第36話
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別れよう。
黒板に羅列される意味不明な数式を見ながら、もう何度目になるか分からない決心をする。
しかし今度こそ別れる。そう決めた。
今まで、僕に対するほぼ執着といっても過言でないほどの並々ならぬ好意は、気味が悪いが害はなかった。
だから耐えることができた。
だが、その好意が性的な欲望と絡み合い僕の体に向かってくるとなると話は変わる。
秘密がバレることも確かに怖いが、それ以上に自分と同じ男から欲情されるのはもっと恐ろしい。
そこには男としての本能的拒絶があった。
このまま彼とつき合えば、またあのように迫られることは目に見えている。
何としても早く手を打たなければならない。
けれど決心の先からまるで道がないように進めない。
机の横に提げた鞄に視線を落とす。
鞄の底には、親と黒羽さんだけしか連絡先を知らない寂しい携帯電話が沈んでいる。
西條との一件でなくした携帯の代わりに買った新しいものだ。
マナーモードにしているので着信音はしないが、次から次へとやってくる目に見えない彼の重く甘いメッセージを受け入れるしか為す術はなく、その小さな体をぎゅっと抱きしめている携帯の姿が目に浮かぶ。
今朝、新着メールと着信電話は五十件を越していた。
何かしらの強迫観念に追われているとしか思えない、常軌を逸した数だ。
その数字に目眩と恐怖を覚え、未だ開封できずにいた。
彼の家にあがったあの日から、メールの数が日に日に増えている。
内容はいずれも何とか僕を繋ぎ止めようと必死さが滲み出たもので、「今何している?」など平常を装った何気ない会話もあれば、「明日会える?」といった性急で直球的な本題であることもあった。
最初は、素っ気ない短文ではあったがちゃんと返信はしていた。
しかし終わりの見えないメールのやりとりに嫌気がさし一度、放置してしまった。
それがいけなかった。
メールの放置は、彼の病的な強迫観念に拍車を掛けてしまったようで、今のような現状を招いてしまった。
返信をすれば落ち着くのだろうが、今届いているメールひとつひとつに目を通し、さらにその返事を考えるのがひどく面倒だった。
そしてまた返ってくるであろう彼のメールに再び目を通して……、果てなく繰り返されるメールのやり取りを考えるだけで、吐き気にも似た疲労が胸の底からせり上げてくる。
やはりこんな面倒な事態を収束させるには、実際にあって別れを切り出すしかないだろう。
セックスを無理強いされた。だから別れる。
別れを切り出すには正当な理由だし、またとない絶好な機会だ。
なのに、彼のメールを受信するだけで、全く行動に移せないのは、返信をするのが面倒ということや、彼に秘密を明かすのが怖いということだけではなかった。
「河合君」
僕の机に影と高圧的な声が落ちた。
顔を上げると、僕が勝手に名前を借りている斉藤明日香が無表情で立っていた。
気づけば授業は終わっており、みんなそれぞれの友達の場所に散らばり談笑しあっていた。
ノートを開いて席に座ったままでいるのは僕だけだった。
斉藤さんは億劫そうに口を開いた。
「黒板、消していい?」
言葉だけみれば僕に選択権があるようだが、その言い方には「いいよ」という答えしか受け付けない威圧感があった。
その威圧感に気圧され一瞬頷きかけたが、ノートが真っ白なのに気づき慌てて首を横に振った。
「ご、ごめん、まだ書き写せてないから……」
僕の返答に、彼女はあからさまに眉をしかめた。
舌打ちひとつぶんの間を置いて、彼女は苛立ちの滲んだため息を吐いた。
「私、日直で消さないといけないんだけど。河合君が書き終わるまで待ってたらトイレいけないじゃん」
耳の奥まで粘つくぐちぐちした声で彼女は吐き捨てて、教室のドア付近で待っている友人たちの方へちらりと視線をやる。
友人とのトイレ休憩を少しでも削られるのが嫌でたまらないといった様子だった。
「あ、あの、書き写したら僕が消しとくから」
そう言うと、彼女は「ありがとう。じゃあよろしく」と言ってさっさと立ち去った。
感謝なんて微塵もこもっていない乾いた「ありがとう」に胸がざわつく。
さも当然といった風な傲慢さ含みながら、自分が礼儀知らずとみなされないよう発せられた口だけのお礼だった。
彼女が話していた時、終始寄越されていた上から見下ろす視線は、単に僕が座っていて、彼女が立っているからというだけからではないだろう。
こういった扱いには慣れている。
それが今まで普通だった。
だから彼女のこちらを見下した態度や言葉なんて今までだったらきっと気にしなかった。
なのに、今は胸が騒ぐ。
暗く物騒なざわめきが胸から溢れ出て体を震わせた。
西條の名前を黒羽さんに教えた時と同じ黒い感情が僕の全てを支配する。
前にテレビで美容整形手術に依存する女性たちのドキュメンタリーを見たことがある。
何度整形しても、次はここを、次はここを……と完全な美を求めて整形手術を繰り返す彼女たちに、女性の美に対する執着を哀れに思うと同時に、人間の欲の底のなさをそこに見たような気がした。
その時は他人事としてしか見ていなかったが、今まさに僕の心には彼女たちと同じ心理構造が出来上がっていた。
西條という、直接害を加える者がいなくなったら、次はいじめなどはしないが、僕に見下した態度をとる人間を消したいという凶暴な欲望。
ひとつ叶えば、またひとつ沸き上がる欲望のループが続いていく。
尽きることのない欲望に、自分のものでありながら、加速していくそれにぞっとした。
僕が黒羽さんに別れを切り出せないのは、億劫さや恐怖だけではなく、凶暴で身勝手な願いを叶えてくれる彼を手放すのがおしいと考えている部分が少なからずあった。
これではいけない。
僕の良心が警鐘を鳴らす。
人を傷つけたいという欲望を叶えるために、人を利用するなんて僕はいつからそんな人間に成り下がってしまったのだろうか。
このままじゃいけない。
僕の人間性を保つためにも、僕は彼となんとしても別れなければならないと感じた。
鞄の中をさぐって携帯電話を取り出す。
手のひらにのったそれがひどく重く感じた。
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