悲哀のうた

 さっきから、しつこいくらい電話が鳴っている。

 しかし、海斗は受話器を取る気にはなれなかった。昨日から、ほとんど寝ていない。その上、何も食べていない。呆けた表情のまま、自宅の床に寝転がっていた。その視線の先には、昨夜からつけっぱなしのテレビ画面がある。もっとも、放送されている内容については半分も把握していなかった。


 昨夜、置き手紙を残し姿を消してしまった瑠璃子。

 海斗は夜の街を走り回り、必死で探した。だが、パトカーや自転車の警官たちが街に溢れている。皆、異様に殺気立っていた。海斗は訳も分からぬまま、警官に捕まり職務質問をされる。

 そのまま警察署での取り調べを受ける羽目になり、解放されたのは数時間後であった。

 取り調べの過程で、驚くべき事実を知る。士想会の幹部である橋田が、何者かに殺されたというのだ。しかも、二人のボディーガードごとショットガンで撃ち殺されたのである。

 一昨日は沢田組の幹部である藤原が拳銃で襲われ、ボディーガードと共に射殺された。続いて昨日は、士想会側の人間が三人、ショットガンで射殺されてしまった。

 これはもはや、完全なる抗争状態である。


「いいか、もう戦争は避けられねえ。海斗、おめえも何時までも中途半端なことをしてねえで、今のうちに足を洗え。出来ることなら、この街を離れてヤクザ共とは関わるな。でないと、お前も抗争に巻き込まれることになるかもしれねえぞ」


 海斗の取り調べを担当した刑事は、諭すような口調で言った。




 だが海斗にとって、それはどうでもいいことだった。彼にとって一番大切な人が、姿を消してしまったのだ。

 海斗の人生の傍らには、いつも瑠璃子がいた。一時期は彼女のためだけに、あちこち駆け回っていた。人間に戻すため、あらゆる方法を試してみた。

 その瑠璃子が、消えてしまったのだ──

 不思議なことに、悲しみはなかった。悲しみよりも、胸の中にぽっかりと大きな穴が空いてしまったような気分だ。虚ろな気分のまま、海斗はじっとテレビを観ていた。

 そのテレビ画面の中では、ニュース番組が放送されている。昨夜の襲撃事件について、アナウンサーが詳細を説明していた。


(犯人はバイクに乗り、被害者である橋田さんたちの目の前に現れ、いきなり散弾銃を発砲したものと見られています)


 次にテレビ画面は、コメンテーターの顔を映し出した。


(とんでもない話ですよ! こんな輩を野放しにしてはおけません! 暴力団は、もっともっと強く取り締まらなくてはなりません!)


 そんな言葉が、テレビから流れてきている。だが、海斗の胸には何も響かなかった。


「瑠璃子、お前は何をやってんだよ」


 テレビを観ながら、呆けたような表情で呟いた。今まで、瑠璃子の食料である血液は海斗が運んでいた。しかし今、彼女は自力で血液を手に入れなくてはならない。下手をすると、本能のままに人間を襲い、生き血をすすっているかもしれないのだ。

 そんなことをすれば、遅かれ早かれ存在を知られてしまう。やがて、人間に狩り殺されてしまうだろう。

 ふと、彼女の残したメッセージを思い出した。


(あたしの事なんか忘れて、自分の幸せを探しなよ)


(あたしは初めて会った時から、あんたのことが好きだったんだよ)


「クソが……今さら勝手なことばっか言ってんじゃねえよ。てめえなんか、野垂れ死んじまえ」


 虚空に向かい、呪詛のような言葉を吐く。あんな置き手紙を残されてしまったら、この先どうすればいいのだろう。胸に癒えることのない傷を負わされてしまったような気分だ。


 いっそのこと、この街を離れようか──


 そんな考えが頭を掠めたが、まだやり残していたことがある。瑠璃子から頼まれていたことがあったのだ。のろのろと立ち上がる。

 その時になって、空腹であることに気づいた。考えてみれば、昨日の取り調べから何も食べていない。刑事ドラマのようにカツ丼でも食わせてもらえるかと思ったのだが、あれはデマだったらしい。

