過去のうた(1)
海斗の前で、少女はビニールパックに入った血液を飲んでいる。口の周りを真っ赤に染めながら、美味しそうに飲んでいるのだ。
異様な光景であった。しかし、少女を見る海斗の目は、優しさと微かな哀れみとがあった。
この少女の名は、
今の様子からもわかるように、瑠璃子は人間ではなく吸血鬼なのだ。しかし、その事実を知っているのは……今のところ、海斗だけだった。
パックの血液を飲み終わった瑠璃子に向かい、海斗はためらいがちに口を開いた。
「なあ、お前を吸血鬼に変えた奴だが……本当に心当たりはないのか? 事件の前日に、家の周りを変な奴がうろうろしてた、みたいなことはなかったのか?」
海斗の問いに、瑠璃子は首を振る。
「そんなの、知らないよ。気がついたら、こんなんなってたから」
吐き捨てるような口調で言った。その口の周りは、真っ赤に染まっている。
「そいつさえ見つかれば、お前を人間に戻せるかもしれないんだがな。それより、口の周り拭けよ。血が付いてるぞ」
ぶっきらぼうな口調で言うと、海斗はハンカチを差し出した。瑠璃子は口元を歪めながらハンカチを受け取り、口の周りを拭く。
その時、彼女の傍らにいる黒猫が、にゃあと鳴いた。いかにも構って欲しそうに、瑠璃子の足に顔を擦り寄せている。
「どうでもいいけどさ、その猫は何なんだよ。なんか、お前にえらく懐いてるじゃないか」
苦笑しながら尋ねる海斗に、瑠璃子は微笑みながら黒猫の頭を撫でる。
「ここに捨てられたみたい。昨日、初めて会ったんだ。でも、すぐに仲良くなれたんだよ。この子、凄く人懐こくてさ。可愛いでしょ」
言いながら、黒猫を抱き寄せた。黒猫はされるがままになり、瑠璃子の腕の中で喉をゴロゴロ鳴らしている。彼女を見上げる目は、親愛の情に満ちていた。
その両者の様子はあまりにも微笑ましく、海斗は思わず笑みを浮かべる。黒猫にとっては、瑠璃子が人間だろうと吸血鬼だろうと大した違いはないらしい。
「じゃあ明日は、猫の餌も持ってきてやるよ」
・・・
有田海斗は、天涯孤独の身である。その身に起きたことを聞けば、たいていの人は唖然となるであろう。
エリートサラリーマンの家に生まれた海斗だったが、両親の仲は悪かった。父の度重なる浮気が原因で、喧嘩が耐えない家庭だった。
ある日、決定的な出来事が起こってしまう。海斗が五年生の時、両親が亡くなったのだ。その死因もまた、普通ではなかった。
父親は、母親との口論の挙げ句、逆上した母により包丁で刺されて死亡。母は父を刺殺した直後、住んでいたマンションの八階のベランダから飛び降りて自殺したのだ。
以前より、いさかいの絶えない家庭ではあったが、まさかこんなことになるとは想像していなかった。血まみれで倒れている父を、海斗は呆然となって眺めていた。床も真っ赤に染まっており、駆けつけた警官が海斗を抱き上げて外に連れ出したのだ。
その後、海斗は親戚たちの間をたらい回しにされる。しかし、誰からも引き取ってもらえなかった。結局、孤児院『ちびっこの家』に預けられることとなる。
当時の日本人の基準から考えても、かなり悲惨な境遇で育ってきた海斗。しかし、彼は朗らかな性格と優しさを失わなかった。孤児院にて知り合った似たような境遇の子供たちと共に、明るく元気に過ごしていく。孤児院での生活にも、すぐに適応した。
また、院長の後藤は子供たちに優しかった。実の親と代わりない愛情を、子供たち全員に注いできたのである。
持ち前の明るさ、そして後藤や他の職員たちからの愛情を受け、海斗はのびのびと成長していく。自身の不幸な生い立ちすら、人格形成に大した影響を与えなかった。彼は明るさと優しさを失わず育っていく。世を拗ねることなく、また己の境遇に不貞腐れたり、ひねくれたりすることもなかった。
