第34話

彼の言葉が信じられず、唖然と彼を見上げる。

どうして? いつも僕の言うことは何だって聞いてくれたじゃないか?

寄越された戸惑いの視線を彼は優しく包み込むような声で答えた。


「ずっと、ずっと我慢していたんだ。映画を観ているときも、話しているときも、食事を一緒にしているときも、早く明日香の可愛い裸が見たい、明日香が可愛く喘ぐ姿が見たいっていつも思ってた」


彼の右手が首筋から肩、二の腕をするりと撫でる。

鳥肌の感覚が骨に染みる程、背中が粟立った。

彼は僕を女の子だと思っているのだから当然といえば当然の欲望だが、しかし男の自分にそれが向けられていたことに自分の秘密は棚上げでぞっとした。


「もう我慢できない。でも、俺にしてはすごく頑張った方だ」


近づいてくる唇から、僕はとっさに顔を背けて逃げた。

一瞬、黒羽さんは目を眇めたが、すぐに余裕のある笑みを浮かべた。

そして僕の頬に手を添えて容易に自分の方へ向かせた。


「こら、だめだろう、そんな可愛い意地悪をしたら。抑えがきかなくなる」


彼の作ったコーヒーのように甘い声で叱って、そのまま唇を重ねてきた。

口の中で舌特有の唾液を纏ったざらつきが絡み合う。

彼の服を引っ張って、何とか引き剥がそうとするが、全く意味を持たない。

そんな抗いを宥めるように、彼の舌は咥内を撫で回した。

さらに彼の手は、ワンピースの裾からするりと中に忍び込み、僕の横腹をさすった。

乾燥した僕の皮膚に、彼の汗ばんだ手のひらがしっとりと滲む。

テリトリーに踏み込まれるような不躾な感覚に、僕の体がびくりと跳ねた。

その反応に、彼は愛おしげな吐息を漏らして笑った。


「怯えてるのか? ……それとも感じてる?」


くすくすと笑う気配が耳たぶに吹きかかる。

そこから燃え広がるように熱が顔中に広まった。

その姿を満足そうに見下ろしながら、彼は手を僕のタイツに伸ばした。

最大の秘密が隠れたそこに触れようとするその手を僕は慌てて掴んだ。

彼は目を丸くしたが、すぐに柔らかな微笑でその目を細めた。


「大丈夫。怖がらなくていい。優しくするから」


僕の不安にまるでかすりもしないとんちんかんな優しさだ。

激しく首を横に振るが、彼は困ったように笑うだけで、タイツに掛けた手を引く気配はない。

こちらも引くわけにはいかず、彼の手首を掴みこれ以上彼の手が先へ進まないよう阻止する。

しかしワンピースの下の攻防戦は、あっけなく終止符を打たれた。

今まで僕の右手をソファに縫いつけていた彼の左手が、するりとワンピースの下で攻防戦を繰り広げていた僕のもう片方の手を自分の手から引き剥がし、右手とまとめて頭上に押さえつけたのだ。

またひとつ体の自由を奪われ、ほぼ絶望に近い気持ちで彼を見上げた。

僕の心情を知ってか知らずか、彼は愛おしげに微笑んだままだ。


「あれしよう、勝った方の言うことをきくゲーム。もし明日香が俺の手から十秒以内に抜け出せたら、明日香の勝ち。抜け出せなかったら俺の勝ち。それじゃあ、いーち……――」


僕の答えをきくことなくゆっくりと、しかし着実にゴールへ迫り来るカウントダウンが始まった。

勝手に押し付けられたゲームだが、しかし僕にとってはピンチを切り抜けるチャンスでもあった。

勝った者の言うことをきくという言葉に縋るようにして、何とか彼の手から逃げ出そうともがくが、上から圧し掛かる力もあり、彼の拳の中で身じろぐくらいしかできなかった。


「――……はーち、きゅーう、じゅーう」


無駄な足掻きを笑うように、彼は厭味ったらしいほどゆっくりとカウントダウンにピリオドを打った。

唾液まみれのじっとりとした「じゅーう」が染みついた鼓膜に、意地の悪い軽やかな笑いが吹きかかった。


「はい、残念。明日香の負けだ。だから俺の言うこときいてくれ」

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