始まりのうた

 三十年前、とある場所にて──




「おい、お前ら。さっさと並べ。巡回のデコスケ(警官を指すスラング)が来る前に、早く済ませちまうんだ」


 ここは、古い倉庫の跡地である。一応、建物の形は残っているものの、中には何も無い。

 そんな倉庫の前に集まっているのは、数人のホームレスだ。皆、汚ならしい服を着て髪もボサボサである。恐らくは、何日も風呂に入っていないのであろう。周囲には、様々なものが入り混じった、独特の匂いがたちこめている。

 そのホームレスたちの前で指示をしているのは、黒いスーツと赤いシャツを着た若者だ。見た感じは、二十歳前後であろうか。ソフト帽を被った頭を左右に動かし、辺りの様子を油断なく窺っている。一見すると、売れないホストもしくは売り出し中のヤクザのようだ。もっとも顔立ちは悪くはないが。

 また、軽薄そうな顔つきではあるが、人の良さそうな雰囲気も合わせ持っている。恐らく、生まれ持った性質なのだろう。

 一方、ホームレスたちは青年の指示に従った。一列に並んで、左腕の袖を捲り上げる。

 すると、若者は注射器を取り出した。さらに、消毒液を含んだ脱脂綿で針の先を拭く。

 次の瞬間、ホームレスの腕に針を突き立てた。


「他の連中には絶対に秘密だぞ、いいな。次は明後日だ。じゃあ、次の人」


 ホームレスにそう言うと、若者は千円札を手渡した。ホームレスは笑みを浮かべ、頭を下げながら去って行く。心なしか、彼の顔色は若干ではあるが悪くなっているように見えた。

 まるで、麻薬を注射しているかのような行動だ。しかし、実際は血を抜いているのであった。若者は器用にホームレスの静脈に針を突き刺し、少量の血液を抜いていく。下手な看護師より、ずっと手際がよかった。




 並んでいた者たち全員から血を頂戴すると、若者は倉庫の奥へと進んで行く。

 すると、大柄な中年男が暗闇から姿を現した。身長は若者より遥かに高く、横幅も大きい。まるで冷蔵庫のような分厚い体つきをしている。頭は綺麗に剃りこまれたスキンヘッドであり、顔もいかつい。

 しかし、そんな大男の口から出た言葉は、見た目からは掛け離れたものだった。


「海斗ちゃん、本当に気を付けてよ。アンタが何やってるか知らないけど、アタシはパクられるのは御免だからね」


 オネエ言葉でそう言うと、大男は体をくねらせながら有田海斗アリタ カイトの尻を叩いた。すると、海斗は顔をひきつらせながら飛び退く。


「わ、わかってるよ。だから、どさくさ紛れにケツ触るな」


「いいじゃないのよう。減るもんじゃあるまいし」


 言いながら、なおも近づいて来る大男。それに対し、海斗は顔をしかめて見せた。


「減るんだよ! 小林さん、あんたに触られると俺の中のSANサン値が減るんだって!」


「はあ? 何なのよサンチって!?」


「何だよ、知らねえのか。SAN値ってのは、俺の中の正気の数値だよ!」


 言いながら、海斗は小林を睨みつける。それに対し、小林は拗ねたような表情をして見せた。




 翌日は日曜日だ。

 海斗は、昨日と同じ黒いスーツとソフト帽を被ったスタイルでのんびりと歩いていた。彼は今、第二の母校とも呼べる場所へと向かっているのだ。その表情は、昨日とはうって変わって明るいものだった。

 大きな布袋を片手に、ずかずか歩いて行く。彼の前には、古びた木造の建物がある。木の塀に囲まれ、中からは子供たちのはしゃぐ声が聞こえていた。さらに門のところには『ちびっこの家』と書かれた木の看板が付けられている。

 どう見ても、海斗には似つかわしくない。そんな場所に、何のためらいも無く入って行く。すると、歓声が響き渡る。


「あっ、海斗だ!」


「チンピラの海斗が来たぞ!」


「ねえねえ、何もってきたの?」


 庭で遊んでいた数人の子供たちが、一斉にまとわりついて来た。すると、海斗は顔をしかめる。


「海斗さん、だろうが。さんを付けろ、ガキ共。それに、チンピラって何だよチンピラって……」


 ブツブツ文句を言いながら、海斗は子供たちの間をすり抜けて進んで行く。そして、建物の中に入って行った。


「やあ海斗くん、今日も来てくれたの」


 応接室に行った海斗の前に現れたのは、院長の後藤達也だ。身長は百七十センチほどだが、体重は百キロ近くあり、体型は雪だるまのように丸い。顔つきも、実に温厚そうで安心感を与える。海斗を見る目は暖かく、親愛の情に満ちていた。


