負け犬のうた

 気がついてみると、夕方になっていた。

 海斗は体を起こし、周りを見回す。部屋の中は、ひどい有り様であった。ここ数日間で溜まったゴミが、嫌な匂いを発している。カップラーメンの容器や飲みかけのジュースのペットボトルなどが、無造作に放り出されているせいだ。

 考えてみれば、小林が死んだと聞かされて以来、部屋の掃除をしていない。そのせいで、ゴミがかなり溜まっている。このままだと、いずれ大家から苦情が来るかもしれない。

 だが、そんなゴミ屋敷のごとき有り様の自宅ですら、今の海斗の心を動かすことは出来なかった。




 今日子の死を知らされたのは、昨日のことだった。海斗は院長の後藤と共に、すぐさま病院へと走る。

 しかし、そこに待っていたのは……あまりにも無惨な姿であった。全身の肉と骨とがぐちゃぐちゃに潰れ、顔の見分けさえつかない状態だ。情け深く優しい院長の後藤ですら、思わず顔をそむけてしまうほどだった。

 妹の明日菜はといえば、かろうじて一命を取り留める。だが、植物状態になっていた。生命維持装置に繋がれ、かろうじて心臓は動いている。医師からは、意識を取り戻す可能性はゼロに近いと宣言された。

 この先、意識を取り戻したとしても、彼女の頚椎は完全に破壊されている。歩くことはおろか、首から下を動かすことすら不可能だろう……とも言われた。

 その話を聞かされた海斗は、あまりにも無残な光景に耐えきれず、病院から走り去っていった──


 俺のせいだ。

 俺が、ルルシーのことを二人に教えなければ……。

 今日子も明日菜も、事故に遭うことはなかった。

 俺のせいで、あの二人は……。


 どうあがいても言い逃れは出来ない。海斗にも責任はあるのだ。

 しかし、不思議と涙は出なかった。海斗は家に帰ってから、頭の中が空っぽになってしまったかのように、じっと座りこんでいたのだ。




 夕方になってから、海斗はようやく立ち上がる。何かに取り憑かれたかのような表情で、海斗はふらふらと外に出て行った。


「おいルルシー、いるのか」


 廃工場の中、虚ろな声が響き渡る。すると、にゃあと鳴く声と共にルルシーが現れた。とことこと歩いて来て、足に顔を擦り寄せてくる。

 海斗はしゃがみこむと、虚ろな表情でルルシーを撫でた。


「すまないな。当分、俺がご飯をあげることになっちまったよ。みんな無責任だよな、可愛いお前をほっぽり出して消えちまうなんてよ。瑠璃子も、今日子も、明日菜も、みんないなくなっちまった。寂しいよな」


 その時、不意に海斗の目から涙が溢れた。今まで堪えていたものが、溢れ出したかのように。


「なんで……なんでみんな居なくなっちまうんだよ……なんで……俺のそばから……みんな消えちまうんだ……なんでだよ……」


 嗚咽とともに、声を振り絞り問いかける。

 だが、ルルシーは何も答えなかった。答えられるはずもない。それでも、猫なりに海斗の気持ちは察しているのだろう。どこか切なそうな表情で、じっと彼のことを眺めている。

 そんな中、海斗は涙とともに訴え続ける。


「俺の……愛した者は……何でみんな居なくなるんだよ……こんなの酷いじゃねえか……俺が何をしたんだ……あいつらが何をしたっていうんだ……ひでえよ……酷すぎる……何だよ……あんなのあるか……」


 嗚咽と共に声を絞り出し、その場に崩れ落ちる。廃工場の中では、海斗のすすり泣きの声だけが響き渡っていた。

 やがて、海斗は顔を上げる。その目には、一片の感情も浮かんでいない。死神のような顔つきで歩き出した。

 今日子を肉塊へと変えたダンプカーは、盗難車であったらしい。しかし、海斗には犯人が何者であるのか分かっていた。




 沢田組の幹部である庄野政弘は、三人のボディーガードを連れて事務所を出て行った。

 繁華街の一角ではあるが、抗争の影響で周囲には人通りが少ない。ボディーガードは周囲を見回しながら庄野と共に歩いていく。

 その時、彼らの目の前に何者かが現れた。ボディーガードたちは血相を変えて庄野を囲む。同時に、懐から拳銃を抜いた。

 しかし、庄野はとぼけた声を発する。


「何だよ、有田じゃねえか。えらく汚ねえ格好だな。俺に何か用か?」


 そう、現れた者は海斗だったのだ。普段のソフト帽にスーツとは真逆の、汚ならしいジャージ姿で立っている。


「ひとつ聞きたいんですがねえ、昨日のダンプカーの事故ですが、あれは庄野さんの指示ですよね?」


 威嚇するかのような目付きで尋ねた。あまりに失礼な態度と口振りに、ボディーガードたちは血相を変えて前に出る。だが、庄野は彼らを制した。


「おい、落ち着けよ。有田は俺に質問してるだけだ」


 ボディーガードにそう言った後、庄野は海斗に視線を移した。


「そうだよ。俺が、あの店にダンプを突っ込ませた。あのスナックはな、士想会の山田って幹部が愛人に経営させてた店なんだよ。だからダンプで潰してやった。これからも、士想会の店はどんどんブッ潰してやるからな。まあ、楽しみに見ててくれや」


