過去のうた(2)
ごく普通の日のはずであった。
十二歳の瑠璃子はその日、いつもと同じように家族そろって夕食のクリームシチューを食べていた。両親そして弟や妹らと共に、仲良く会話をしながら、一家団欒の時間を過ごしていたのだ。
しかし、その平和な時間は一瞬にして砕かれた。
突然、奇妙な男が二階から降りて来たのだ。スキンヘッドに黒いジャージ姿で、サバイバルナイフを片手に握り体をわなわな震わせている。そんな異様な怪人が、一家団欒の風景にいきなり出現したのだ。
この、どこから見ても不審としか言い様のない人物……もし仮に、外を歩いている時に遭遇したのであるなら、彼らは即座にその場を離れたはずだ。すぐに警察に通報していただろう。
しかし、大月家の人々はポカンとなっていた。彼らはこの突然の事態に対し、ただただ戸惑うだけだった。自宅という、安心して過ごせるはずの場所……この平和な日本において、まさか自宅に押し入って来る者がいようとは想像もしていない。人間は想定外の出来事に遭遇した場合、どうすればいいのか分からず、体が硬直し反応が出来ないケースも少なくないのだ。
さらに不幸なことに、その押し入って来た者の目的は金品ではない。その場にいる者の命であった。
侵入してきた男はサバイバルナイフを振り上げ、何のためらいも無く一家に襲いかかる──
全身をナイフで滅多刺しにされ、父と母は死んだ。
瑠璃子もまた、幼い弟や妹と共に首を切られて死んだ……はずだった。少なくとも、彼女の記憶はそこまでしかない。
しかし数時間後、瑠璃子は人でないもの……吸血鬼となり目覚めた。
吸血鬼になって、初めて彼女がとった行動は、家族の血を吸うことだった。まだ温かみの残っている父や母の死体にむしゃぶり付き、流れ落ちる血をすすったのである。
渇きが満たされ、瑠璃子はようやく我に返る。その瞬間、己のした行為のおぞましさに愕然となった。
自分は今、人間の血を吸ってしまったのだ。それは、人肉を食べるのと同じくらい恐ろしい行為だ。しかも、相手は他人ではない。自分の肉親なのだ。
肉親の血を、吸ってしまった。今の自分は、おぞましい化け物なのだ。
己に対する絶望に打ちのめされながら、瑠璃子は現場から逃げ出した。その後は人目を避けて、闇に潜んでいたのである。
「海斗、お願いがあるの」
悲痛な告白の後、瑠璃子は声を絞り出す。
海斗は話の内容に圧倒されながらも、どうにか口を開いた。
「な、何だよ。俺に出来ることなら、何でもするぞ」
「あたしのことは、誰にも言わないで。お願いだから……」
そう言った直後、瑠璃子は泣き崩れた。廃工場の中で、嗚咽の声が響き渡る。
その嗚咽の声が、呆然となっていた海斗の理性を呼び戻した。彼は、頭をフル回転させ考える。どうすればいいのか──
「瑠璃子、大丈夫だ! 俺が、お前を人間に戻してやるから!」
気がつくと、海斗は叫んでいた。しかし、瑠璃子は首を振る。
「そんなの無理だよ」
「やってみなけりゃわからねえだろうが! お前は人間から吸血鬼になった。それなら、吸血鬼から人間になる方法も、探せばあるかもしれねえだろ!」
それ以来、海斗の生活は一変してしまった。
中学校に入ると同時に、図書館や図書室に入り浸るようになる。とは言っても、まともな本には目もくれない。吸血鬼に関するありとあらゆる文献を読み漁ったのだ。気になる部分があれば、持参したノートに写す。時には、本そのものを拝借することもある。もちろん、授業にはほとんど出ない。
夕方になり、学校が終わると同時に真っ直ぐ廃工場に向かう。そして、仕入れた知識を瑠璃子に報告していた。時には、無理のない程度に実験を行なったりもしたのだ。
その繰り返しで海斗が知ったのは、本になっている知識がいかに当てにならないか、という事実であった。少なくとも、現実に存在している吸血鬼の瑠璃子と、本に書かれている吸血鬼とでは、当てはまらない部分があまりにも多いのだ。
