ムード皆無のうた

 やがて、二人は孤児院を出て行った。

 並んで歩いている帰り道、不意に小林が口を開く。


「あの明日菜って子、本当に可愛いかったわね。アタシ、何だか子供ほしくなっちゃったな……」


 切なげな表情で呟く。海斗は思わず吹き出しそうになった。


「何だよ小林さん。さっきまでは、あんなに嫌がってたのにさ」


 茶化すような言葉を発すると、小林は神をも殺してしまうかのような形相で睨んできた。


「うるさいわね。アンタがいけないのよ。アタシをその気にさせるから」


「何だいそりゃあ。小林おじさん、また一緒に来ようぜ』


「あんまり調子に乗ってると、四の字固めかけてヒーヒー言わすわよ」


 低い声で言うと、小林は腕を曲げて上腕の筋肉を見せつけた。まるで、野球のボールが腕に入っているかのようである。さすがの海斗も、身の危険を感じて黙り込んだ。 





 小林と別れた後、海斗はひとりで廃工場に向かった。言うまでもなく、瑠璃子の隠れ家である。

 道中、昨日も感じていたものものしさが、一向に減っていないことに気づく。これまで見たことのない若者が、町を闊歩しているのだ。どこの組なのか、正体の分からない連中が多い。

 堅気でない人間が、どんどん増えてきているのだ。町の外から来ている者たちであろう。抗争に備え、助っ人を町に呼んだのだろうか。

 海斗は下手な波風を立てぬよう、足早に彼らの前を通り過ぎていく。ヤクザたちは皆、非常に苛立っているような雰囲気だ。沢田組と士想会の関係は、日に日に悪化していっているのだろうか。

 少なくとも、両者の関係が好転するような噂は、耳にしていないのは確かである。


(最近、士想会の連中がうっとおしくてな。ハエみたいにぶんぶん飛び回ってやがる。今のところ、本格的にカチ合うような事にはなってない。ただ、このままだと戦争になるかもしれねえんだよ。本当に面倒くせえ話だが、ヤクザは舐められたらおしまいだからな。向こうの態度次第では、こっちもやらなきゃならねえって訳だよ)


(海斗、万が一の話だがな……ウチと士想会が戦争になったら、お前はどっちに付くんだ?)


 沢田組の藤原の言葉を思い出す。こんな御時世に、拳銃を持ち出してドンパチやるほどバカではないことを祈るしかなかった。




 やがて、廃工場へと到着した。周りに注意しながら、そっと足を踏み入れる。


「瑠璃子、いるのか? 海斗ちゃんが来たぞ」


 暗闇に向かい、声を出す。その時、数メートル二先に二つの小さな光が見えた。アーモンド型の小さな光だ。恐らく、瑠璃子の飼い猫のルルシーだろう。


「おーい、お前はルルシーだろ? 瑠璃子はいるかい?」


 その場にしゃがみこみ、声をかける。すると、にゃあという鳴き声とともに、光がこちらに近づいて来た。

 やがて姿を現した者は、予想通り黒猫のルルシーであった。三メートルほど離れた位置で立ち止まり、前足を揃えた姿勢で海斗を見つめている。お前は何しに来たのだ? とでも言わんばかりの様子だ。


