第25話

タイツをはき終えベンチに腰を下ろすと、気配を察知したのだろう、黒羽さんはすぐに僕の方へ向き直った。

そして冷却シートを貼った頬にそっと手を添えて、僕の顔を自分の方へと向かせた。


「傷、残らないといいな」


頬を撫でながら黒羽さんが言う。

傷を刺激しないよう細心の注意を払った慎重な手つきだった。


「あ、もちろん、明日香の顔に傷のひとつやふたつできても嫌いになったりしないからな」


黒羽さんは僕を安心させるように微笑んで優しく言い加えた。

はっきり言って黒羽さんに嫌われようと僕にとってはどうでもいい、いやむしろ好都合なのだが、彼の口ぶりは、まるで僕の頭の中がその心配で埋め尽くされており、それを優しく掬い取ってやろうとする、見当違いな慈愛で満ち満ちていた。

その不遜な優しさに寒々しさを感じながらも、僕は口の端を持ち上げて何とか笑みらしきものを作った。

それを安堵の笑みと解釈したのか、黒羽さんはさらに相好を崩した。

そして頬に添えた手から親指を僕の唇へと伸ばし、その輪郭をなぞった。

乾燥して皮がむけた部分に、微熱を孕んだ指先がしっとりと妙に馴染んだ。


「……むしろ傷が残ってくれた方がいいかもしれない」


突如、夕闇でぼやけた唇の輪郭がうねった、ように感じた。

さっきまでは傷が残らないかしきりに心配していたのに、突然発言を翻すものだから、僕は目を丸くして彼の顔を見上げた。

不穏な言葉を放った唇は、柔らかな微笑を浮かべたままさらに続けた。


「もっと深く大きな傷でもいいくらいだ。むしろ誰もが思わず目を逸らしてしまうような醜い傷痕の方がいい。そうしたら俺だけが真っ直ぐ明日香を見詰められる唯一の人間になれる」


どろり、と蕩けた黒い瞳に僕の姿を閉じ込めながら、陶然とした口調で言う。

そこには歪な熱が滲み出ていて、その言葉が耳に届く度に、鼓膜から頭の中に向かってじくじくと焼き爛れていくような感覚を覚えた。


「あ、でもこの傷が残るのは嫌だな。他の人間が残した傷が残るなんて許せない。傷を見る度に明日香の意識がそいつのことで埋め尽くされる、いや、ほんの少し脳裏にかすめるだけでも嫌だ」


潤んだ恍惚の熱が発火寸前の憎悪と置き換わり、頬に向けられた視線に険が含まれる。

さっきまでの労わるような、愛しむような、慈愛に満ちた視線が嘘のようだ。

その憎悪は視線だけに留まらず、頬に添えた彼の手にまで燃え広がっていた。

冷却シート越しに傷を撫でる手に力が増し、それはほぼ抉ると言っても差し支えないほどの強さになっていた。

はち切れんばかりに熱と痛みで腫れあがったそこは敏感で、思わず顔を顰めた。

ハッとしたように黒羽さんは慌てて頬から手を離した。


「す、すまない。想像しただけでつい腹が立って……」


言い訳にもならない言葉であたふたと弁解と謝罪を連ね、そして再度頬に手を添えた。

先ほどまで孕んでいた黒い感情を霧散させた、優しい手つきだった。

けれどその繕ったような優しさに、警戒の姿勢は崩せなかった。

全身に緊張を滾らせ身を固くする僕に、黒羽さんは悲しそうに目を伏せ、ぽつりと呟いた。


「初めてなんだ。こんなに嫉妬でどうにかなりそうなのは……」


ひゅう、と冷たく高い声を上げる冬の風に掻き消されそうなほど弱々しい声だった。

頬に添えた手が、自分の不甲斐なさを恥じるように震えている。

黒羽さんは伏せた目を上げ、真っ直ぐ僕を見詰めた。


「でも、だからといって明日香を責めているわけでも、怒っているわけでもない。それは信じてくれ」


乞うような必死な響きを含んだその声に、言葉の意味を考えることなく頷いた。

黒羽さんは僕の反応にほっと安堵の息を吐いた。

そして、僕を包み込むように抱きしめて耳の中に息を吹きかけるようにして囁いた。


「信じてくれてありがとう。……俺の怒りが明日香に向かっていないことが分かったなら教えて欲しい。一体誰が、明日香をこんな目に遭わせたのか」

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