 もっとも、その時はカツ丼など出されても食べられなかっただろう。

 とりあえず買い置きのパンを食べ、缶コーヒーで流し込む。味など、いっさい感じなかった。美味くも不味くもなく、ただ固形物が食道を通り過ぎていくだけだ。

 また、瑠璃子のことを思い出した。彼女は何を食べても、気持ち悪くなって吐いてしまうと言っていたのだ。

 今も、ちゃんと血液を摂取できているのだろうか。いや、それ以前に……日光の当たらない場所を確保できているのだろうか。

 そんなことを思いつつ、食べ物を無理やり胃の中に流し込む。少しの間を置き、立ち上がり家を出た。

 今は行きたくない場所ではある。しかし、行かなくてはならない。海斗は虚ろな顔で歩き出した。



 かつて、瑠璃子が寝ぐらにしていた廃工場。

 そこにたどり着いた海斗は、暗闇に向かい、そっと呼びかける。


「ルルシー、いるか?」


 答えはない。もう一度、呼びかけてみた。


「ルルシーちゃん、出ておいで」


 すると、その声に反応したのだろうか。にゃあ、という声がした。

 直後、暗闇からのそのそと歩いて来る猫の姿。言うまでもなくルルシーだ。手の届くギリギリの距離まで近づいて来たルルシーは、丸い目でこちらをじっと見つめている。

 海斗は、ポケットから煮干しを出した。


「ルルシー、煮干し食べるか?」


 言いながら、煮干しを放る。すると、ルルシーは煮干しの匂いを嗅ぎ、美味しそうに食べ始める。

 海斗は、そんな黒猫の姿をじっと眺めていた。気の抜けてしまったような想いと、漠然とした寂しさを感じる。ここに来たら、泣いてしまうのではないだろうかと思っていた。

 だが、不思議と涙は出てこない。虚ろな表情のまま、ルルシーの食べる様を見つめていた。

 ひょっとしたら自分は、安心しているのかもしれない……そんな思いが、頭を掠める。

 瑠璃子さえいなければ、自分はまともな人生を送れるのかもしれない。そんな自分に、嫌気がさしてきた。

 その時、にゃあという鳴き声が聞こえた。前を見ると、ルルシーがすぐ近くに来ていた。丸いつぶらな瞳で、海斗をじっと見つめている。

 見つめ合う両者。だがルルシーはすぐに目を逸らし、その場で毛繕いを始めた。

 そんなマイペースな黒猫を見ているうちに、海斗の頭にある考えが浮かぶ。立ち上がると、いったん家に戻った。




 しばらくして、孤児院へと向かい歩き出した。だが、その時になって町の変化に気がついた。

 通りのあちこちに、私服警官とおぼしき者が立っている。鋭い目付きで、辺りを見回しているのだ。さらに、マスコミらしき者の姿も目に付く。明らかに、ここの住人でない者が増えているのだ。

 それに反比例するかのように、ホームレスや酔っぱらい、お気楽な無職者や遊び人の姿は消えている。目立ぬよう、どこかでひっそり息をひそめているのだろうか。

 思わず溜息をついた。自分の生まれ育った町は、いつからこうなってしまったのだろう。寂れた下町であり、治安も良くはなかったが、それでも住みやすい街だった真幌市。ところが、今では戦場のような有り様だ。

 もっとも、こんな有り様であるから、何の迷いもなく出て行くことが出来る。

 孤児院に到着すると、ウサギ小屋へと向かう。そこには明日菜がいた。彼女はいつもと同じく、ウサギ小屋の前でしゃがみこんでいる。大きな瞳で、ウサギをじっと見つめていた。

 だが近づいて来る海斗に気付き、嬉しそうに立ち上がった。


「あっ、海斗が遊びに来てくれたの」


 そう言って駆け寄って来た明日菜の髪を、くしゃくしゃに撫でる海斗。


「なあ明日菜、今日は一緒にお出かけしないか?」


「えっ、どこに?」


 不思議そうな顔で尋ねる明日菜に、海斗はにっこり微笑んだ。


「うん、ちょっとな。たまには外で遊ぼうぜ。お菓子くらいなら買ってあげるからさ。お前に、新しい友だちを紹介したいんだよ」


「うん、わかったの」




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