻となった。何人なんぴとたりも、たとえ神であろうとも、これより草薙桜をめとることは相成あいならん」


 鳥山中将が言い切ると、唐突に座敷の空気が異様な圧を持つ。

 米田の胸元で懐中時計がキンキンと鳴りだした。


『あるじサマ、あの御方が参られるユエ!』

 勝手に顕現した計は悲痛な声を上げた。

「小娘! お主は引っ込んでおれ! 今度こそ消されようぞ」

 すると、いつの間にか桜の後ろに控えていた小箱が米田よりも早く反応し、計に向かい符を投げつける。

『ふみゃっ!』

「しばらくおとなしくしておれ」

 本体である懐中時計が紙人形に包まれると、計の姿が消えた。


「計に何を!?」

 米田が声を荒らげると、逆に小箱に怒鳴りつけられた。

「壊されるよりマシじゃ! あのような小さきわらわを戦わせる気か!?」

 そうしているうちにミシリミシリと家鳴りが起こり、遠くより何かが断ち切られる音がする。


「結界がもう持ちませぬ」

 小箱が悲鳴のような声を上げると、桜は黙ったまま硬い表情で守り刀を握る。

 鳥山中将も軍刀を握り、鍔に親指をかけ鯉口を切った。

香取かとりやっこさんが来たら迷わず斬れ」

「御意」

 秘書官・香取は鳥山中将を背にして立つと、日本刀の鞘を投げ捨てた。軽く腰を落とし脇構えを取ると、深く呼吸をする。

「米田、貴様は姫を援護しろ」

 香取は米田に短く命じると、フツフツフツと小さく唱えながら剣先を震わせた。剣先が揺れるたび、パチパチと音を立て静電気のような細かな光が集まっていく。

 異様な光景に米田には何が起こっているのか見当もつかなかったが、ただならぬ状況だということは言われなくともわかる。

「――致します」

 米田は桜を庇うように立ち、軍刀を構えた。


「こんな時にですが……一体何が来るんです」

 誰ともなしに米田が尋ねると、鳥山中将は口の端を歪めて答えた。

「桜ちゃんに振られた、自称婚約者様だよ」

 その時、空間がぐにゃりと曲げられた。息苦しいほどの神気が漂い、空気の温度が急激に下がっていった。


「やれ、めでたい。賑々にぎにぎしく祝い寿ことほぐ。めでたや、めでたや」


 昨晩聞いた声だ。

 低く美しい声音は嘲りを含み、彼がこの祝言を寿いでいないことなど明白だ。


 米田は畏怖で震える手をごまかすように軍刀を強く握り締める。空間の歪みの中心にも青白い光が集まり始め、米田はそこから目を逸らさず睨み続けた。


「封!」

 小箱は印を切りながら、集まる光に大量の紙人形を飛ばす。だが光を覆い隠そうとしたそれらは、届くことなく霧散した。

「ぅぐっ、うぅ……」

 紙人形がすべて消えてしまうと、小箱は苦しげに胸を抑え唸りながら蹲る。

「~~ッ、小箱ッ!?」

 桜が名を叫んでも、彼女の忠実な従者は震えて唸り声を上げるだけ。

 その間にも、光はゆっくりと人の形をとる。


「シャァッ!」

 気を吐きながら香取は恐ろしい形相で光の集合を逆袈裟に斬った。

 ブツリと音を立て、光の集合は両断される。真っ二つになったソレは徐々に光を失い、放っていた強い神気も弱まっていく。

 やったのか? 米田が目を凝らしていると、斬ったほうの香取が口から血を漏らし、どうっと前のめりに倒れた。

 倒れ伏した香取は、死んでしまったようにピクリとも動かない。


「人の子に霊剣・布都ふつの御魂みたまを降ろし戦わせるなど……恐ろしいことをする。我が斬られれば、其処そこな子は神殺しの鬼になれたのにのぉ」

 可笑しそうに笑うと、光は再び集まり完全な人の形を取った。


 白い直衣のうしひるがえし、男は震えながらも守り刀を構える桜を見る。

「おいで、桜」

 人と人外が倒れ、なお二振りの刃を向けられている状況にもかかわらず、白い直衣の男は薄く笑いながら桜に手を差し出した。


「他人の嫁さんには手ぇ出すなって、偉大な姉上様には教わりませんでしたかな?」

 鳥山中将は吐き捨てるように言うと軍刀を上段に構え、男の手首を斬り飛ばす。

 ゴトンとそれが落ちた。が、白い直衣の男は気にした様子もなく鳥山中将を一瞥する。

「相も変わらず、姉上の僕どもは決まりごとに煩く、つまらぬ者ばかりよの」

