黒猫のうた
海斗は、明日菜と一緒に外を歩いて行く。手を繋いで歩く姿は、歳の離れた兄妹のようにも見える。
道中、明日菜はあれやこれやの話をした。学校のこと、姉である今日子のこと、好きなアニメやマンガのこと、などなど。彼女が一方的に喋り続け、海斗が相づちを打つ形である。明日菜はお出かけも嫌いではないらしく、ご機嫌な様子で語り続けている。その姿は可愛らしく、見る者がいれば思わず微笑んでしまうだろう。
もっとも、海斗は微笑んでいなかった。相づちを打ちながらも、周囲の様子には常に気を配っていた。いつどこで、ドンパチが始まるかわからないからだ。まさか一般市民を巻き添えにはするような真似はしないだろうが、用心するにこしたことはない。
やがて、ふたりは目的地に到着した。廃工場の跡地である。かつて、瑠璃子が住んでいた場所だ。
「明日菜、ここだよ。暗いから、足元には気を付けるんだぞ」
言いながら、海斗は懐中電灯を取り出す。一方、明日菜は廃工場の中を不安そうな目で見ている。中は暗く、お化け屋敷のような雰囲気に満ちていた。さすがの天然少女も、足を踏み入れるのはためらっているようだ。
「何をするの? ここは入ったらいけない所じゃないの?」
「ああ、本当は入ったらいけない場所だ。でもな、ここには困っている奴がいるんだよ。お前に、友だちになってあげて欲しいんだ。さあ、行ってみようぜ。大丈夫、俺がついているから怖いことなんてないよ」
そう言うと、海斗は明日菜の手を握る。
ふたりは、廃工場の中を慎重に進んで行く。工場の中は、大型の機械があちこちに放置されたままになっている。さらに、時おりカサカサという音もする。虫や小動物がいるのだろうか。明日菜はおっかなびっくりという様子で、周囲をちらちら見ていた。恐怖より、好奇心の方が勝っているらしい。
やがて、海斗は立ち止まった。
「確か、ここらへんだったよな。ルルシー、出ておいで。おーいルルシーちゃん、どこ行ったよ? 海斗ちゃんのお出ましだよ」
言いながら、海斗はビニール袋を取り出した。すると暗闇の中から、にゃあと鳴く声がする。
途端に、明日菜の表情が変わった。
「ね、猫さんなの? 猫さんいるの?」
その声は上ずっている。猫がいると知り、興奮しているらしい。
「ああ、猫がいるんだよ。俺の友だちさ」
答えると同時に、暗闇の中から一匹の黒猫が姿を現した。三メートルほど離れた位置で立ち止まり、尻を地面に着け前足を揃えた体勢で、じっとこちらを見ている。
「明日菜、こいつは猫のルルシーちゃんだ。可愛いだろ」
「うん、とっても可愛いの」
言いながら、ルルシーを見つめる。海斗は微笑みながら、魚の干物をちぎって放ってあげた。
すると、ルルシーは近づいてくる。地面に落ちた干物の切れ端の匂いを嗅ぎ、目を細めながら食べ始めた。
食べた後、美味しかったな……とでも言いたげな様子で舌を出し、口の周りを丹念に舐めている。その仕草は、本当に可愛いらしい。
「ねえ、あたしも餌をあげたい。あげてもいい?」
明日菜の言葉に、海斗は干物の入ったビニール袋を差し出した。
「ほら、これを小さくちぎってあげるんだ」
「うん、わかったの」
少女は、言われた通り干物をちぎった。ルルシーの近くに、そっと放る。
「おいで猫さん、美味しいよ。とっても美味しいから、いっぱい食べて」
そう言いながら、ルルシーを見つめる。猫の方はちらりと明日菜を見た後、干物の切れ端をパクッと食べた。
「食べたの……海斗、猫さん食べてくれたの」
本当に嬉しそうに言っている。海斗は微笑みながら、彼女の頭を撫でた。
「あいつの名はルルシーだよ。明日菜も、ルルシーって呼んでみな」
「ルルシーさん、こっちに来て。美味しいの、いっぱいあるよ」
