第27話

何の心配を指しているのか分からなかったが、彼の口調には思わず口を開いてしまいそうなほどの心強さがあった。

しかし僕は開きかけた口を慌ててぎゅっと結び、ノートに文字を走らせた。


『黒羽さんが思っているようないやらしいことをされたわけではありません。なので気にしないでください』


ここで西條の名前を書けば、この後彼に何らかの報復がなさえることは容易に想像がつく。

僕は黒羽さんの、言葉の向こう側で燃え盛る怒りを鎮めるべく、努めて冷静な語調でなだめた。

もちろん西條の身を案じてではなく、西條と接触することで僕の秘密がばれるのを危惧してのことだ。


「じゃあ、ここの臭いは何なんだ」


太股に置いた手から親指を伸ばして、えぐるように太股の内をなぞられ、背筋に鳥肌が駆け上がった。

彼は怒っている。

鋭さを増した詰問の目と、力の加減を忘れた親指に、そのことがひしひしと感じられた。

しかもその怒りは僕を汚した者に対するだけのものでなく、なおも嘘を重ねる僕にも向けられていた。

僕は彼から初めてら向けられた負の感情に、体を震わせた。

その震えを感じ取った黒羽さんは、ハッと我に返ったように目を見開き、険しい表情を霧散させた。

そして取り繕うように僕を抱き締め、未だ戦慄の名残のある僕の背中を撫でさすった。


「すまない、怖かったよな。怖がらせて本当にすまなかった」


黒羽さんは、縋るように謝罪の言葉を繰り返した。

僕はそれを拒むことも受け入れることもできず、ただその腕の中で震えていた。

功を奏さない謝罪が尽きると、彼はそっと耳元で囁いた。


「……でも明日香は悔しくないのか」


その言葉は心の隙間に滑り込むようにしてするりと僕の中に入ってきた。

僕の体から震えが一瞬にして消え去った。

その隙に身をねじ込ませるように、彼はさらに畳み掛けた。


「悔しくないわけがないよな。悔しいに決まっている。体も心も傷つけられて、自分という存在をないがしろにされて悔しくない人間なんているはずがない」


心の奥底で燻ぶる暗い感情を煽り立てる蠱惑的な声だった。

彼の言葉に、屈辱的な記憶が熱を持ち始める。

狭いトイレ個室に充満した卑猥で醜悪な臭い。

背中に貼りつく劣情に汗ばんだ気配。

命令を拒めば暴力でねじ伏せられ、命令に従えば侮蔑たっぷりに嘲笑われ、男としての尊厳を踏み躙られたあの忌々しい記憶に、五感全てが羞恥と屈辱でひりつく。

彼の言う通り、悔しくないわけがなかった。

いや、悔しいなんて簡単に言葉にできる感情ではなかった。

言葉にしようとそれを声で包み込もうと、内から溢れるマグマのような感情にどろどろに融かされ、言葉になり損ねた声の残骸が無意味に口から零れ落ちるだけだろう。

それほどに、この感情は名状しがたく、また既存の言葉の内におさまりきれないほどの激しさを持っていた。

焚きつけられた感情は抑えようがなく、炎が酸素を吸いこむように、それも理性を奪って肥大していった。

これを鎮めるのはもはや自分には不可能だった。

公園に来るまでは、西條と似た俳優の写真を脳内で引き破くことで少し憂さ晴らしができていたが、今はそんなまやかしでは通用しない。

“本物”でなくてはだめだ。

その思いに至ったその時、黒羽さんが唐突に体を離した。

そして、ペンを握ったままの僕の手をノートの上に置かせ、もう一度言った。


「さぁ、そいつの名前を書いてくれ」


まるで僕の心の変化を全て見透かしたようなタイミングだった。

僕の中に不安や躊躇いはすでになくなっていた。

燃え盛る激情に促がされるままに、彼の声に誘われるように、僕の右手は動き始めた。

西條智明さいじょうともあき、その四文字を書くだけに全身のエネルギーが右手に集中し、書き終わった後は、疲労を伴った脱力感が全身に広がった。

黒羽さんは頭に焼き付けるようにノートの文字をじっと見詰め、それからノートを閉じた。


「教えてくれて、ありがとう」


再び、黒羽さんは僕を抱きしめ頭の上に何度もキスを落とした。

僕はそのキスに嫌悪や薄ら寒さを覚える余裕がないほどに、その時疲れ果てていた。







翌日、学校に行くと、いつも教室の中心で派手な男女に囲まれ軽薄な笑みを浮かべている西條はいなかった。

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