第38話
僕は耳を疑った。
一度も名乗ったことのない僕の名前がなぜ彼の口から……。
役目を終えたペンが右手から滑り落ちて、テーブルに硬い音を響かせた。
「そっか、でもこれで全部が繋がった。この間押し倒した時いやがっていたのも、男とばれるのが恐かったんだな。そうだよな、俺が女の子の明日香を好きだと思っていたら当然だよな。嫌われないよう性別を必死に隠していたなんて、やっぱり蒼汰は可愛いな」
とろけた言葉の熱が、凍てつく鼓膜に染み込んだ。
別れ話を切り出された時の絶望など、どこかに吹き飛んでしまったかのように彼はうっとりと口元を緩ませていた。
「ど、どうして、し、知っているんですか……?」
僕が男だということを。
僕の名前を。
聞きたいことは他にもあったが、その問いを喉の奥から絞り出すので精一杯だった。
吐息混じりの微笑をこぼして、彼は何とでもないように答えた。
「恋人なら、相手の全てを知っておくのは当然のことだろう。最初は斉藤明日香のことを調査会社に調べさせたけど、写真見たら全然違うブスでびっくりした。それで名前を偽っていることが分かったんだ。本名も調べようと思えば調べられたけど、でも何か理由があってのことだろうし、きっと蒼汰から話してくれるって思って待ってたんだ。でも、思わぬところから分かった」
そう言って、彼はなぜか自分の携帯を取り出しその画面をこちらへ向けてきた。
そこに映し出された画像に体が固まった。
トイレの便器に股を開いて座り、ペニスを扱いている僕の姿がそこにはあった。
「これ、西條って奴の携帯からデータ取ったんだ。蒼汰にこんなことさせるなんて最低のクソ野郎だよな。本当は殺させる予定だったんだけど、運悪く警察が来たみたいで半殺しで終わってしまったらしいんだ。やっぱり人任せにするんじゃなくて、俺が行くべきだった。本当にごめんな」
物騒な内容にそぐわない甘い声で彼が謝る。
嫌な過去を突然目の前に突き出され困惑する僕だったが、その甘い声に対する不快感だけはしっかり頭の中に残った。
「でもまぁ、西條の携帯から明日香と同じ携帯の番号を探して蒼汰の名前が分かったわけだし、それには感謝してる。けど、こいつ本当に変態で、蒼汰の画像フォルダとか作ってたんだ。しかも盗撮したみたいな写真もあって……。ストーカーって本当にいるんだな」
気持ちが悪い、と彼は嫌悪を露わにした表情で吐き捨てた。
「蒼汰にまとわりつく虫を駆除できて本当によかった。でも西條がいなかったら俺たちは運命の再会ができなかったわけだから奴に対しては少し複雑なんだよな」
「運命の再会……?」
僕は眉根を寄せた。
再会という言葉が引っかかった。
確かに僕らが出会ったのは、西條のふざけたゲームがきっかけではあるが、僕らが会ったのはあの時が初めてだった。
僕らの出会いに、運命の再会なんて劇的な言葉が入り込む余地はない。
困惑する僕に、黒羽さんはにっこりと笑った。
「蒼汰、俺たちはずっと前に会っているんだよ」
彼の言葉にますます困惑は深まった。
運命的な響きを含んだ「ずっと前」という言葉に記憶を遡ってみたが、彼の名前にも顔にも憶えはなかった。
「あの、すみません、憶えていないのですが、いつの話でしょうか……」
記憶にないことを謝りつつも、本当に会ったことがあるのか、彼の妄想ではないのかという疑念は拭えなかった。
彼はそんな僕の疑念を感じ取ったのか、小さく笑った。
「本当に会ったことがあるよ。小学四年の頃の話だ。憶えていないのも無理はない。蒼汰はすぐに転校したし、俺の名字も変わったし、それにあの頃の俺は小さくて女みたいな顔で、……弱かった」
不甲斐なさを滲ませた声でそう言うと、彼はテーブルの上に置いた拳をぎゅっと握った。
「俺、その頃、いじめにあっていたんだ。殴られたり、蹴られたり、女みたいな顔をからかわれて女装させられたりして、屈辱だった」
過去の屈辱に耐えるかのように彼の拳は微かに震えていた。
「でも、そんな屈辱もある日を境に終わったんだ。……蒼汰のおかげで」
彼は震える拳に落としていた視線を上げ、僕を真っ直ぐ見つめてきた。
寄越された視線は微笑みを含んでいたが、その底にはそこはかとない仄暗さが漂っていた。
「……僕のおかげ?」
「ああ、蒼汰のおかげだ。いじめのターゲットが蒼汰に移ったから、俺はいじめられなくなった」
なるほど。
いじめられることはあったが、いじめられている誰かを助けたことなどなかったので、彼の言葉に合点がいった。
いじめる側が新しい獲物を見つけ、ターゲットを変えただけの話だ。
僕のおかげだなんて大層な言葉を用いたのは嫌みだろうかと思ったが、彼が僕を見る目には神への陶酔にも似た熱が潤んでいた。
「本当にあの頃は、毎日今日こそは死のうと思いながら生きていた。本当に辛かった。最低だけど、いじめのターゲットが蒼汰に変わった時は心底安心した」
申し訳なさそうに彼は言った。
けれど僕は彼を責める気持ちはなかった。
僕だってきっと彼の立場なら、身代わりの登場にほっとするに違いない。
「いじめられる蒼汰を見て助けたいとは思ったけど、あの頃の俺は弱くてそれができなかった。……でも今の俺ならそれができる」
今までの不甲斐なさを湛えた気弱な声が、嘘のように力強いものとなった。
こちらを見つめる瞳に、過去の後ろめたさなどは微塵もなく、無垢ともいえるほどの絶対的な自信で輝いていた。
「この先、西條みたいに蒼汰を苦しめる奴がいたら、俺が全員消してやる。あの時、蒼汰を守れなかった俺にできる唯一の償いだ。俺が、蒼汰を守る」
胸に刻んだ決意を告げるその厳かな口調に、薄ら寒さを覚える。
なんて慈愛と傲慢に満ちた言葉だろう。
守るという言葉に、傲慢な優しさを感じながら僕は内心で毒づいた。
そんな僕に気づくわけもなく、彼は続けた。
「だから蒼汰は俺を利用することに何も後ろめたさを感じることはない。これでひとつ問題は解決だ」
絡まった糸を解く丁寧さで、彼は僕らの間に横たわる問題を解いていく。
けれど彼が口を開くごとに、絡まった糸はさらに複雑さを増していた。
彼の言葉は、絡まった部分の芯には触れずその周りを無意味に弄っているだけだった。
だから僕は彼が避けているその芯に触れた。
「そう言ってくれてありがとうございます。……でも、僕は男です」
僕らの関係を壊すには十分な理由だった。
いくら彼が僕の黒い望みを受け入れようとも、同性であるということは揺るがない事実だ。
しかし、彼は何とでもないように笑った。
「……ねぇ、俺が“明日香”に声をかけた理由、憶えている?」
そう問われ、そう遠くない記憶を呼び起こす。
「あ……」
――明日香が俺の初恋の子に似ていて……。
まさか、と嫌な予感がこめかみを伝う。
それを肯定するように、彼はゆったりと微笑んだ。
「俺の初恋は、蒼汰だよ」
初恋という甘く重い言葉がべったりと絡みついた自分の名前に、心臓まで凍りつきそうなほどの寒気を覚えた。
思考が凍り固まった僕を置いて、彼の口はいびつな熱をほとばしりながら話を続ける。
「俺たちの再会は運命としか言いようがない。だから、何も問題はない」
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