(2)
連日訪ねてくる骨董屋夫妻に苛立ちながらも、
無視してしまえばいい、そう思いもするが、不思議と会わねばならないという義務感もあった。
「お待たせしたかな?」
声をかけ応接室に入ると、骨董屋の夫婦とともになぜか女中頭をしていたお
「お清じゃないか……一体、どうして」
「ぼっちゃま、お久しゅうございます」
随分と老け込み憔悴した様子のお清に驚いていると、骨董屋の二人は立ち上がり深々と礼をした。
「本日は、黒岩様と長く連れ添った古鏡の
「な、にを言ってるのかな、君」
黒岩氏は三鈴の名に鋭い目をする。お清はひどく沈痛な面持ちで、小さく震えだした。
桜は包みから取り出した古鏡を持つと静かに立ち上がり、窓辺に歩み寄る。窓を大きく開け放つと、射し込む陽に古鏡をかざした。
「ご覧ください。これが三鈴様の姿です」
キラリと鏡が輝き、反射光が黒岩氏の顔を斜めに横切る。まぶしさに目を眇め、その行き先を目で追うと、部屋の壁に円い光が映っていた。
白い光の中で目を閉じ穏やかに笑う女の顔があった。
「……三鈴」
黒岩氏はその名を呟き、女の微笑みに見入る。
白いヴェールを被った女は、何も言わず慈愛に満ちた微笑みを浮かべるだけ。
「申し訳ございません! 知らなかったのです、知らなかったのです!」
白い女の微笑みを見ると、お清は叫び泣き伏した。 黒岩氏は意味がわからず、泣き伏すお清に詰め寄った。
「何を言っている? どういうことだ……」
黒岩氏の困惑した声にお清は恐怖に肩を震わせたが、それでも懸命に口を開く。
「私が、三鈴にぼっちゃまと別れるよう迫ったのです」
「なぜ、そんなこと……」
「芸者上がりはぼっちゃまには相応しくないと……ぼっちゃまには相応しい家柄の嫁を迎えるべきだと……幕臣の家に隠れキリシタンが嫁ぐことなど許されない……それは他のキリシタンたちをも裏切る行為だと」
キリシタンという言葉に黒岩氏は改めて反射光の中の女を見た。
「これは……聖母マリアなのか」
窓辺に立つ桜は頷き答えた。
「キリストの血を意味するワイン、その原料である葡萄の文様の装飾。――この鏡は隠れ
ようやく
一五八七年の
キリスト教を信仰すること、それはいつでも殉教者として死ぬ覚悟が必要な命懸けの行為であった。
その後、禁教令が解かれたのは新政府に移行して、六年後になってから。
古鏡の制作時期は十七世紀中期。この鏡は最初から信仰の要となるべきモノとして、命を賭す強い思いを込め作られ、決死の覚悟の信仰と祈りを受け続けた。――キリスト教という名の悲壮な想いを宿す器として生み出されたモノだ。
「だから……強い力があったのか」
米田は改めて古鏡を見た。弾圧の中でも、文字どおり命懸けで守られ祈りを捧げられた魔鏡は、悲しいけれどとても美しかった。
黒岩氏は震えながら反射光の中の聖母を見つめる。関係ないとわかっていても、その聖母の面差しは三鈴によく似ていた。
「三鈴は……今どこに?」
その問いに、お清は苦しい呼吸の中答える。
「古鏡を手放して間もなく……三鈴は死にました。私が別れるように迫った時にはすでに結核が進行していたと……死を意識していたと……」
当初、古鏡はお清宛てに送られていた。 差し出しの住所を辿り、お清が三鈴のもとに辿り着いた時には、彼女は死の床にいた。
『置屋では労咳持ちが多かったので、こうなることはある程度覚悟しておりました。……それでも、真似事だけでもいいから好いた方と所帯を持ってみたかった』
どんなに請われようと決して籍を入れなかった三鈴は、黒岩氏が再出発しやすいよう、自分の死を伏せることをお清に頼んだ。
『どうか、善次郎様にこのことを言わないでください。あの方にはまだ未来がある。死んでいく女に未練を残しては、いけない……』
相応しい妻を得、子を生し、明るい家庭を築き……死にゆく自分では叶えることのできない願いを善次郎が迎えるだろう女性に託した。
お清は三鈴の最期の願いを聞き届け、手紙以外のすべての痕跡を消し、捏造し、彼女の死を隠し通した。
「馬鹿な女だ……結局私は新しい妻など、迎えなかったではないか……」
黒岩氏は力なくソファーに座り込み、泣き続けるお清と古鏡を見た。
三鈴は心変わりをして自分の許を去っていった。そう彼女を恨みながら黒岩氏は今まで生きてきた。
