第32話

僕への歪な執着で溢れ返る彼の部屋を早々に引き上げ、僕らは再びリビングに戻った。

長くあそこにいると、愛という名の毒に骨の髄まで蝕まれ異様なあの部屋に溶けてしまいそうな不安で胸が詰まり、一刻も早くここを出なければと焦燥に駆られた。

だから寂しいくらい簡素なリビングに戻った時、濃密な空気に締め付けられた胸が安堵の吐息とともにほっと弛緩した。

気味の悪さを覚えるほど僕好みに作られた甘いコーヒーで満たされた胃の中を、澄んだ水で洗い流すような清涼感すらあった。


「あ、DVDでも観る? 明日香、映画好きだろう?」


黒羽さんがソファから立ち上がり、テレビをのせた棚からDVDをいくつか取り出してテーブルに並べた。

やはりそのDVDも、どれも僕好みのものばかりで、中には僕が大好きな監督のものもあった。

好きだと彼に教えた記憶はなかったが、デートでよく映画を観るので、その時の反応で分かったのかもしれない。

もしくは鑑賞後の僕の反応から好みを分析したのかもしれないし、あるいは僕の記憶に残っていないだけでこの監督が好きだと言ったのかもしれない。

彼の部屋に張り付けにされた僕の言葉をひとつずつ見れば答えは分かるだろうが、あの部屋に戻る勇気と気力は到底なかった。

僕は黒羽さんから一番離れた左端のDVDを指さした。

彼は「やっぱり、明日香はそういうのが好きだよな」と微笑みながら頷いて、DVDをセットし始めた。


僕好みのDVDのセレクトは気味が悪かったが、DVD鑑賞とはいい案だな、と思った。

鑑賞中は話さなくていいし、観終わった後は感想を交えて会話をすればいい。

そして何よりいいのは、帰るタイミングを作りやすいところだ。

映画の感想をいくつか交わしきりのいいところで『それじゃあ今日はこの辺で』と切り出せばいいのだ。


映画はフランスの監督が撮った恋愛ものだった。

カーテンを閉めた薄暗い部屋で、テレビの光が瞬き、物静かな音楽や役者の声が部屋の隅の暗闇に沈んでいく。

主人公の男が、ようやく意中の女性に声を掛けようとした時、自分の肩に彼の頭がのしかかった。

彼の方を向くと、僕の視線が自分に向いたことが嬉しいのか目元に微笑の気配を漂わせた。

僕は、彼のこういったところが特に嫌いだ。

映画館で鑑賞している時も、不意に指を絡ませてきたり、手を重ねてきたりすることがよくある。

その度に僕は暗闇に隠れながら眉をしかめた。

映像はもちろん、台詞や役者の演技、場面に合わせた音楽を体に取り込みながら虚構の世界と自分の五感をすり合わせ、ようやく映画の中に浸り始めたというのに、彼の手はいとも簡単に僕の意識を現実へ引きずり戻す。

一瞬殺意が脳裏をかすめるほど、僕は無遠慮なその手が大嫌いだった。


『どうしたんですか?』


その行動に明確な目的などないことを知りながらあえて冷たく訊く。

しかし彼に堪えた様子はなく、むしろ嬉しそうに「何でもないよ」と答えた。


『じゃあ映画を観ましょう』


もうこれ以上映画の邪魔をするなという意味を込めて彼にメモ帳を向けた。

画面の向こうでは、今こうしているうちにもどんどん話は進んでいき、置いて行かれるような焦燥感で僕は内心イライラしていた。

その苛立ちを煽るように彼はゆったりと微笑んだ。


「俺、明日香の映画を観ているときの横顔は好きだけど、映画自体はそんなに好きじゃないんだ」


そう言って、僕の頭の後ろに手が回された。

視界に黒羽さんしか映らなくなるほど近くに、彼が顔を寄せてくる。


「それに、時々、明日香が役者に恋をしているくらい真剣な眼差しをしているからついヤキモチを焼いてしまう」


微熱をはらんだ吐息が皮膚の上を撫でた。

ヤキモチと言いながら、互いの唇が触れるか触れないかの距離で嫉妬の言葉を紡ぐ唇は、嬉々として僕をいたぶろうとするようなかろやかささえあった。

彼は不意に自分の唇を僕の耳元まで持ってきて、そっと囁いた。


「ねぇ、いつも明日香の言うこときいているから、今日は俺の言うこときいて?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る