「やあ院長先生、今日も持って来たよ」


 言いながら、テーブルの上に布袋の中身をぶちまける海斗。中には、お菓子やカップラーメンや缶詰めといった食品が入っていた。すると、後藤は頭を掻きながら口を開く。


「いつもすまないね、海斗くん」


 後藤の言葉には、感謝の念があった。照れ臭そうに笑みを浮かべる海斗。


「んなもん、付き合いのある店から貰って来ただけだよ。タダ同然だから、気にすんな」


 海斗がそう言った途端、応接室にひとりの少年が飛び込んで来た。


「よう海斗! 一緒に遊ぼうぜ!」


 言いながら、彼の足に逆水平チョップを食らわしてきたのは……坊主頭の小さな男の子である。まだ三月だというのに、Tシャツに半ズボン姿だ。海斗を見上げる瞳は、嬉しくてたまらないとでも言いたげな思いに溢れている。


「こら健太郎、海斗さんだろうが。さんを付けろデコ助」


 言いながら、海斗は少年の頭に手を当て、髪をくしゃくしゃに撫で回す。健太郎は笑いながら、海斗に組みついて行った。




 陽が沈む頃、海斗は孤児院を出て行った。これから、他の用事があるのだ。手に大きな布袋を持ったまま、町中を歩いて行った。

 この真幌市は、もともとは工業地帯である。景気の良かった時代には、あちこちに工場が立ち並び、その全てが稼働していたのだ。それに伴い、居酒屋や風俗店などのような店も増えていった。

 しかし景気の波が去ると同時に、工場もバタバタと潰れていった。夜逃げする経営者が多数でたが、それはまだマシな方である。借金で追い詰められた挙げ句、家族を道連れに一家心中をした工場経営者も珍しくなかった。

 もっとも、工場の建物自体は未だに残っている。廃墟と化した工場が、町のあちこちに建ったままになっているのだ。取り壊す費用もなく、かといって再稼働させる訳にもいかず、使い途のない工場が哀れなむくろを晒している状態であった。

 結果、ゴーストタウンのような不気味な一角が出来上がってしまったのだ。




 そんな潰れた工場のひとつに、海斗はずかずか入って行く。既に辺りは暗くなっており、足元はよく見えない状態だ。あちこちには、大型の機械が未だ処分されずに放置されている。足元からは、虫や小動物の蠢くような音が聞こえてきていた。

 その中を、顔をしかめながら歩く。すると、暗闇の中に光るものが見えた。アーモンド型の、小さなふたつの光だ。

 思わず首を傾げる海斗。あれは人のそれではないだろう。猫か何かの目だろうか。


「おい瑠璃子ルリコ、持ってきたぞ。居ないのかよ?」


 海斗は暗闇に向かい、そっと声をかけてみる。


「何しに来たの?」


 そう言いながら、工場の奥から姿を現したのはひとりの少女であった。

 まだ三月だというのに、黒いTシャツとジーパンという薄着にも程がある格好だ。肌は異常に白く、薄明かりの下でも不健康そうな顔色なのが分かる。髪は切れ味の悪いハサミででたらめに切ったような長さだ。

 そんな少女の年齢は、十代前半から半ばであろうか。少なくとも、二十五歳の海斗より年下なのは間違いない。もっとも、その年齢には似つかわしくない落ち着いた態度で立っている。整った美しい顔立ちであることも手伝い、奇妙な雰囲気を醸し出していた。

 しかし、その口調は実に乱暴なものであった。


「あのさ、別に毎日来なくてもいいんだよ。あんた暇なの? 暇で暇で仕方ないの?」


「暇じゃねえよ、バカ野郎が。ただな、せっかく持ってきたんだから、さっさと飲んでくれよ。保存すんの、割と面倒なんだぜ」


 言いながら、海斗は布袋に手を突っ込んだ。そして何かを取り出す。

 彼が取り出した物は、小さなビニールパックであった。中には、真っ赤な液体がなみなみと入れられている。そう、ホームレスたちから抜き取った血液である。

 ビニールパックを見た瞬間、少女の顔つきはみるみるうちに変わっていった。暗闇の中、少女の瞳が紅く光り始める。口からは、鋭く尖った犬歯が伸びていた。








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