第26話
鼓膜が腰砕けになりそうなほどの甘い声だった。
しかしその声を持ってしても、言葉から溢れ出る暗い熱を隠すことはできていなかった。
他人の嫉妬という感情に触れたのはこれが初めてかもしれない。
しかも自分がいつも抱えている劣等感からくる妬みの類とはまるで別物だ。
彼の嫉妬はむしろ、揺るがざる自信からくるものに感じた。
僕が自分のものであると信じて疑っておらず、その自信と事実を侵す第三者へ向けた憎悪が剥き出しの嫉妬だ。
その不遜で傲慢な嫉妬は、今まで他人から感じたどの感情より強く、激しかった。
だから僕は西條の名を挙げるのを躊躇った。
それはもちろん西條に同情してというわけでなく、名前を口にした途端、その嫉妬の炎がこちらにも飛び火してくるのではないかという不安からだった。
「ねぇ、教えて」
言い淀む僕に焦れたのか、耳元でねだるように言い募られ、首筋に鳥肌が立った。
全くもって引く気配のない彼に、僕はノートにペンを走らせた。
『自分で転んでできた傷です。誰かに怪我を負わせられたわけではありません』
半分は本当だ。
実際に膝の怪我は、自分で転んでできたものだ。
事実を織り交ぜることで、嘘に真実味を出そうとしたのだが、彼は僕の文字を見て、フッと笑みを零した。
そして文面を差し出した僕の手をノートごと一緒に片手で包み込んだ。
ぐしゃりと紙の乾いた悲鳴が手の中に響いた。
「ダメだろう、嘘をついたら。俺たちは恋人同士だから隠し事はなしだ」
子どもを諭すような優しい声音だが、目には少しの嘘も見逃さないとする鋭さがあった。
僕の嘘を確信している目に身を竦めると同時に、なぜ嘘だと分かったのか薄ら寒い疑念が過った。
その疑問に答えるようにして、黒羽さんは言葉を続けた。
「分かるよ、明日香のことなら何でも……と言いたいところだが、実はさっき脚の手当てをしている時に臭ったんだ。男独特の汚い下品な臭いが」
彼は忌々しげに言葉を吐き捨てて、僕のスカートに視線を落とした。
スカートを焼きつくしてしまいそうなほど強い視線に、幾重にも重なるフリルの下に身を潜めたペニスが震えた。
そうと知ってか知らずか、彼の手がそっと太腿の上に置かれた。
跳ね上がる心臓の余波を受けて肩がびくりと揺れる。
「そんなに恐がらなくていい。さっきも言ったように俺は明日香のことは全く怒ってないんだ。だって明日香は俺のことが好きだもんな。無理矢理襲われたんだろう? それなら明日香は何も悪くない。悪いのはその男だ」
細めた目に怯える僕を映しながら、彼は優しく言い聞かせた。
僕に、あるいは自分に。
「思い出すのも嫌かもしれないが、答えて欲しい。その男は明日香の知っている奴か?」
こちらを気遣いながらも、黙秘を許さない厳しさがひしひしと感じられた。
心臓を抉るような詰問の視線には、嘘やごまかしを容易に見透かす鋭さが宿っている。
嘘は通用しないと悟った僕は、ゆっくりと頷いた。
「そうか、なら話は早い」
黒羽さんは僕の手を放すと、ひしゃげたページを破いて、それを近くのゴミ箱に投げ捨てた。
嘘はいらないと切り捨てるような冷然とした手つきだった。
そして、僕にペンをしっかりと握らせた。
「そいつの名前をここに書いてくれ」
ノートをコンコンと指先で軽く叩いた。
困惑してノートと彼の顔を交互に見遣る。
彼は僕を安心させるように穏やかな笑みをこちらに向けた。
「大丈夫、何も心配はない」
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