 そう言うと、庄野はクスクス笑った。だが、海斗はニコリともしていない。


「その事故のせいで、全く無関係の女の子が亡くなりました。あんたは、そのことをどう思います?」


 淡々とした口調で尋ねる。だが、庄野は表情ひとつ変えなかった。


「ああ、そうらしいなあ。気の毒な話ではある。しかしな、俺たちも商売だから仕方ねえよ。漁師が魚かわいそう、なんて言ってたら漁は出来ねえからな。まあ、そういうことだよ」


 庄野の言葉は、あまりにも軽いものだった。それを聞いた海斗は、思わず唇を噛み締める。

 直後、呪詛のごとき言葉を吐き出した。


「いいか……明日菜はな、ウサギと猫とライガーマスクが大好きな、凄くいい子だったんだよ。将来の夢は動物園の飼育員になることだった。だけどな、今はもう何も出来ないんだ。一生、寝たきりの体になっちまったんだよ」


 海斗は、そこで言葉を止めた。己の目から溢れ出た涙を、その手で拭う。

 ボディーガードたちは苛立ったような表情で、海斗を止めようと前に出た。だが、またしても庄野が彼らを制する。


「最後まで言わせてやれ。バカな若いキャバ嬢と話すよりは、よっぽど面白いじゃねえか」


 ややあって、海斗は再び口を開く。


「今日子はな、そんな妹の明日菜の面倒を見るために、中学を出たら就職するつもりだった。一生懸命に働いて、明日菜に幸せな暮らしをさせたいって言ってたんだ。あの二人はな、地上に降り立った天使みたいに綺麗な心の持ち主だった……俺はな、あの二人が本当に大好きだったんだよ。今日子と明日菜の成長する姿を、ずっと見ていたいとさえ思ったんだ」


「そうか、そりゃあ残念だったな。まあ、こんな汚い世の中からは、一足先におさらば出来て良かったんじゃないか。今ごろ、天国で平和に暮らしてることだろうぜ。アニメであったじゃねえか……何とかの犬、ってのが。あれも、そんなオチだったじゃねえか。主人公の少年は現世でさんざん苦労しましたが、最後は天国に行って幸せに暮らしました、ってな」


 飄々ひょうひょうとした口調で、言葉を返す庄野。その表情は、どこか愉快そうだ。海斗の言葉は、彼の心に何の影響も与えていないらしい。

 海斗の表情が、さらに歪んだ。その体は、小刻みに震え出す。それは恐怖のためではなかった。


「あの姉妹はな、一生懸命に今日という日を生き、幸せな明日という日を迎えるつもりで頑張っていたんだ。その幸せな明日という日を、あんたは奪ったんだよ。何の罪もないひとりの女の子が、あんたらヤクザの戦争の巻き添えになって死んだんだ。そのことを、あんたは何とも思わねえのか?」


「ああ、気の毒だとは思うぜ。だがな、これは仕方ないことだ。悪いけどよ、虫を踏み潰すのを気にしてたら、出歩くことも出来ねえだろうが。戦争には、犠牲が付き物だよ。ヤクザやってりゃ、よくある話さ。お前にだって、分かるだろうが」


 平然とした口調で、言葉を返す庄野。その顔には、むしろ今のやり取りを楽しんでいるかのような表情すら浮かんでいる。

 その姿を見た瞬間、海斗の中で何かが弾け飛んだ。


「ふざけるなあぁ! 今日子と明日菜はな、虫けらじゃねえんだよ! 一生懸命に生きてたんだよ! 幸せな未来を掴むためにな! あいつらから未来を奪ったのはお前だ! お前それでも人間か!」


 喚きながら、庄野へと殴りかかって行く──

 だが次の瞬間、庄野の拳が顔面を襲う。喧嘩なれした一撃は、あまりに強烈であった。海斗は、その一発で地面に倒される。

 倒れた海斗に、冷酷な表情で蹴りを見舞っていく庄野──


「おい有田、俺はヤクザなんだよ。てめえみたいな半端者のチンピラとは違うんだ。人間なんざ、とうの昔に辞めてんだよ。いざとなったら、親兄弟でも殺す……その覚悟で、こっちはヤクザやってんだ。てめえみたいな、どっちつかずのチンピラと一緒にすんじゃねえよ。こっちがどんな覚悟でヤクザやってんのか、てめえみてえなチンピラには分からねえだろうが」


 喋りながらも、しつこく蹴り続けている。彼の声のトーンは、普段のままだ。表情も、極めて平静である。まるで自宅でテレビを見ながら家族と会話しているかのような口調で喋り続けながら、庄野は倒れている海斗を蹴りまくっていた。