「いようルルシー、相変わらず可愛いな。瑠璃子はいるかい?」


 海斗は微笑みながら、黒猫に尋ねた。だが、ルルシーは顔を後ろに向け、尻尾を緩やかに動かす。その後ろから、瑠璃子が姿を現した。

 海斗は、笑顔で立ち上がる。同時に、持ってきたものを前に差し出した。

 バスケットボールである。


「よう瑠璃子、久しぶりにバスケやらねえか?」


 その言葉に、瑠璃子は訝しげな表情をした。


「はぁ? バスケ?」


「そうだよ、バスケだよ。お前、バスケ好きだったろ?」


 言いながら、海斗はひとりでドリブルして見せる。しかし、瑠璃子は首を振った。


「嫌だよ。何で、そんなことしなきゃなんないの」


 いかにも面倒くさそうな口調だが、海斗は挫けない。ボールを宙に放り、すっとキャッチして見せた。


「こんなところにずっと閉じ籠っていたら、暗い気分になるだけだぜ。たまには外で体を動かして遊ぼうぜ。好きだったろ、バスケ──」


 言った瞬間、瑠璃子が動く。目にも止まらない速さで、一瞬のうちに海斗に接近していた。彼が反応する暇もない。

 直後、海斗からボールを奪い取ったのだ。これまた、電光石火の速技である。何が起きたか把握できていないうちに、ボールは瑠璃子の手に渡っていた。


「あのねえ、あたしは百メートルを五秒くらいで走れちゃうんだよ。力だって強いし。あんたじゃ、相手にならないよ」


 そう言って、彼女は笑った。もっとも、楽しいから笑ったのではないことは明らかだ。とても悲しそうな笑顔であった。


「そ、そうか。そりゃそうだよな」


 そう言ったきり黙りこむ。

 確かに、吸血鬼の身体能力は凄まじいものだ。見た目は小学生の瑠璃子だが、機械のパイプを簡単にねじ曲げ、鉄の鎖を素手で引きちぎることが出来る。

 それに、動きも速い。海斗は運動神経に優れているわけではないが、それでも二十五歳の健康な男子である。それが、瑠璃子と比べれば子供扱いされてしまうのだ。

 だが当人にしてみれば、そんな能力など必要ないのだ。

 むしろ、そんな強すぎる腕力のせいでスポーツを楽しむことすら出来ないのだ。


 複雑な表情の海斗に、瑠璃子はボールを投げてよこした。ルルシーのそばに行き、しゃがみ込む。


「もし、あたしが人間に戻ったら、この見た目はどうなるのかな?」


 黒猫を撫でながら、瑠璃子は冷めた口調で言った。その言葉に対し、何も言えずにうつむく。


「こんなガキみたいな見た目で、いきなり世間に出て行ったら、あたしはどうなるの? 警察にあれこれ聞かれて、世間の人たちから変な目で見られて、その挙げ句に何があるの? あたしは、どんな人生を歩めばいいの?」


 彼女の言う通りだろう。

 十年前に行方不明になった少女が、今になって現れた。しかも、当時と全く同じ姿で……当然ながら、マスコミは騒ぎ立てる。テレビ、新聞、雑誌その他もろもろの連中が瑠璃子を追い回す。

 仮に人間に戻ったところで、彼女に安息の日々は訪れないのだ──


 いたたまれなくなった海斗は、顔を上げ口を開く。


「どうもならないよ。俺が一生、面倒みるからさ。いいか、金さえ積めば戸籍だって買えるんだよ。俺は、戸籍を売ってくれるルートだって知ってる。お前は、違う人間として生きればいいんだ。何も心配いらねえよ。俺が、お前を守る。ずっと、お前のそばにいるから」


 その言葉に、今度は瑠璃子の方がうつむいていた。


「何よそれ。一生、面倒見るって……それじゃえ、プロポーズじゃない。バカなこと言わないでよ」


「俺はそのつもりだよ。俺じゃあ嫌かよ? 俺じゃあ、駄目なのか?」


 そう言う海斗の表情は、真剣そのものだった。普段の軽さは、ひとかけらもない。

 すっと前から、心に決めていたことだった。瑠璃子を、世間の好奇の目に晒させはしない。どんな手段を使っても、自分が彼女を守ると……海斗は、じっと瑠璃子を見つめる。

 瑠璃子は視線を落とした。困った表情で、足元にいるルルシーの背中を撫で始める。


「ねえルルシー、あの人、あんなこと言ってるよ。こんな暗くて汚い場所でプロポーズなんて、ムードってものを知らないのかなぁ。本当に困ったねえ。どうすればいいのかなぁ」


「悪かったな、ムードが無くてよ。でもよう、俺は真剣なんだぜ。まだ、指輪は用意できねえけどよ」


 そう言った海斗に対し、瑠璃子は黙ったままルルシーを撫でている。

 ややあって、顔を上げ微笑んだ。


「ありがと。冗談でも嬉しいよ。でもね、少し考えさせて」


 瑠璃子がそう言った直後、ルルシーがにゃあと鳴いた。





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