 そう吐き捨てると、眼光を強め鳥山中将を見下ろした。

ね、下郎」

 言葉とともに鳥山中将は何かに押さえつけられ、べしゃりと床に這いつくばる。

「ク、ぅぅぅぅ……」

 鳥山中将は苦しそうに呻き声を漏らしながらも、なお男を睨みつけていた。


 この場に立っている者は男の他には桜と米田だけになってしまう。

「少佐、下がってください」

 脂汗を滲ませ、米田は軍刀を構え続けた。

 この場で一番訳もわかっていない米田に、目の前の敵と対抗するすべなどない。それどころか、彼は敵の正体さえ知らない。

 そんな米田を楯にする。桜は心苦しさに唇を噛んだ。

 倒れ伏す鳥山中将たちを見回し、桜は恐怖に囚われながらも必死に守り刀を構えて立つ。その足はガクガクと震えている。

 男はもう一度手を差し伸べた。鳥山中将に斬られたはずの右手は、いつの間にか元通りの形になっている。


「さぁ桜、一緒に戻ろうぞ。我のもとに居れば、何もうれうことはない。そなたに過大な期待をする者も、宿命を背負わせる者もいない。――我はそのままのそなたが欲しい。そなたも我の許なら自由じゃ」

 その言葉に桜の心は強く揺さぶられる。金色の目が輝き、桜の意識を呑み込んでいく。

「……そのままの私……自由に」


 幼い頃より優秀な巫女であることを求められていた。強い霊力を持つ者の役割として、桜の生きるすべてはあらかじめ定まっている。

 桜が自分自身のことで決められることは何もない。――自分の命を懸ける使命ですら、他人に課せられたものだ。


 しかし、こんなにも尽くして最後に自分には何が残るのだろう。もしも霊力を失ったら、自分が存在する意味はあるのだろうか。


 ――きっと私は誰にも必要とされない。ただの桜は誰も必要としない。


 桜の心の片隅に巣くう不安が一気に拡がっていく。

 桜の背骨を支えていた「責務」が力を失くし、姿勢がぐにゃりと撓んだ。守り刀を握る手が緩む。と、その時――


「桜、ちゃんと後ろに下がって! 俺、弱いんだから、しっかりと守られてくれなきゃ守れないよ!!」

 米田は男を睨みつけたまま、苦しい息で叫ぶ。

「アンタ、なんだよ!? 桜の意思を無視しといて、自由なんてこと言うなッ!」

 米田はギリギリと歯を食いしばり、男に軍刀を向けた。


「祝言挙げたんだから、桜は俺の妻だ! 俺の大事な人なんだよ!」


 米田の声が桜に強く響く。桜を自分の妻だと言い切った瞬間、白い直衣の男と二人の間の空間の気にピシリと亀裂が入った。


「言の葉で縛るとは――面白い」

 男は目を細め、陰惨な笑みを浮かべた。

 米田の声に、揺らいでいた桜の意識が再びしっかり動きだす。陰っていたその瞳に光が戻った。


「……『さん』を付けろ、駄犬が」

 桜は呟くと守り刀を強く握り、米田を睨んだ。

「さ、桜さん!」

 情けなく慌てる米田にわずかな笑顔を見せると、桜は大きく息を吸った。


 ――大事な人、そう言ってくれた気持ちだけは裏切りたくない。


「今宵、妻問つまどいと三日夜の餅の儀式にのっとり、私は神前にて米田雅彦の正式な妻となりました。これを無理にもくつがえすは、誓いを認めた八百万やおよろずの神々への反逆。そうみなされる行いでしょう。――どうかお引き取りを。私はあなたのものではない……私は米田雅彦の妻! 誰にも文句は言わせません!」


 桜が大きな声で宣言すると、男はくつくつと笑いだす。


「……然様さようか、なんとあっても我を拒むか」


 金色の目が異様な光を放つ。濃密な神気に人である桜たちはうまく息が吸えずにむせたが、家中の骨董たちは共鳴を起こし、キィキィと甲高い悲鳴を上げていた。


「ならば致し方ない。我とて高天原の一柱、これ以上姉上の機嫌を損ねるも厄介じゃ……ここは一旦引こう」

 そう言うと男の輪郭がぼやけていく。


「ほんに、そなたは我を退屈させぬ。――力欲しくば我を呼べ、宵月の扉はいつも開いておる」


 青白い光はパッと散り、その光もやがて消える。あたりを支配していた神気は完全に消失し、元の世界が戻ってきた。

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