そう言いながら、干物をちらつかせる。その姿を、ルルシーはじっと見つめていた。
しばらくして、大丈夫だと判断したらしい。明日菜に向かい、にゃあと鳴いた。喉をゴロゴロ鳴らし、とことこ歩いて来る。明日菜を恐れる素振りは微塵もない。
そんな黒猫に、明日菜は手を伸ばした。恐る恐る、といった様子で頭に触れる。ルルシーは嬉しそうに、明日菜の手に首を擦り付けた。
「ルルシーさん、触らせてくれたの。とっても可愛いの」
明日菜の顔に、笑顔が浮かんだ。そんな彼女を見ている海斗の心も、幸せな気持ちに包まれる。瑠璃子が去ってしまった悲しみが、多少なりとも薄れていく……そんな気がした。
・・・
真幌市の町外れにあるゲイバー『キャッツアイ』は、今夜も盛況だった。何せ、かつて真・ジャパンプロレスの若手エースだったプロレスラー、グレート小林の経営する店である。
グレート小林といえば、真剣勝負なら最強ではないか、とファンの間で噂されていたプロレスラーだ。コアなプロレスファンにとっては、まことに魅力的な店である。
もっとも、今日に限って沢田組のヤクザたちが来ているのが困りものではある。三人の組員が、店の奥に陣取っていた。他の客に迷惑をかけるような真似こそしていないが、一目でヤクザとわかる格好だ。その存在自体が、他の客にいらぬ緊張感を与えてしまう。
それでも小林は、顔に愛想笑いを浮かべ、黒いドレス姿で応対していた。ヤクザにも堅気にも、分け隔てない態度である
そんな中、店の扉が開いた。また、客が入ってきたらしい。
「あら、いらっしゃい」
言葉と同時に、小林は笑顔で振り向く。だが次の瞬間、その表情は凍りついてしまった。
「うっ、ううう……」
店に入って来た者は、明らかに態度がおかしかった。
奇妙な呻き声を上げ、震えながら立っているのだ。年齢は二十歳前後か。パンチパーマの頭に安物のジャージを着ている。顔色は悪く、さらに目は血走っていた。
その震える両手には、黒光りするオートマチック式の拳銃を構えている──
「て、てめえらあぁぁ! ぜっ、全員ぶっ殺してやる! うわあぁぁぁ!」
叫ぶと同時に、拳銃のトリガーを引く男。直後、天井に向けて拳銃を発砲した。
突然の出来事に、客たちは叫び、悲鳴を上げながら身を隠す──
「てめえ! 何しやがるんだ!」
野獣のような咆哮と同時に、男に襲いかかっていく小林。ヤクザはともかく、堅気の客だけは守らなくてはならない……その思いが、彼を突き動かしていたのだ。
小林は、巨体に似合わぬ素早い動きで男に接近して行った。顔面に強烈なパンチを見舞う。
男は、小林のパンチをまともに顔面に食らった。鈍い音ともに吹っ飛び、壁に叩き付けられる──
だが、小林の方も倒れていた。己に向かって来た大男に対し、若者は恐怖のあまり反射的に拳銃を発砲していたのだ。
その弾丸は、小林の心臓を貫いていた──
皮肉なことに、店に居た沢田組の組員たちは、かすり傷すら負っていなかった。彼らは皆、テーブルの下や物陰などに身を隠していたのである。
ヤクザの鉄砲玉とおぼしき若者が、震える手で乱射した拳銃は、標的であるはずの沢田組のヤクザには一発も当たらず、まったく無関係な一般人である小林の命を奪っただけに終わったのだ。
撃たれた小林は、痛みを感じる間も、自身の死を意識する間もなく死んだ。店に来ている堅気の客を守るため、彼は反射的に飛び出して行った。
もともと優しく、責任感の強い男である。店にいる堅気の客には、絶対に怪我をさせたくなかった。体を張って客を守ろうとしたのだ。
その結果、小林ひとりだけが死んでしまった。即死だったのが、せめてもの救いだろうか。
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