しかし、運命とは皮肉なものである。小学六年生の時、海斗の人生観を一変させてしまう出来事に遭遇したのだ。
発端は、同級生の大月瑠璃子が行方不明になってしまったことである。彼女は数年前に真幌市に引っ越して来た、さっぱりした性格の少女だった。両親と弟や妹たちに囲まれ、平凡でありながらも幸せに暮らしていたのだ。
そんな瑠璃子と海斗は、とても仲が良かった。教室での席が近く、また自宅までの帰り道が近いこともあり、ふたりはよく遊んでいた。彼女は時々、孤児院に遊びに来ることさえあったのだ。同級生の中で瑠璃子だけが、暗い過去を持つ海斗に対し普通に接してくれていた。
当時の海斗にとって、瑠璃子は親友……いや、それ以上の存在だった。
その瑠璃子が、殺人事件に巻き込まれて行方不明になってしまった……という知らせが入る。
海斗は、居ても立ってもいられなかった。学校が終わるのと同時に、瑠璃子の家に駆け出す。しかし、家は警官たちに見張られていて入ることが出来ない。
彼の不安は増していく。担任の先生や警官から聞いた話によれば、瑠璃子の両親そして弟と妹の四人は、自宅で殺されていたのだという。ところが犯人と思われる人物は、その場で首を吊って死んでいたのだ。
現在、瑠璃子だけが行方不明になっていた。警察もあちこち探してはいるが、手がかりすら見つかっていない。彼女も既に死んでいる、と思うのが普通であろう。
しかし、海斗は諦められなかった。瑠璃子の行きそうな場所を、あちこち探し回る。
やがて日が暮れ、かつての遊び場であった廃工場に足を踏み入れた時だった。中を探索している時、ガタンという物音がした。次いで奥から、不安そうな声が聞こえてくる。
「ひょっとして、海斗なの?」
海斗はハッとなった。この声には聞き覚えがある。
「そうだよ、海斗だよ。瑠璃子なのか?」
闇に向かい、そっと語りかける。すると工場の奥から、ひとりの少女がおずおずと姿を現す。
やはり、瑠璃子だった。着の身着のまま逃げてきた、という格好である。
「お、お前……何やってたんだよ!」
叫びながら、瑠璃子に駆け寄っていった。だが次の瞬間、信じられないことが起きる。
「来ないで!」
叫ぶと同時に、瑠璃子は海斗を突き飛ばした。その腕力は尋常なものではない。一瞬にして、後方に吹っ飛ばされたのだ。まるで、アクション映画におけるやられ役のスタントマンのような勢いだった。
「痛えじゃねえかよ。お前、いつからそんな馬鹿力になった?」
呻き声を上げながら、どうにか立ち上がる海斗。しかし顔を上げ、瑠璃子の顔を見た瞬間に愕然となった。
「お前、どうしたんだよ……」
そう呟くのがやっとだった。瑠璃子の瞳は、紅の光を放っている。さらに、その口からは鋭く尖った犬歯が伸びているのだ。
「お願いだから、これ以上は近寄らないで! でないと、あんたを殺してしまうかもしれない!」
悲痛な叫び声を上げた瑠璃子。その紅く光る瞳から、涙がこぼれた。
「わ、わかった。これ以上は近づかない。だから何があったのか、それだけでも教えてくれよ!」
ただならぬ様子に怯みながらも、海斗は怒鳴りつけた。瑠璃子に何事が起きたのかはわからない。それでも、彼女がただならぬ状態であることだけは確かだ。さらに、ひどく苦しんでいることもわかる。
そんな瑠璃子を、放っておく訳にはいかない。
「何があったのか、言ってくれよ!」
再度、怒鳴りつける海斗……すると、瑠璃子はためらいがちに語り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます