第37話
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別れの準備は万全だった。
携帯のアドレスも電話番号も変更し終わった。
待ち合わせ場所は、交番が近くにある昼時のカフェを指定した。
もし彼が暴力沙汰を起こしたとしても、周りの人が助けに入ってくれるかもしれないし、もしくは近くの交番に助けを呼んでくれるかもしれない。
いざなれば自力で交番に駆け込めばいい。
彼がどういった行動にでるかは分からないが、逃げ道さえ考えていれば大丈夫だろう。
家の住所まで知られているわけではないのだ。
今日さえやり過ごせば、後は問題ない。
電話番号を変更したばかりの携帯を持って、僕は待ち合わせのカフェへ震える足を向かわせた。
やはり彼はいつも通り約束の時間前に来ており、窓際の席に長い脚を組んで待っていた。
テーブルにひじを突き、窓の外を食い入るようにじっと見ている。
人ごみの隙間を引き裂いて僕を見つけだそうとするような鋭い視線に足が止まったが、深呼吸をして再び歩みを進めた。
テーブルに近づくと、彼はこちらに勢いよく顔を向けた。
そして僕の顔を見ると張り詰めた表情を緩ませ、安堵に満ちた笑みを浮かべた。
「久しぶり。何、頼む? あ、ここ今イチゴフェアしてるらしくて、イチゴのパンケーキ、イチゴパフェなんかもあるぞ。期間限定だって。つい頼みたくなるよな」
腰を下ろした僕に、彼は矢継ぎ早にメニューを差し出しながら言った。
平常を装ってはいたが、言葉の羅列でこの間のことを僕の頭の中から押し流そうとするかのような、忙しく必死な口調だった。
『コーヒーだけでいいです』
彼とゆっくり食事をするつもりなど毛頭ない僕は、メニューを受け取らずに答えた。
そしてお冷を持ってきた店員さんに、彼が口を開く前に『ホットコーヒーをお願いします』と書いたページを見せた。
彼は少し寂しげに目を伏せて、メニューをテーブルの端へ置いた。
「……この間のこと、まだ怒ってる?」
こちらの様子を窺う臆病な視線を寄越しながら、彼はおそるおそるといった様子で訊いてきた。
少し考えてから首を横に振った。
恐かったが、怒ってはない。
彼を愛していていたのなら、無理矢理押し倒すという行為に怒りと失望を覚えたかもしれないが、僕には生憎彼に対してそういった甘い感情はなかった。
僕の心情を知らない彼は「よかった」と安堵の吐息を口元に滲ませた。
「実は心配していたんだ。明日香が話があるって言うから別れ話でもされるのかと思って」
おどけて笑いながら、しかし彼の瞳は自分の冗談を否定してくれと懇願するかのような湿った臆病さを湛えていた。
心臓に爪を立てて縋るような視線に躊躇いが生じたが、僕はその視線を振り払ってノートにペンを走らせた。
『ごめんなさい。その通りです。今日は別れるために来ました。私と別れてください』
差し出したノートに落とされた視線が強張っていくのが、ノート越しでも手の平に伝わった。
驚きのあまり唇はおろか、心臓や肺までもが動きを止めたかのように彼の全てが沈黙した。
「……どうして? やっぱりこの間のことが理由か?」
やっと口を開いた彼の顔は、今にも泣き崩れてしまいそうな危うさで震えていた。
この間のことは、理由ではなくきっかけにすぎない。
そう答えようとしたが、それを遮るように彼が言葉を続けた。
「それなら謝る。本当にすまなかったって思っている。あの後もずっと後悔していたんだ。明日香の気持ちをもっと考えればよかったって。明日香がまだ嫌なら、俺は待つよ。もうあんな無理矢理なことはしない。明日香がいいって言うまで待つから」
必死さがほとばしる早口で畳み掛ける彼に、圧倒されながらも僕は首を振った。
『確かにこの間のこともありますが、それだけではないんです』
「なにが悪かった? 他にもあるなら直すから全部言ってくれ」
身を乗り出さん勢いで、彼は言い募った。
僕は頭の中のシナリオをなぞるように、ノートに言葉を書き連ねた。
『西條に怪我を負わせたのは黒羽さんですよね?』
この問いに、彼の呼吸が固まった。
否定も肯定もせず、逡巡する間が続く。
それは人に怪我を負わせたことに後ろめたさを感じて答えられずにいるというよりも、否定と肯定どちらが僕の質問の意図に合っているのか図りかねているといった様子だった。
『別に責めているわけではありません。私が望んだことです。黒羽さんは私が望んだことをただ実行してくれただけです。そのことには感謝しています』
「じゃあ何で……っ」
『私はきっとこのまま付き合えば、黒羽さんの強さを、自分のわがままのためだけに利用し続けると思います。私をいじめる人、蔑む人、嫌いな人、態度が気に食わない人……。黒羽さんが消しても消しても切りがないほど、次から次へと出てきます』
願いが叶えばまた次へ、潔癖な欲望は少しの汚れも許さない。
底なしの欲望は、予想不可能だ。
それが恐ろしい。
すると、ペンを持つ手に黒羽さんの手がそっと重なった。
手元から顔を上げると、そこには優しく微笑む彼の顔があった。
「明日香は優しいな」
慈しむような視線が僕の頬を撫でた。
「別に利用されたって構わない。むしろ利用してくれていい。それは俺を頼ってくれているってことだろう? そんな嬉しいことはない」
誇らしげにうっとりと唇をしなわせる彼に、僕は唖然とした。
自分にあまりに都合のいい解釈だ。
しかし思い返せば、彼は僕の言動にいつもそういった解釈をしていた。
そんな彼に別れの理由をいくら提示したとしても、無駄なのかもしれない。
明日香とは相思相愛であると疑わない妄想めいた確信を持つ彼にかかれば、どんな理由も別れるに足らない他愛のないものに変えてしまう。
だから、僕は彼の中から明日香という存在を消す。
僕は深呼吸をして、彼の手の中からスッと抜け出した。
『理由はそれだけじゃありません。私は、黒羽さんに嘘を吐いています』
「嘘?」
震える心臓を宥めるように深く息を吸う。
そして息を吐き出すと同時に、今まで固く閉ざしていた声帯を震わせた。
「ごめんなさい。僕は男です。ずっと嘘をついてきました」
男らしい声ではないが、どう頑張っても女の子の範疇にはおさまらない低い声。
彼の揺るがない愛にひびを入れるには十分に違いない。
黒羽さんは、目を見開いて僕を凝視している。
あれだけ次から次へと自分に都合のいい解釈を口にしていた唇も、放心したように動かない。
僕は彼の動向をじっと見詰める。
心臓が今にも皮膚を突き破りそうな勢いで鼓動していた。
彼が茫然となっている間に逃げた方がいいのかもしれないとも思ったが、ここでしっかりけりをつけておかないと、後から面倒なことになりそうだったので、逃げ出したい衝動を何とか抑えた。
彼は片手で頭を押さえて俯いた。
混乱する頭を必死で整理しようとしているようだった。
肩が震えている。
真実を理解しはじめた頭に少しずつ怒りが込み上げてきているのかもしれない。
僕は彼から向けられる怒りに備えて身構えた。
しかし、彼の口から出てきたのは怒りの言葉ではなかった。
「……ふははっ。やぁっと、言ってくれた」
深い闇の底から這い上ってきたような暗い声が、俯いた髪の隙間から漏れ響いた。
そのねっとりとした陰湿な響きに、緊張で乱れていた鼓動が嘘のように固まった。
彼が顔を上げた。
怒りなんて無縁の微笑みを浮かべていたが、理解できない微笑は、怒りよりもよほど恐ろしかった。
予想外の反応に固まっている僕に、彼はくつくつと喉を震わせた。
「俺が明日香のことで知らないことがあるわけがないだろう。ずっと待っていたんだ、明日香が、いや、蒼汰そうたが本当のことを言ってくれるのを」
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