(6)
微妙な空気の中で
――空気が……非常に重いです。
祈るような気持ちで表の方向を見ていると、突然小箱が咳払いをした。
「んんッ! ……あ~、まぁ、なんというか……先ほどは、すまぬな」
「……は?」
「だから! 先程は
小箱は苛立ちも露わに叫ぶと、米田から顔を背けた。
「主様は幼い頃からご自分の意見を言えるお立場ではなかった。どのような命にも是としか答えられぬ。……嫌だとは言えぬ主様のために、嫌だと言うてくれたこと、この小箱から礼を申す。――かたじけなし」
小箱はぼそぼそと小さな声で礼を言うと、ムッとした顔のまま、また黙ってしまう。
さっき以上に気まずそうな小箱に米田は思わず笑い、懐から懐中時計を取り出した。
「こっちこそ、ありがとう。
紙人形に包まれたままの懐中時計を見せると、小箱は「あなや」と小さく呟いた。
「すっかり忘れておったわ。――解」
小箱が指を横に動かすと紙人形は剥がれ落ち、転がり出るように計が顕現した。
『あるじサマぁ~ご無事でぇ~~』
泣きながら抱きついてきた計を宥め、米田は笑った。
「泣くなよ、お前こそ無事でよかった。――小箱にもお礼を言うんだぞ」
『アヤツ、計をギュウギュウにするし、ドワーフの如きとんがり帽子が妙なので、嫌いでございますレバ……』
「これはとんがり帽子ではなく
不服そうな計の物言いに小箱は憤慨し、きぃきぃと喚いていた。
喧嘩というには微笑ましいやり取りを眺め、米田は「
「なぁ、『月読命』ってどんな神様なの? 俺、名前しか知らないけど、ツクヨミってぐらいだから月の神様だろうけど――」
何気なく尋ねると、計と小箱の顔色が変わった。
『みだりに名を呼んではなりませぬユエ、名を口にすれば縁が深まってしまいますレバ!』
計の怯えぶりに米田が慌てて口を噤むと、小箱が重々しく口を開いた。
「あの御方は我ら付喪神とは違い、はじめから神として
そこで話を切ると小箱は少し口を閉じ、苦い表情を作る。
「……あの御方は一度『神隠し』で主様を
戯れという言葉に米田はギリギリと奥歯を噛んだ。あの金色の目は桜が怯える様を楽しんでいた。恐怖に震えながらも必死に抗う桜の姿を、面白がり
「神様なのに……なんでひどいことを」
呻くように苦しい言葉を漏らすと、小箱は皮肉に笑った。
「神にとっては善も悪もない。人の子の都合に合えば善、合わなければ悪。そう呼ばれる、ただそれだけのこと……もとより神は気まぐれなもの」
米田は何も言えず暗い顔で俯くと、計が心配そうに彼の袖に触れて寄り添った。
「あの御方は主様が十八になったら娶ると、勝手に契約されたのだ。……本来ならば主様も、もっと強固な結界に籠り身を守ればよい。しかし一族の中には主様をあの御方に贄として差し出すことを望む者もおるのじゃ。
小箱は痛みを耐えるように握り拳を震わせる。
「主様は人の都合にも神の都合にも振り回されておる。……主様も阿呆じゃ。そんな勝手な者どもの期待に応えようと、常に身を削って……いつかその身がのうなってしまうわ」
ようやく桜が背負っている重荷が見えた。しかし、それはまだ一端でしかないのだろう。
少佐としての責務、巫女としての使命、それを果たさねばならないという期待と重圧。あの細い肩にはたくさんの重荷が載せられている。
「……そういう重いもの、俺にも少しぐらい分けてくれたらいいのに」
無意識のうちに小さく呟く。米田の微かな声を聞き留めた小箱は、少しだけ目元を和らげた。
騒乱の祝言の夜は更ける。
非日常の戦いのあとではあったが、桜はいつものように布団を敷いて眠る準備をした。米田も同様に支度をしているようで、がさごそと物音がしている。
この生活もいつまで続くのだろう。ふと不安になり、桜は部屋を仕切る襖を眺めた。
万葉堂という家屋を用意し、任務と称してままごとのような結婚生活をしたのもすべて、古式に則った婚姻に見立てるためだ。
儀式が成立した以上、この状態を続ける理由はなくなった。明日、新たな軍命でこの暮らしが終わったとしても不思議はない。
――米田少尉の作った里芋の煮っころがし、まだ食べてないのに……
そんなことを考える自分がいることに、桜は少し驚いた。
作戦遂行のため、一緒に行動しただけ。それだけの関係でしかないのに……。その時、
「草薙少佐」
襖の向こうから米田が声をかけてきた。突然のことに、肩が震える。
桜は少佐の顔を繕い、冷静な声を出すように意識をする。
「何か用か?」
内心の動揺を押し隠し、彼の返事を待っているとしばらくして声が返ってきた。
「明日も……明日も特殊器物の調査と徴収、がんばりましょうね! 俺、……」
無駄に元気な調子でそう言うと、米田はまたしばらく黙ってからポツポツと話した。
「俺、優秀でもないし、霊力があるって言われたって何ができるわけでもないけど……この任務がんばります。なんでも命じてください、ちゃんと従います。草薙少佐の部下としてで構わないから……これからも傍に、置いてください」
米田は緊張しているのか、声がわずかに震えていた。桜は静かににじり寄り、襖に手を当て尋ねた。
「……どうして?」
「……草薙少佐は俺に視えてもいいって言ってくれたから……あなたの傍にいれば、俺は自分を騙さなくていい……そんな場所、俺にはもうあなたの傍しかないんです。俺の勝手な都合でごめんなさい、でも俺にはあなたが必要だから……」
「私は米田少尉に必要、なのか?」
「はい……必要です」
米田の真摯な声が桜の胸の奥を温めていく。
桜は襖の引き手にそっと手を伸ばし、わずかに引いた。
「……手を」
音にならないほど小さな声で囁くと、米田は襖の間から手を出した。
骨張って大きな米田の手に桜は自分の手を重ねてみる。温かく、少し硬い手触りに桜は目を閉じた。
「手を握ってくれ」
「……はい」
指を絡めて手を握り合う。米田の掌は汗ばみ、それがなんだかおかしかった。
「今夜は、手をつないで眠ってもいいか? その……私たちは、夫婦だからな」
上擦る声でそう言うと、米田の指には力が籠り、手を強く握り返された。
「は、はい……夫婦、ですしね!」
灯の消えた部屋の、わずかに開いた襖のあいだからは、暗くて互いの顔は見えなかった。ひどく上気した顔を見られないことに、桜は安堵の息をついた。
その夜、店先に置かれた古鏡の包みに蛍が留まった。
青白くそして金色に輝く蛍は怪しい光を二度三度放ち、不意に消える。すると闇はまた静けさを取り戻し、静かなまま。
光 を反射させるモノ、円い鏡は今はまだ眠りの中にいる。
同時刻、一人の男が苦悶の表情を浮かべ眠っていた。眠りながら、男は寝台の中でもがき苦しんでいる。
恐ろしい夢の世界で男はひたすら走り続ける。
「……どこに、いる……私を置いて……行くな」
追いかけても追いつかぬ影を、それでも追いかけ、男は悲痛な叫びを上げる。
何度名を呼んでも、あの影は振り返らぬ。それをわかっていながら、男は苦痛に耐え、必死で影を追い走り続けた。
「――――ッ!」
かつては一緒に暮らした愛しい名であった。今は彼を支配する絶望の名でもある。
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