(1)

 神田かんだ蔵前橋くらまえばし通りから一本入った狭い路地にある古びた町家の軒先には、やけに新しい看板が掛けられていた。白木に墨痕ぼっこんあざやかな看板の屋号には、こう記されている。


万葉堂まんようどう……」


 米田よねだは文字を確かめるように読み上げ、店先を覗き込んだ。

 薄暗くほこりっぽい店内には様々な大きさの箱が乱雑に置かれ、とても営業をしているようには見えない。なのになぜか店の奥からはガタガタと、何かが暴れるような奇妙な音が聞こえてくる。

 お化け屋敷、そんな表現がしっくりする陰気な様子に及び腰で声をかけてみた。


「すみませぇ~ん、お邪魔、しまぁ~す……」


 少し待ったが返事もなく、もう一度声をかけようとすると、店の奥の障子しょうじがギシギシと音を鳴らし開く。


「遅かったではないか」


 行灯あんどんばかまに白のたすき掛け姿で仁王立におうだちの草薙くさなぎさくらは、へっぴり腰で店先を覗く米田を無表情で一瞥いちべつした。


 軍服姿も凜々りりしくていいけど、袴姿も可愛い……。女学生のような桜の出で立ちに米田は無駄にときめき、先ほどの鳥山とりやま中将の笑顔を思い出して頭ときもを冷やした。


「失礼いたします! このたび――」


 慌てて着任挨拶をしようと口を開いた米田を、桜は冷たくさえぎる。


「米田少尉、挨拶は後にしてくれ。それより今は仕分けだ。日が暮れる前までに一棚くらいは終わらせたい」


 それだけ言うと、彼女は奥に引っ込んでしまった。


「あ、待って、待ってくださ~い!」


 米田は妻となる上官殿の背中を急いで追いかけ、赴任地ふにんちであり夫婦の新居となる万葉堂の中に足を踏み入れるのであった。



 店の奥の裏庭には、蔵と呼ぶには大げさな天井高のちょっとした倉庫があった。

 中には背の高い棚が息苦しくなるほどの狭い間隔で並び、店先同様大小様々な古めかしい箱がみっちりと置かれていた。

 もともとの在庫なのだろう。気味の悪い何かが潜んでいるような薄暗い空間は、埃っぽさとカビ臭さに包まれている。


 米田が埃にむせていると、桜は気にした様子もなく厚く積もった埃ごと箱を運び出しささやかな庭に並べていた。


「手伝います!」


 慌てて声をかけ、桜の後ろにつく。端から順に箱を出していく桜に米田もならった。


「~~~んっ! ふん~~~~~!!」


 爪先立ちで手を伸ばすが、上段の箱にはどうにも手が届かない桜に、

「高いところは、自分がやりますから」

 米田は何気なくその肩に手を置き、箱に手を伸ばす。


『フギャッ!』

「うへ?」


 小動物の鳴き声のような甲高かんだかい悲鳴がした。

 米田がびっくりして箱を取り落とすと、中から小さな茶入とともに、黒色のカエルのような生き物が飛び出した。


『モット丁重ニ扱エ、手荒ナ小僧メ!』

「カエルがしゃべった!?」


 飛び上がるほど驚く米田を無視して桜はしゃがんで茶入を拾うと、黒色のカエル(?)をそっと手に載せ、優しく声をかけた。


「お怪我はございませんか?」

『オオ、コレハゴ丁寧ニ、娘サン。かたじけナイ』

 カエルはぴょこんと飛び上がって桜に礼を言うと、茶入の上に乗り、そして溶けるように消えていく。


「カエルが消えた!?」

 思わず叫ぶと、桜は眉をひそめ米田を見上げた。


「もっと丁寧に扱え。これは江戸初期のくろうるしぬりなつめ、薄茶器の上物うわものだ」

「え、あの、でも! さっき、カエル、しゃべって! ……しゃべりません、……カエルなんかいないです、よね?」


 あまりにも平然としている桜に、米田は自分の病気がまた再発したのかとたじろぐ。

 彼には幼い頃に母を泣かせたとても悪い癖があった。

 おそるおそる桜の顔色をうかがい尋ねると、彼女は少しけわしい顔をして米田の目を見る。


「……なぜ、見えぬふりをするのだ? 見えぬふりをしても、世界は何も変わらない」


 その問いかけにさっと血の気が引いた。言い知れぬ恐怖に米田が半歩下がると、桜は彼の目を見たまま一歩前に進み、ぐっと顔を近づけてくる。


 ――ち、近い近い! あと、顔ちっちゃくて可愛い!!


 恐怖と興奮の二律背反にりつはいはんな状態にドギマギしつつ、米田は急いで悪癖を封じるおまじないをとなえた。

「見えません! 俺にはおかしなものは何も見えません!」


 確認するよう声に出すと、空気がビリビリと震え米田を包む。それまで何かが潜んでいるように感じた薄暗い倉庫からは、気味の悪い気配が消えていく。

 よかった、ただの気のせいだ。そう自分に言い聞かせていると、桜は眉をぴくりと動かし、唇の両端を上げた。


「……なるほど、声を媒介ばいかいにして自己暗示をかけるのか」

 小さく呟くと、顔を近づけたまま命じる。

「自分は見えると言え。目に映るものがすべて見えると、腹の底から声を出せ」

 桜はそう言うとにこりと笑った。


「早く言え――これは命令だ」


 軍人である米田にとって上官の命令は絶対だ。


「米田少尉しょうい、致します。……目に映るものが、すべて、見えます……」


 かぼそい声で復唱すると、桜は米田の襟を掴んで引き寄せた。

「私は、腹の底から声を出せ、と、言ったんだが?」

 より近づいた桜の顔に米田の耳たぶが熱くなる。


 ――近~~いッ! めちゃめちゃ可愛い~~ッ! なんかいい匂いする~~ッ!!


「自分は見えますッ! 目に映るものがすべて見えますッ!!」


 興奮のままに叫ぶと、米田を包む膜のような何かがパリンと音を立て割れた。

 その瞬間、桜と米田以外誰もいなかったはずの倉庫にモノの気配があふれていく。


「ひぃっ!!」


 そこかしこにねずみのような小さな何かがチョロチョロと走り回る。米田は悲鳴を上げ目の前の桜に思わず抱きついた。


「キャアァァァァ~~!」


 悲鳴とともに彼の鳩尾みぞおちに衝撃が走る。


「この、れ者がッ!!」


 真っ赤な顔で怒鳴る桜を見つめつつ、米田の意識は薄れていくのだった。

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