たとえば、瑠璃子は十字架を見ても何も反応しなかった。ニンニクもまた同様である。そのどちらも、吸血鬼の登場する物語においては弱点として描かれている。だが、瑠璃子には何の効果もなかった。
ただし、彼女に当てはまる部分も存在する。瑠璃子の体は、日の光を浴びる事が出来なかった。日光を少しでも浴びると体に激痛が走り、皮膚に火傷のような症状が出る。
また、瑠璃子の身体能力は人間のレベルを遥かに凌駕しており、体も頑丈であった。鉄の鎖を引きちぎるほどの腕力を持ち、動きも異常に速い。さらに、どんな怪我を負っても一瞬で治ってしまうのだ。
そして、吸血鬼を吸血鬼たらしめている最大の要因が、血液を飲むことで飢えや渇きを満たしている点であった。今の瑠璃子は、どんなものを食べても吐いてしまう。その体は、人間の食べ物をいっさい受け付けない。唯一、動物の血液の摂取のみが瑠璃子の命を支えていたのだ。
そのため、海斗は血液の調達と確保について考えなくてはならなかった。思案した結果、市内にある精肉工場に目を付ける。病院に保管してある血液を盗むのは難しく、盗めば確実に大騒ぎになる。かといって瑠璃子が人間を襲ったりすれば、警察が動くことになるのは間違いない。もし世間が彼女の存在を知ってしまったなら、その時点で全てが終わる。
しかし、精肉工場にある牛や豚の血なら、盗まれたとしても大した騒ぎにはならないだろう。減っていても、気づかれないかもしれない。
そこで海斗は、瑠璃子と共に精肉工場に忍び込み、牛や豚の血液を盗んだ。人間の血液と比べると格段に不味いらしい。少なくとも、瑠璃子はそう言っていた。それでも、飢えや渇きや人を襲いたいという衝動は押さえられる。
さらに海斗は、独自に事件のことを調べていたが、こちらは完全にお手上げだった。
瑠璃子の家に押し入った犯人は、一家四人をサバイバルナイフで惨殺した。その直後に、事件現場で手首を切った上に首を吊って自殺してしまったのだという。
当時の新聞を見てみると、犯人の
覚醒剤の打ち過ぎに伴う妄想が動機の連続殺人事件。これが、警察の見解である。
しかし、海斗は納得いかなかった。では、瑠璃子を吸血鬼に変えたのは何者なのだろう。そもそも、殺された家族の中でなぜ瑠璃子だけが吸血鬼となったのか? それも分からない。
その謎さえ解明できれば、瑠璃子を人間に戻す方法も見つかるかもしれない。海斗はその後も、暇があれば事件を調べて回った。
そんな生活を続けているうちに、海斗はまともな道からどんどん外れていってしまった。授業には全く顔を出さなかったし、教科書など開いた覚えがない。テストは全て白紙で提出。当然ながら、成績は最低である。進学など、出来るはずもなかった。そもそも、本人に進学する気など欠片ほどもなかったのだが。
こうして海斗は、中学校を卒業すると同時に『ちびっこの家』を飛び出した。その後は様々な仕事を経て、本格的に裏の世界へと足を踏み入れて行ったのである。ヤクザの道にこそ進まなかったものの、裏の仕事で生計を立てるようになっていたのである。
それからの海斗は……持ち前の明るさと口の上手さと行動力を武器にして、裏の世界でどうにか食べていけるくらいにはなっていた。
一方の瑠璃子は、海斗に助けられながら、何とか生きてきたのだ。もっとも、今の彼女を生きていると表現していいのかは解釈の分かれるところだろう。
それでも海斗は、彼女にした約束を忘れていなかった。
(俺が、お前を人間に戻してやるから!)
そう、彼は今でも、瑠璃子を人間に戻す方法を探し続けている。
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