未来へ目を向けることなく、仕事に逃げ、しかし三鈴を忘れることもできず、孤独の中に立ち止まったまま。
何もかもがもう遅く、傷は癒されることもない。
「三鈴……私はもう疲れたよ」
彼の心を虚無が占めていく。その時、古鏡から白い影が立ち昇った。
『善次郎様、あなたの帰りを待てなかった私を許して』
白い女にはしっかりと顔があり、優しげな美貌を悲しみに歪ませ泣いていた。
『いつまでもお傍にいたいのに、それができない私を許して』
許しを望む美鈴の言葉に黒岩氏は肩を震わせ叫んだ。
「許すものか! 許せるものか! なぜ……傍にいない、お前がいなければ……私は」
悲しみが部屋の空気を重くする。 病に蝕まれ、最愛の人と添い遂げられないことを知り、引き裂かれるような思いで下した決断は当の相手を傷つけただけだった。 願いは叶わず、犯してしまった罪の許しを求め、それでも得られない苦しみが三鈴を狂わせる。
『善次郎様の幸せを祈ったのに、どうして!』
悲痛な叫びには愛する男を幸せにできなかった、自分への恨みが含まれていた。 悲しみと恨みに引き裂かれる心は恐ろしい負の力を呼んでしまう。三鈴の躰を黒い靄にも似た瘴気が次第に取り巻いていく。
「だめよ! 自分を責めてはいけない!!」
桜が銅鏡を抱きしめ叫んだが、すでに三鈴の耳には届かない。
『こんなに……好きなのに……』
溢れる三鈴の涙から青白い光を放つ蛍が生まれる。
己を呪う女の悲しみを糧に、無数の蛍が群れをなし舞い始めた。
「人は相も変わらず面白おかしい……叶わぬものを呪わずにはおれん」
低く美しい声が部屋に響く。
空気は神気に圧され濃度を薄め、霊力のない黒岩氏とお清は呼吸ができずもがきだす。
「まこと興あり、もっと我を愉しませい」
蛍の群れの中から現れた白い
顕現した彼は、人の世の悲しみを見て薄く笑い悦んでいた。
「ソレ、我が力を貸してやろうぞ」
月読命が手を動かすと、蛍の群れがふわりと動き三鈴を取り囲む。
「傍にいたければ、連れていけばよいではないか。我が母がそうしたように、愛しい男を
凄まじい形相で苦しむ黒岩氏に駆け寄ると馬乗りになり、その首をギリギリと絞めていく。
『恨めしい……恨めしい……』
「やめろ! 目覚ませよ、幸せになれって祈った人だろ!?」
米田は三鈴を止めようと飛びかかった。
「ハハハ、浅ましきかな、
修羅場を見下ろし、月読命はおかしそうに笑い続けた。
鬼女となった三鈴を押さえつけ、米田は懸命に説得を続ける。
「三鈴さん、目覚ましてよ。好きな人のためにやったことなんだろ? 後悔するくらいなら、もう一度ちゃんと好きだって伝えてやってよ」
倒れ伏し朦朧とした意識の黒岩氏は、それでも悲しく「許さない」とうわごとを続けている。「許さない」としか言えない男の気持ちを考えると、米田は胸が痛くて泣きたくなった。
「代わりなんか、なかったんだよ。三鈴さんだけが好きだったんだよ。たったひとりだけ、そういう大事な人だったんだよ。なのに、裏切られたって思ったり、かけがえのない相手だって思ってるのわかってもらえてなかったり……自分の気持ちが少しも伝わらなくて、善次郎さん、こんなに悲しいんだよ」
悲しくて悲しくて、先に進むことができなかった。黒岩氏の心は三鈴が去った時から凍りつき、動けなくなっていたのだ。
米田の必死な叫びが三鈴の抵抗を弱める。
精一杯二人の救いを祈り、米田は言葉にした。
「好きなら、許してだなんて言わないでよ。たくさん好きでいてくれてありがとうって言ってあげなよ」
柔らかな米田の声に三鈴の動きが止まった。次第に彼女を取り巻いていた蛍も離れていく。
「変わらないもの、ちゃんとあるから。善次郎さんの変わらないものを信じてあげてよ」
米田の言葉に鬼女の涙が止まり、涙から生み出されていた蛍が消えていく。
恐ろしい呪詛の顔を元の優しげなものに戻した三鈴は、倒れて肩で息をする黒岩氏の傍に歩み寄り、静かに膝をついた。
『善次郎様、お慕いしております。これまでも、これからも、私が消えてもずっと……あなたに愛されて、本当に幸せでした……ありがとう、善次郎様』
黒岩氏の耳元に囁くと、苦しんでいた彼の表情がふっと穏やかになる。その顔を三鈴は愛しげに撫で、何度も愛しているとつぶやき続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます