第31話
『ご両親はお仕事ですか?』
舌に残る甘ったるい味から意識を逸らそうと話題を変える。
すると、途端に彼の顔から嬉々とした笑みが抜け落ちた。
触れてはいけない話題だっただろうかとハラハラしたが、彼は淡々と答えた。
「ああ、親父は仕事でもうここ数年帰ってきてない。母さんもここしばらく帰っていない」
何かしら家庭の事情があるようだ。
しかし彼の口調は、暗い家庭の事情を気まずく思っている風でも、家族に対する嫌悪がにじみ出ているわけでもなかった。
ただ無駄なことを口にするのが煩わしいというような、家族に対する感情としてはあまりに冷淡なものだった。
それは、無駄を一切排したこの部屋と似ているように感じた。
『黒羽さんの部屋はあるんですか? よかったら見てみたいです』
僕の方が気まずさに耐えかね、話題を変える。
こちらの話題の方が彼の反応は良好で、黒羽さんは相好を崩した。
「ああ、別に構わない。ただ少し散らかっているが、それでもいいか?」
リビングを見る限り、散らかった部屋など想像もできない。
彼の中で散らかっているというのはどのくらいの基準なのか、また友達のいない僕は、同年代の男の子の部屋というものに興味があった。
僕が頷き返すと彼は立ち上がって、リビングの隣に位置する部屋の前へと案内してくれた。
「本当に散らかっているから」
念を押すように言って、黒羽さんが部屋のドアを開けた。
ドアが開いた瞬間、甘いにおいが部屋から溢れ出てきた。
甘いといっても、お菓子や花などを連想させる可憐な香りではなく、肺の壁にべっとりと泥を塗り付けるような重い粘りを含んだひどく不快なにおいだった。
部屋は、分厚いカーテンの縁に陽光が滲んでいるだけで、ほとんど暗闇といって差し支えなかった。
だから余計に甘いにおいが際立っていた。
「新しいお香を昨日焚いたんだが、少しきついな」
そう言って、黒羽さんは窓に近づきカーテンを開けた。
瞬く間に光が隅々まで行き届き、部屋の輪郭を明らかにした。
最初に目を奪ったのは、ドアの向かいに位置する壁だった。
正確に言えば、壁を埋め尽くすように並べられた紙だ。
一枚一枚は手のひらに収まるほどの小さな紙だが、それらが身を寄せあうようにして、あるいは兵隊の整列のように寸分の狂いなく並んだ様子は、否応なく僕の目を引いた。
広い部屋にベッドと棚、ローテーブルがぽつん、ぽつんと寂しく点在している中、壁に隙間なく密集したそれは異様な雰囲気を放っている。
胸に気味の悪さがかすめたが、気づけばその雰囲気に引き寄せられるようにして壁に近づいていた。
しかし、壁に貼り付けられた紙が何か分かった途端、足が止まった。
『オレンジジュース』
『かわいい、と言うのをやめてほしい』
『捨てます』
喉がごくりと鳴った。
紙に書かれたその癖のある丸文字は、間違いなく僕のものだった。
最後のページまで書き終え、役目を終えたノートを彼は執拗に欲しがった。
まさか、それがこのような形で残っているとは思いもしていなかった。
少しの乱れも許さないとする潔癖さを感じさせる紙の整列に反して、そこに書かれた言葉の内容はちぐはぐだった。
その言葉に至った過程を思い出せるものもあれば、一体どんな会話の流れで発したのか分からない言葉もあった。
いずれにしても僕にとっては記憶にとどめるほど重大な言葉ではなかった。
けれど、彼にとっては違ったようだ。
「並べてみるとすごいだろ?」
気づけば彼の気配が真後ろまで来ていた。
心臓が飛び跳ね、乱れた鼓動が呼吸をつっかえさせる。
彼が開けた窓から流れ込む風に、甘いにおいは薄まったが、冷たい風が首もとや手先など剥き出しの肌を舐める。
それから守るようにして、後ろから僕を包み込んだ。
「全部、明日香が俺にくれた言葉だ」
振り返らずとも、彼の視線が愛おしげに、そして誇らしげに紙に書かれた言葉を撫でているのが分かった。
「裏にも表にも書いてあるから、どちらを表にするかすごく悩むんだ。でも、その時間すら楽しい」
陶然と微笑む気配が耳朶をくすぐった。
それからも、壁に貼り付けられた紙について暗い熱を孕んだ声で切々と彼は語ったが、僕の頭には入ってこなかった。
ただ呆然と立ち尽くして目の前の壁を見つめる。
窓から吹き込む風にいたぶられるように紙の端を揺らされ、紙が乾いた悲鳴を上げる。
その姿は、この部屋から逃げ出そうとどうにかして足掻きもがいているように見えた。
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