 海斗の方は、呻き声を上げながら、されるがままになっていた。

 やがて、一方的な暴力は止まった。庄野は面倒くさそうな顔つきで、倒れたままの海斗を見下ろす。その目には、一切の感情がこもっていなかった。


「さて、俺はもう疲れたし飽きてきた。だがな、これで済んだと思うなよ。お前、死ぬかもしれねえぞ。ま、チンピラの分際でヤクザに逆らった、バカなてめえを呪って死ぬんだな。お前はチンピラ以下……ただの負け犬だ。負け犬は、負け犬らしく保健所にでも行くんだな」


 そう言うと、庄野はボディーガードたちの方を向いた。


「お前ら、このガキを始末しとけ。痛めつけて、ゴミ捨て場にでも放り込んでおけ。もし抵抗するようなら、殺しちまっても構わねえぞ。後でどっかのホームレスをさらってきて、犯人として出頭させてやるから」




 どのくらいの時間が経ったのだろう。

 ヤクザたちの振るう暴力には、一切の容赦が無かった。その結果、海斗は動くことも出来ず、ゴミ捨て場に横たわっている。

 海斗の前歯は、ほとんどへし折られた。片方の目は完全にふさがっている。流れ続ける鼻血のせいで、鼻からの呼吸が出来ない。鼻の骨も折られたらしい。

 だが不思議なことに、痛みは感じていなかった。それどころか、皮膚の感触もない。体全体が麻痺してしまったかのようだ。意識の方も、徐々に薄れていっている。


 俺は、ここで死ぬのか。


 霞がかかったような意識の中で、海斗はぼんやりと考えていた。

 不思議なことに、死への恐怖は薄い。ヤクザに歯向かった以上、こうなるのは当然だ。それに……もはや海斗には、生きるための理由が無かった。瑠璃子が消え、小林と今日子が死んでしまった。

 海斗の愛していた者たちは、彼の前から次々と消えてしまったのだ。

 しかも、今日子の死には……海斗にも責任の一端がある。


 俺が、ルルシーの世話を頼まなければ。


 海斗が余計なことをしなければ、今日子は生きていたかもしれない。なのに、その責任も取れずゴミ捨て場で朽ち果てていく事しか出来ないか。

 諦めかけた時、海斗の脳裏に姉妹の生前の映像が甦る。さらに、二人の無惨な姿も──

 同時に、海斗の中に何かが芽生えた。ドス黒く凶暴な何かが、彼の体内をかき乱し始める。必死の形相で体を動かそうとした。

 だが、体は動かない。ヤクザたちの暴力の最中、体内で何かが弾けるような音がしていたのを思い出す。あれは、破壊された脊髄が立てた音なのかもしれない。

 それでも海斗は、体を動かそうとする。意思の力を振り絞り、立ち上がろうと足掻いた。

 そう、このままでは死ねないのだ。今日子を殺した沢田組の庄野、あいつに罪を償わせる。それまでは死ねない。

 だが、体はピクリとも動かない。どんなに意思の力を振り絞っても、体が言うことを聞いてくれないのだ。

 海斗は、凄まじい形相で夜空を見上げる。今の自分が動かせるのは、首から上だけだ。その部分に、あらんかぎりの力を込める。

 そして、海斗は神を呪った。あの姉妹に、かくも残酷な運命を与えし神を呪い、悪魔に祈った。


 神よ……俺はお前を憎むぞ。俺は絶対、お前を認めない。もう、お前など崇めない。

 悪魔よ……いや、鬼でも何でもいい。俺の命でよければ、お前らにくれてやる。だから、奴らを殺してくれ。

 あのヤクザ共を、皆殺しにしてくれ!


 その時、海斗は咳き込んだ。同時に、呼吸が苦しくなる。息が出来ない。どうやら、もうじき寿命が尽きるらしい。このまま、死を迎えるしかないのか。


 俺は死ぬのか?

 何で、俺はこんなに弱いんだ?


「力が欲しい?」


 不意にどこからか、静かに語りかけるような声が聞こえてきた。

 いったい何者の声であるのか。海斗には、声の主の姿は確認できなかった。

 そもそも、本当に他人の発した声であるのか、あるいは幻聴なのか……それすら、今の海斗には分からない。彼の意識は朦朧としており、目はほとんど視えなくなっている。放っておけば、数分ももたない命であるのは誰が見ても分かるだろう。そんな海斗に向かい、呑気に言葉をかける者などいるはずがないのだ。

 それ以前に、今の海斗には答えることが出来なかった。声を出すことはおろか、呼吸すらままならないのだ。

 薄れゆく意識の中、海斗は心の中で呟いた。


 力が欲しい。

 誰でもいい、力を貸してくれ。

 あいつらを殺してくれ。


 次の瞬間、海斗の意識は深い闇の中に沈んでいった──






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