六
(1)
お清は二人の顔を見るなり戸を閉めようとしたが、米田は戸口の隙間に足をねじ込んでそれを強引に阻止する。
「お清さん、お話があります」
「私のほうにはございません」
拒むお清に、桜は落ち着いた声で問いかけた。
「お清さん、あなたには
なんの前振りもなく桜は言い放った。
いきなりの決めつけではあったが、それだけでお清はひどく傷ついた表情になる。
桜はお清の反応を見ると、自分の仮説を確証に変えた。
「正直に仰ってください。このままでは、誰も救われない。あなた自身がそうであるように黒岩氏も……」
お清は唇を震わせると、罪人のように顔を隠し俯いた。
「……はい、そのとおりにございます」 お清は小さく答えると、肩を震わせ背を丸めた。
「黒岩家は長崎奉行所の配下、代々通詞として幕府直属の御役を務めた由緒正しい家柄にございます。私は長崎に住まう頃より黒岩様のお宅にお仕えしておりました」
お清は黒岩氏の過去を静かに語り始めた。
黒岩家に「ねえや」として奉公に上がったお清は、幼い善次郎の世話係となり、その後も女中として仕え続けていた。
黒岩の家人。それが彼女の誇りでもあった。激動の幕末を過ごし、新政府が立ち上がり。黒岩家は倒幕とともに通詞という役を解かれ、職を失った。
そんな重大な出来事の中、若い善次郎が恋に落ちた。
「お家の大事という最中に善次郎様が嫁にと望んだのは、三鈴という年上の丸山芸者でした」
お清は苦々しくその名を告げた。
もうすぐ三鈴の年季が明けるから、それを待って娶りたい。善次郎はそう言って父母に許しを請う。
いくら時代が変わろうと、黒岩家は士族として嫡男である善次郎と芸者との結婚を許すわけがない。猛反対する父母は勘当をちらつかせたが、逆に善次郎がそれを望む始末。お世話をしてきたぼっちゃまの危機に、お清は自ら動いた。
「丸山の置屋まで三鈴に会いに行きました。――分をわきまえて身を引くように、そう説得したのです。なのに、あの女……」
お清の説得にもかかわらず、年季が明けるとすぐに、三鈴は善次郎と手に手を取って駆け落ちしてしまったのだ。
二人は上京し小さな家を借り、仲睦まじく暮らし始める。善次郎は通詞になるべく学んでいた語学力を活かし、貿易商として働き始めた。
仕事が軌道に乗りだし、善次郎が仕事で家を空けがちになっても、三鈴は慎ましやかに彼の帰りを待ち、静かに暮らしていた。
そんな折、黒岩家の当主である善次郎の父が病に倒れてしまう。お清は八方手を尽くし、二人の住まいを突き止めるが、そこには留守を守る三鈴の姿しかなかった。
「私は、幸せそうにぼっちゃんの帰りを待つ、のんきな三鈴の顔を見た瞬間、腹が立って腹が立って……」
お清は三鈴を責め立てた。お前のせいで善次郎が道を踏み外し、黒岩の家がめちゃめちゃになった。善次郎の父が倒れたのも、心労のせいだ。お前がいなければ、ぼっちゃまは相応しい家柄の相応しい妻を迎え苦労なく暮らしていけた。
全部の不幸をお前が運んできた。なぜなら、お前は――。
「あの女が、幕府の役をいただいた家の者と繋がることは許されない。だから私は……」
お清の言葉に三鈴は悲しく眉を歪め「申し訳ございません」と手をつき謝ったのだ。
そうして彼女は善次郎の前から姿を消してしまう。
「ぼっちゃまが帰国されてすぐに先代様は亡くなられ、後を追うように奥方様も……ぼっちゃまは相続なされた土地屋敷をすべて処分して、事業の資金にされました」
結局、お清の望んだ形のお家再興など幕府がなくなった今となっては成るはずもなく、彼女はそのことを理解しようとしていなかった。
黒岩家という奉公先を失った「ねえや」を善次郎は哀れみ、女中として雇う。
三鈴の不在を悲しむ何も知らない善次郎を、お清は見守り続けたのだ。
「……どうして、途中からでも本当のことを」
米田が苦しく呟くと、お清は顔を覆い泣きだし、桜はそっと目を伏せた。
「推測ですが、取り返しがつかなくなっていた。だから本当のことを言えなかったのでしょう」
「取り返しって……」
米田の問いに桜は唇を震わせた。
「三鈴さんは古鏡が黒岩邸に届いた前後にお亡くなりになった。――違いますか?」
桜の言葉にお清は深く俯き、ますます涙を拭った。
「贖罪を、あなたは望みますか?」
桜の静かな声にお清は涙で汚れた顔を上げた。
「人の世の間違いは人の世でしか正せない。誰も彼も救われないまま怯えながら終わりを待つよりも、あなたの手で決着をつけませんか? 善次郎様のためにも」
桜の言葉を聞くと、老女はしばらくの間沈黙し、やがてゆっくりと頷いた。
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