第30話


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黒羽さんの家は、街から二十分ほどバスで揺られ、さらにバス停から五分ほど歩いた所にある閑静な住宅街にあった。


「ここが俺の家」


そう言って足を止めたのは、住宅街の中心にそびえ立つ高層マンションの前だった。

自分の住む小さな社宅をいくつ重ねたらこの高さになるだろうと考えながら見上げていると、その途方もなさにくらりと眩暈を覚えた。

彼に手を引かれるまま、マンションの中に入りエレベーターに乗る。

黒羽さんは喋れない僕を気遣って、いつも話題を振ってくれるのだが、今日は店を出た後からほとんど口を開かなかった。

口を動かすのは、次のバスに乗るだとか、バス停からしばらく歩くだとか、本当に必要最低限のことをこちらに伝える時のみだった。

エレベーターが上昇する普段なら気にならない音も、沈黙の中では耳をつんざくような不快さを伴って僕らを追いかけてきた。


彼の家の前に着くと、ホテルのようなカードキーを取り出してその扉を開けた。

玄関を上がり、奥のリビングへ通される。


「コーヒーを淹れるから、ここに座って待っていてくれ」


僕をソファに座らせると、黒羽さんはすぐ横のキッチンへ向かった。

落ち着かない気持ちで辺りを見回す。

広いリビングには、ソファとテーブル、それに大きなテレビ、それだけしかなかった。

本や雑誌、置物といった類のものはなく、無駄を一切排したそこは綺麗を通り越して、寂しくすらあった。

部屋にはその家に住む人間の内面が反映されると聞いたことがあるが、この居間からは住人の内面どころか、人が住んでいることを想像することさえ難しかった。

落ち着かないのは、はじめて人の家にあがるからだけではなく、この生活感のない殺風景さにもあるのかもしれない。


「お待たせ」


コーヒーをこちらに渡すと、黒羽さんは当然のように僕の横に腰を下ろした。

彼の太腿が僕の脚に寄り添うようにくっついたので、僕は逃げるようにして股をぎゅっと閉じた。

隣から感じる濃密な気配を紛らわそうと、もらったコーヒーに口をつける。

そのコーヒーの味に僕は驚いた。

それはミルクと砂糖を微調整して日頃作っている自分好みの味と寸分の狂いもなかった。舌に何ら違和感を与えることなく口内から喉へ、そして胃へ流れていく。

それがひどく気持ち悪かった。


「どう? 大丈夫? おいしい?」


遠慮がちに、けれど期待を湛えた瞳で黒羽さんが訊いてくる。

あまりに慣れ親しんだ味に気味の悪さを感じたが、彼の期待を裏切るのも憚られ頷いた。

すると黒羽さんは安堵の笑みを浮かべた。


「よかった。明日香って結構甘党だよな。外でコーヒー飲む時に砂糖を三杯は入れるだろう。それにミルクもコーヒーの色が消えるくらいたくさん入れる。いつもどんな味がするんだろうって思ってたんだけど、ちょっともらってもいいか?」


返事を待つことなく黒羽さんは僕のカップをするりと奪い取った。

そしてコーヒーを一口飲むと顔を顰めて苦笑した。


「やっぱり甘いな。でもこれで明日香の好みの味は覚えた。一緒に暮らし始めたらコーヒーを淹れるのは俺に任せてくれ」


寒々しい冗談と返されたカップを僕は曖昧な笑みで受け取り、そのままテーブルの上に置いた。



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