第35話
負けを言い渡すと同時に、彼は拳にさらに力を込めた。
僕の意志や自由を全てその拳の中に閉じこめ押し殺すような、勝者の傲慢さが滲んだ力だった。
僕を見下ろす彼の瞳には揺るぎない欲情の炎がしっかりと燃え上がっていた。
その周りを囲む目元はその熱に溶かされるように恍惚ととろけ、いやらしい表情に拍車を掛けていた。
目尻、鼻先、唇、顎、首筋、胸元……――。
蝋燭の蝋がポタポタと垂れるように、欲情の炎で溶けた視線が僕の体にその足跡を落としていく。
どこから手をつけようか吟味しているようでもあったし、視線で舐めあげその味を堪能しているようでもあった。
その視線に耐えきれず目をぎゅっとつむると、それを咎めるように瞼を舐められた。
それが一層恐怖をあおり、僕はさらに固く目を閉じた。
その反応を面白がるように、唾液で湿った睫を笑いの吐息が撫でた。
瞼を始点として、彼の唇は頬骨や口の端、首筋などあらゆる場所に舞い降りては、軽いキスをして、次の場所へ飛び立った。
それはよく映画でも見かける、濃厚な情事の前の軽い、けれど確かな淫靡さが漂う恋人たちの戯れだった。
彼としても恋人との他愛のない戯れを楽しんでいるつもりなのだろう。
しかし僕にとってその戯れは、秘密の露呈までのカウントダウンのようであり、軽やかなキスが皮膚に落とされる度に心臓が削られていくような心地だった。
そしてついに、彼の右手がタイツを脱がせ始めた。
その手をどうにかして止めたく脚をじたばたと動かすが、彼の脚に押さえられ全く効を奏さない。
タイツが鳥肌の立った肌を撫でるように滑っていく。
緊張ですり減った心臓が、悲鳴を上げる。
こわい、こわい、こわい。
秘密がばれてしまうことはもちろんだが、それ以上に男の繊細で醜悪な部分が暴かれることがこわかった。
西條にトイレで受けた屈辱と恐怖が脳裏から溢れて頭の隅々まで広がる。
こわい、こわい、こわい、こわい……――!
どこからともなく現れた震えが皮膚を伝い、体中が震える。
すると、彼の手がぴたりと止まった。
「……明日香?」
僕の震えを感じ取ったのか、キスを体中に散らしていた黒羽さんが顔を上げた。
すると僕の顔を見るやいなや、息をのむようにして固まった。
そして今までの粘着質な甘い空気を霧散させ謝り始めた。
「す、すまない。本当に嫌がっているとは思っていなかったんだ」
黒羽さんは手の拘束を解き、狼狽しながら謝罪と言い訳を連ねた。
急な態度の変化に僕は戸惑いを隠せなかった。
なぜ急に謝り始めたのか。
その疑問に答えるようにして彼の弁解は続いた。
「恥ずかしがっているだけだと思ったんだ。泣くほど嫌だったなんて思ってなかったんだ、本当にすまない」
彼の言葉にようやく自分が泣いていることに気づいた。
自由になった手の甲で目元を拭うと確かに濡れていた。
彼は腕を引っ張り僕の上半身を起こすと、ぎゅっと抱きしめた。
泣いている僕を安心させるような優しく余裕のある抱擁ではなく、何かに怯えてすがりつくようなものだった。
「そうだよな、明日香はついこの前西條にいやらしいことされたんだから、こわいに決まってるよな。それなのに俺は……察してやれなくてすまなかった」
涙の理由を彼は巧みに西條との出来事に繋ぎ、独自の解釈を謝罪に織り交ぜてきた。
それを信じきっているようでもあったが、一方で畳みかけるような口調は、自分に言い聞かせているようでもあった。
拒まれたのは自分ではなく、情事の影に亡霊のようにちらつく西條なのだと。
「でも……、でもっ、だからこそ俺は汚い男の手で触られた明日香の体を早くきれいにしてあげたかったんだ」
彼が必死に自分の潔白を言い募るたびに、今まで僕の中を支配していた恐怖が嘘のように引いていき、白けた気持ちがその場所を埋めていった。
僕は彼の体を押し、いつのまにかソファから落ちていたノートを拾い上げた。
そして『今日はもう帰ります』と書いて彼に見せた。
彼は見て取って分かるほどの絶望的な表情を見せたが、すぐに弱々しい笑みを繕って「分かった」と頷いた。
「送るよ」と言われたが、すげなく断って僕は彼の家を出た。
バス停に着いた時、日はすでに傾き始め、あどけない子供たちの声が夕焼けに響き始めていた。
時刻表を見ると、駅前に向かうバスが来るまで十分あった。
バス停のベンチに腰を掛ける。
プラスチックでできたそれは、今日一日分の冷たさを抱え込んでいて布越しにその冷たさが染み込んできた。
けれど汗ばんだ背中に比べれば、そんな冷たさは大したことではない。
マンションを出た時、一度だけ後ろを振り返った。
高くそびえるマンションのベランダは夕方ということもあり、ほとんど無人だった。
しかし、その中ひとつだけ人が立っているベランダがあった。
性別すら判断に難しい距離だったが、僕にはそれが彼だと直感的に分かった。
二、三歩後ずさって、僕は全速力で走り出した。
だが、すがりつくような湿った視線が背中から剥がれることはなかった。
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